until the day
水流が身体の上を行き過ぎ、水底へと沈んでいくのを感じた。視界は暗く霞んで、なにも見通すことができない。
ぼこりと浮かんだ泡に、誰かの顔が映る。終ぞ届かなかった光の向こうに手を伸ばす。灰色の影をまとった指先は、砂塵を掴むばかりだった。
また、失った。
いや、ずっと、失っていた。
絶望は重りになり、身体を深みへと導いていく。反転した深海の果てに、青い火が灯る。葬列を彩るかのように並んだかと思うと、寄り集まり視界に飛び込んでくる。
それはとんでもない熱さだった。思わずむせ返り、肺から喉から大量の水を吐き出す。砂にぼたぼたとこぼれる染みを見て、自分が波打ち際で横たわっていることに気がついた。
空は澄み渡って遠くの山まで見えるほどに晴れて、風が容赦なく濡れた身体に吹きつける。けれど、あたたかな陽光が温度をとどめてくれている。
自分の手のひらを見つめた。ぼろぼろに剥がれ傷だらけで、何も持ってはいなかった。その手で、すぐそばの砂をつかんで宙に浮かべた。指を開けば、細かな砂粒が風にさらわれていく。
その砂煙の行く先を、ただどこまでも見つめていた。
目覚めは、波の音とともにやってきた。
アレクセイは慎重に体を起こし、簡素な寝台から降りる。もうこの小屋の中でなら、杖を使わずとも歩けるようになっていた。それでも、小屋というには少し広い家屋だ。一応の割り当てられた牢獄としては、あまりにも整いすぎているといえる。
部屋を数歩歩けば、窓を開けて縁側に出ることができる。朝靄のなかに広がる一面の海がアレクセイを出迎える。ぼうっと、しばし放心してつめたい風に吹かれる。
帝都にてしばらくの拘留の後、アレクセイはこのユルゾレア大陸南方に送られることとなった。目的は、帝国・ギルド双方が関わるこの地での精霊術計画に従事することだ。手足の後遺症から資材を運ぶなどの身体労働が難しいために、もっぱら研究者たちとの計画策定や、精霊術実験への参加が主な労働となっていた。
「ふわーあ……あれ、あんたもう起きたの」
縁側からつながる隣の部屋に、口を大きく開けたリタ・モルディオが立っている。ずいぶんと眠そうだ。
「モルディオ……君は結局、そこで夜を明かしたのか」
「あんたが隠してた資料と、他の文献を照らし合わせてたらいろんなことが分かって、忘れないうちに理論を整理してまとめてたのよ」
「それで、成果は」
「基本的な部分は自分なりにまとめられはしたけど、これを実践に応用できるかっていったらすぐには難しいかも」
リタはばたばたと縁側に出てきて、手すりに上半身を預けるようにもたれる。
この小屋から丘をくだって森を進んだところに、計画参加者や研究者たちなどの拠点としてキャンプ地が築かれている。本来、リタはそこに寝泊まりするはずなのだが、なぜかこの小屋に入り浸ることが多い。
「あとで、時間あるときにあんたにも見てほしいんだけど」
「今日の予定が終わったあとでなら、構わない」
「それにしても、心臓魔導器ってメチャクチャよね。調べれば調べるほどそう思うわ。あんたもずっとアレ見てきたんでしょ?」
「そうだな……」
初めて見たときは、大いなる人類の可能性だと感じた。これで医療技術はまた進歩すると確信した。だから、試作型を引き取り、手元で管理とさらなる研究を行うことにした。けれど、倫理的にどの段階で用いるべきなのか、人体に魔導器を埋め込むことの是非などもあり、実用化の目処は立たなかった。
あの日、砂漠に散った夢の跡を目にするまでは。
「こんな形で今も残されるとは、予想がつかなかったがな」
「精霊化でほとんどの魔導器が使えなくなったけど、あれだけは残さなきゃいけなかったから……」
真剣な横顔に視線をやる。心臓魔導器のことを話すとき、リタの口調にはいっそうの熱と切実さがこもる。自分が入れ上げ、用いて、その選択の是非を悩み続けたものに対して、そんな様子を見るのは不思議な心地だった。
「魔導器ネットワークを用いて、各地の魔核を結びつけて、災厄に対抗したのだろう。よくも短期間でそこまでの策を練り上げたものだ」
「ずっと寝てたあいだのことなのに、よく知ってるわね。めちゃくちゃ変わりすぎて、混乱するくらいじゃないかって思うけど」
「毎日部屋にやってくるお喋りな奴がいたからな」
「あー、あいつってなんかよくわかんないときに無駄にぺらぺら喋るわよね。うるさいってくらい」
呆れたように息をつくリタに、アレクセイはふっと笑みをこぼす。
「昔の奴は……ずっと私の前ではろくに何も話さなかったよ」
「え、ああ、シュヴァーンの話? まあそれも想像できるけど……ちょっと、詳しく聞かせなさいよ」
いきなり詰め寄ってくるリタに困惑していると、部屋のほうから声が飛んできた。
「なになに? おっさんの噂話?」
にやりと笑うレイヴンが窓際に立っていた。
「ちょっと、こんな朝っぱらから何しにきたのよ」
「おっさんはキャンプ地に届けもんがあったから、ついでに様子見に来ただけよ。リタっちこそなんでまたここにいんのよ」
「あたしは文献調査に部屋借りてただけよ。騎士たちにも許可取ったし」
「キャンプでやればいいじゃないの」
「キャンプに持ってきた文献置いてたら、荷物が多すぎるからどかせって言われたのよ! あたしの研究には今もっとも重要なものなのに……むかついたからここでやってるのよ」
「そりゃあそう言われるわ……」
部屋にどっさりと置かれたリタの荷物を見やりながら、レイヴンは乾いた笑いで首を振る。
アレクセイの片足には装置が付けられている。拠点から一定の距離が離れると、高熱が発生するというものだ。これにより、アレクセイは拠点周辺での行動に、一定の自由が許可されている。
リタはこの装置の開発にかかわった一人でもある。そのために、彼女が自由にここを訪れようとも、おそらく監視の騎士たちも強くは出られないのだろう。
「あなたも大変ですよね……うちのリタっちがすみません」
「なによその言い方、あんたのになった覚えはないわよ」
騒がしいふたりに、アレクセイは思わず口元を緩めてしまう。胸のうちがやわらかな水に似たものに満たされて、背を照らす朝の白い光の温度をはっきりと感じた。
「そうだ、まだ迎えがくるまで時間あるわよね。あんたに聞きたいこと、今まとめるわ」
そうして慌ただしく部屋の中に駆けていくリタを見送る。
「あー……なんか、しょっちゅうこんな感じですね」
「流刑の身とは思えない状況だな」
「まあ、あなたが楽しそうなんで、よかったです」
微笑んだレイヴンに言われて、はたと気がつく。この感覚は、楽しいと呼ばれるものだったのかと胸に手を当てる。
規則正しい鼓動のなかに、熱が灯るのを感じる。それが炎のように猛り狂ってすべてを焼き尽くすのではないかと震えをおぼえた。胸を満たしたものが濁流のようにすべてを呑み込んでしまわないかと怯えが襲った。
すぐそこにいる、いとおしむべき夢と未来の欠片が、指先の向こうで砂塵のようにどこかへ散ってしまうのを、心から恐ろしいと思った。
そうか、とアレクセイは理解する。きょとんとこちらを見るレイヴンに、心配ないと首を振ってみせる。
「じゃ、朝ごはんでも作りますかね」
そう言ってレイヴンはアレクセイの肩にやさしく手を置く。部屋の中に戻っていくと、また何事かリタと言い合っている。
――これが、幸福というものか。
アレクセイは欄干に掴まり、ふらりと折れそうな膝を支えた。
部屋から自分を呼ぶ声が聞こえる。打ち寄せる波音が、背から追いかけるように響いてくる。
胸が軋むように痛み、体がばらばらにほどけてしまいそうになりながら、アレクセイはゆっくりと、おぼつかない足を踏み出した。