いつか解けるまで 7

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2024-02-29 08:00
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 7



 坂をのぼる足がずっしりと重い。地面に敷き詰められたハルルの花びらを踏みしめて、レイヴンは鉛のような体をのろのろと引きずっていく。
 リタに会うのは、レイヴンが倒れてハルルに運ばれたあの日以来だった。今さら合わせる顔がないとずっと思い続けていたのに、こうして会いにやってきてしまった。いつかはそうしなければならないと思いながら、永久にその時が来なければいいと思っていた。
 いつだって、自分がどんなに愚かであるかを正面から見つめるのは恐ろしい。鏡を見て、自分が誰なのか分からなくなるときのように。
 街の奥地にたどり着き、リタの小屋の前に立つ。何度もこの小屋を訪れた。その度に扉をノックする手が少し震えたものだった。今は笑いだしてしまいそうなほどに全身が震えていた。自分がこれほどにまで臆病な人間だと知って、ほんとうに乾いた笑い声がこぼれた。
「……なに、人の家の前で笑ってんのよ」
 背後から声がして、硬直する。さく、さく、と軽い足音がレイヴンの脇を抜けて、黄色いリボンがさらりとなびいてレイヴンの腕をかすめていく。
「ひどい顔」
 リタは、やわく目を細めて言った。


 アレクセイと再会したあの夜は、不思議なことだらけだった。
「時に、君は……リタ・モルディオと会っているのか」
「は?」
 あの塔の謎の隠し部屋で、アレクセイはそんなことを聞いてきた。
「君の心臓魔導器は、今は彼女が診ていると聞いた」
「……そんな話、誰から聞いたんですか」
 そう聞き返すと、アレクセイは黙りこむ。検診のことを知っているのは、かつてともに旅をした面々のみだ。その中で現在アレクセイと直接会える者はフレンくらいだ。レイヴンが帝都を離れている間に、彼と話をしたのだろうか。
 レイヴンはもどかしさに溜め息をつく。久方ぶりに話したというのに、意味のある会話がちっともできない。
「約束って、なんなんですか? 俺がいない間に、何があったんですか……分からないことだらけで、こっちは混乱してるんです……説明してもらえませんか」
 うつむいたままのアレクセイに詰め寄る。すると、その体がばさりとくずおれる。とっさに手を伸ばして倒れる前に支えることができた。
「……部屋に戻る」
「分かりました。こっち支えたら、歩けますか?」
 アレクセイは弱々しく頷く。間近だとひどく疲れが見えた。それほどになるまで、この部屋でいったい何をしていたのか。何か目的があって、部屋の外に出たのか。
 廊下に出て、アレクセイの部屋までようやく戻ってくる。手足に力の入らなくなったアレクセイをなんとか寝台に横たえる。
「君は、もう行け」
「いや、けど」
「代わりというわけではないが、頼みがある」
「なんですか」
「リタ・モルディオを連れてきてくれ」
 レイヴンは顔をしかめた。なぜ先ほどから彼女の名前が出るのか。
「……なぜ?」
「さほど急ぐ用ではない。だが、頼む」
 そう言って、アレクセイは白いまぶたを閉じた。少しだけ苦しげな表情で、しかし存外穏やかな寝息をたてる。
 レイヴンはうす明るい部屋のなかでぼうっとアレクセイの寝顔を見下ろした。壁の燭台の炎はとうに消えて、代わりに白い光がうっすらと細くさしこんでいた。



 リタの小屋の中は、最後にレイヴンが来たときよりはいくらか整頓されているように見えた。奥のほうには積まれた本が崩れかけているのが見えるが、玄関側はいくつかの装置めいた置物以外こざっぱりとしている。
「預けてくれてた土産、受け取ったわよ。ありがと」
「う、うん……よかったわ」
「元気だった? しばらくダングレストにいたって聞いたけど」
 リタは簡易な精霊術装置で淹れたお茶を出してくれた。床に腰を下ろして、それを受け取る。
「あ、そう……ちょっとの間ね、この前戻ってきたとこ」
 あの後、ハリーに急いで手紙を書いた。しばらく待機を言いつけられていたから大きな問題にはならないだろうが、帝都で火急の任があると送っておいた。騎士団には、ギルド方面の手が空いたことによる帰還だという言付けをしておいた。
 何はともあれ、レイヴンには最優先の任務ができてしまった。リタに会い、アレクセイの元へ連れていくこと。そうして、アレクセイの言葉の意味を今度こそ確かめなければならなかった。
「リタっち……あの」
 それよりも先に、言うベきことがあった。決心して顔を上げると、リタがいつの間にかごく近くに寄ってきていた。
「レイヴン」
 めずらしく名前を呼ばれて、どきりとした。まるで、リタのほうがこれから謝罪の言葉を述べるような、張りつめた表情をしている。
「診て、いい?」
 リタはおそるおそる尋ねた。慎重に、わずかに瞳を震わせてこちらをのぞき込むリタに、レイヴンは胸がつまる思いがした。いつも問答無用で開始されたこれまでが、ひどく遠く、なつかしい。
「うん……お願いするわ」
 そう答えるだけのことに、とても大きな気力を振りしぼった。


 明滅する赤い光が、リタの真剣な表情をほのかに照らし出す。制御盤を細い指が巧みに操るのをレイヴンはぼうっと眺めている。
 心臓魔導器の制御盤に並ぶ文字の意味を、レイヴンは知らない。一度自分で調整しようとしてみたことはあったが、うまく操作することはできなかった。そこをアレクセイに見つかって、制御盤には触れないようかたく言い付けられたものだった。
 ――思えば、あのときのアレクセイは、ちょっとリタっちに似てたな……。
 己の目的のために、と言いながら、こちらの身を嫌というほど気遣ってくる。今も昔も、逃げ出したくなるくらいに。
「リタっち、ごめん」
 手元のノートと制御盤を見比べていたリタが、顔を上げる。
「俺、なんも分かってなかった」
「何が?」
「リタっちの気持ちとか、自分のこととか」
「そんなの、簡単に分かるもんじゃないでしょ」
「リタっちにとっても、難問?」
「あたりまえよ」
 リタは答えながら、ノートに筆を走らせる。
「あれから、何かやらかしてない? 無茶な技発動させたりとか、倒れたりとか」
「そういうことはなかったかな、大きい戦闘任務もなかったし」
「そう……よかった」
 ほんとうに、心から安心したように目元をゆるませた。レイヴンはそれを見てどうしようもなく居たたまれなくなった。今診てもらっているはずの胸のあたりがおかしな感覚に包まれる。そんなときに何をすればいいのか。体の内側で熱が跳ねて、はじけた。
「ありがと、ね」
 リタの丸い瞳がくるりと瞬く。誰かに命を預けることは覚悟がいる。この身を縛る異物をさらすことにも、ためらいはずっとある。けれど、こうして己の身を案じてくれる存在がそばにいることの意味を、レイヴンは長くかえりみずに生きてきた。だからこそ、今は伝えなければならないと思った。今度こそ、伝えたかった。
 検診が終わり、レイヴンは服を整えながらテーブルの上の茶を一口飲む。しばらく両手でカップをぎゅっと包んでから、用具を片付けているリタに話しかける。
「あのさ、リタっちに、頼みたいことがあって」
 頼みっていうか伝言っていうか、とレイヴンがぼそぼそ言っていると、用具を手にテーブルのそばに戻ってくる。
「なに? 頼みって」
「ええっと……その、ね」
 いざ口に出そうとすると戸惑いが勝つ。いきなりこんなことを言いだして、リタはどう思うだろうか。けれど、自分のためにも、伝えなければならない。
「アレクセイが、リタっちに会いたいって……一緒に来てくれない?」
 リタはほんの少し目を丸くして、しかしすぐに首を縦に振った。
「わかった、行くわ」
「そんなすぐに決めていいの?」
「あたしも会いたかったから」
 リタの決断が早いのはいつものことだ。彼女はほとんどの場合、決断の意味を短時間で理解し、自分が取るべきと判断した選択を迷わない。
 けれど、あまりにもすっぱりとした態度にレイヴンは違和感をおぼえる。驚いた様子がほとんどなかった。まるでアレクセイの伝言を予期でもしていたかのように落ち着き払っている。
「あんまり……驚かないのね」
「なにが?」
「アレクセイに、いきなり会いたいなんて言われて、もうちょっと、なんで? とか言うかと思ってたから」
 リタはテーブルの上のカップを取って、こくりこくりと喉を鳴らす。もうずいぶん冷めているだろう。
「この前会ったときに、次はあんたと来るように言われたから」
「……へ?」
 こともなげに言われて、ぽかんと口が開く。
「会ったって……いつ?」
「先週くらい」
「どうやって」
「空から侵入した」
「そ、空からぁ!?」
 リタはぴっと玄関脇に置いてある装置を指さす。縦長の直方体のような形をしており、あちこちにレバーやスイッチのようなものがある。
「もしかして、あのヘンテコなやつで飛んだ……とか?」
「ヘンテコってなによ、あたしが実験に実験を重ねてやっと実用に使えそうなくらいになったんだから」
「そんなヘンな発明品、いつの間に作ったの……」
「だから、ヘンって言うな!」
 リタにポカリとやられたが、レイヴンの驚きはおさまらない。空から、飛んで、侵入した。リタが秘密裏にアレクセイと会っていた。事態がちっとものみこめない。
「なんで、そこまでして……?」
 リタは苦々しく顔をしかめる。
「話がしたかったから」
「なんで」
「知りたいことがあったから」
「それって、何」
「あーもう」
 首を振って、リタは盛大にため息をつく。
「尋問みたいにいきなりあれこれ聞かないでくれる? あたしのこと騎士団にでも突き出すの?」
「や、そんなことしないけどさ、いやでも」
「あたしからいちいち説明するの面倒だから、とりあえず本人に会ってからにしてくれない? そのほうが話が早いでしょ」
 何が早いのかも分からなかったが、レイヴンはひとまず頷くほかなかった。自分の知らないところで、何かが動いている。それが何なのかさっぱりつかめず、心がざわつく。
 リタはさっそく帝都に発つ心づもりのようだった。すばやく旅支度をはじめるリタを目で追いながら、レイヴンは複雑な思いに駆られていた。



 塔に来るのはあの夜以来だった。こんな風にリタを伴って長い階段をのぼるのは、不思議な気分だった。
 何度も通ったぼんやりと明るい廊下を、ゆっくりと進んでいく。思えば、資料室のような隠し部屋でアレクセイを見つけたとき、少し前にアレクセイ以外の誰かの気配があったように思えた。それがリタだったのではと思い当たったが、直接本人に尋ねるのは抵抗があった。逆にあの日レイヴンがアレクセイに会いに行ったことを、知られるのが怖かった。
「入りますよ」
 声をかけて、重い扉を押し開ける。アレクセイは体を少し起こした状態で寝台にいた。レイヴンたちの来訪に驚いた様子もなく、じっとこちらに視線を向ける。
「来たか」
「約束どおり、連れてきましたよ」
 室内を見回しながら入ってきたリタは、レイヴンの横にやってきて寝台のそばに立つ。
「あたしを呼んだってことは、承諾してもらえたってことでいいのよね?」
 リタに問われて、アレクセイはゆっくりと瞬きをする。
「君の言い分にも一理ある、そう判断しただけだ。しかし、現状私にできることは少ない。ここで講義を開くわけにもいくまい」
「わざわざこんなところであんたに何かしてもらおうとは思ってないわ。あたしはもっと先の話をしたいの」
「だが、いったいどうするというのか」
「ちょっとちょっと、何の話?」
 まったく話についていけず、割って入ってしまう。困惑するレイヴンを見て、二人が何か意味ありげな視線を交わす。
 ――なんだ? この空気……。
 いつの間にか、リタとアレクセイのあいだに二人にしか通じないものが渡されていることにレイヴンは動揺した。先日リタがここに侵入したというが、まだ方法も目的も結果も何も聞かされていない。そのときに、いったい何の話をしたというのか。
「あんたにも協力してほしいの」
「協力?」
「アレクセイを、ここから出すために何をすればいいか」
 リタの言葉に、レイヴンはしばらく呆然と動けなかった。それは、レイヴンがずっと考えてきたことだった。この部屋でアレクセイを見つめながら、何度も何度も息が詰まりそうなほどに考えた。
 頭を殴られたような衝撃とともにレイヴンは気付いた。この人のため自分にできることをしなければと思いながら、その実何も考えていなかった。日々会いにきて世話をするだけで、アレクセイのこれからを拓く具体的な方策になど、一切思い至っていなかった。
「な、んで……リタっちが?」
「あたしも、アレクセイがこのまま死罪なんかにはなってほしくないって思うからよ」
「あなたは……どうなんですか? どう思ってるんですか」
 うろたえたままアレクセイのほうを見ると、思案するように自分の手の甲に視線を落としている。
「私は……どうすべきなのか、まだ分からない。だが、真に、今度こそ、君があの時どういう心境だったのか……思い知った」
 そうしてレイヴンを見つめた。虚ろに揺れていない、意思ある者の瞳だった。
「なれば、こうして生き延びた私に、何ができるのか……それを、考えねばならぬ局面に来たと、思ったのだ」
 アレクセイは言葉を迷いながら、歯切れ悪く、それでも重い息を吐ききるように最後まで話した。こんな風にたどたどしく話す彼を見るのは初めてだった。
 戸惑いと感慨が混ざりあい、レイヴンは唇を震わせる。こんな風に、もう一度新しい世界を見つめてほしいと、今度こそただ生きるために立ってほしいと願っていた。けれど、レイヴンはアレクセイのそばでまた同じことを繰り返そうとしていただけだった。どうしたらいい、その問いで止まり、何もしようとしなかった。
「あなたが……そう思うようになってくれたっていうなら、俺は、それで……それだけで十分です」
 自分の手では、到底この人に届かない。まともに償うことすらできない。こみあげる痛みを飲み込んで、レイヴンは微笑んだ。
「そんで、なんだっけ……処遇がどうなるかって話よね。俺がしばらく離れてた間に、あなたが起こしたらしきなんやかんやの事件は、どうなったんですか?」
「私が掴みかかった側仕えの者には、先日、直接詫びた……様子の変化した私を、逆に不信に思われている頃だろう」
「何、あんたそんなことしてたの? いくら死にたいからって、めちゃくちゃやってくれたわね」
 リタは驚き呆れた様子で首を横に振る。
「俺が調べた限り、そいつには幸い怪我とかはなかったみたいだけど……ほんと、リタっちに同意するわ」
 アレクセイはばつの悪そうな顔で、心なしかうなだれている。
「まあ、あんたも死にたいからってめちゃくちゃやったことある側だけどね」
「いや、あの……それは、うん……ごめん」
 リタに矛先を向けられて、レイヴンも同じようにうなだれることになった。
「信用が下がってるっていうなら、ますます何か手を打つ必要があるわね。そもそも、アレクセイの処遇ってどういう風に決まるわけ? 帝国法にのっとって、皇帝が判ずるの?」
「罪人への裁きは、皇帝と評議会が中心となって決められるはずだ。俺にもはっきりしたことは分からんけど、現帝国法の解釈と皇帝陛下の様子からして、死罪以外の道がない……ってわけじゃないと思う。例えば、罪人を帝国で雇って労働させる形で刑を執行したこととかは、これまでいくつかあったらしいし」
 ヨーデルがアレクセイの処遇に悩んでいること、罪人を帝国が貴重な労働力として活用する例があったこと、この二つはレイヴンも把握していた。問題はその糸口からどうやって結果を導くかどうかだ。
「けど、あなたがこの前やらかしたことで陛下の不信も買ってるかもしれない。そんで最大の問題が評議会だな。あちらさんがあなたの情報をどこからか掴んで動き始めてる可能性は十分ある。評議会内で死罪にすべしとの意見が揃った場合、皇帝陛下もそれを覆すことは難しい」
 ヨーデルと騎士団の調査により、資金を横流ししていたり、一部の貴族に便宜をはかったりしていた者などは評議会員の任をすでに解かれている。現在は目立った動きもなく一応は穏便な組織として成り立っているといえるだろうが、騎士団の扱いに不服を抱いている者や、調査の手を逃げおおせた者も、いまだ一部在籍している。
「上手くやんないと、まず、元騎士団長を秘密裏に治療してたってことだけで、一部の評議会員にとっちゃ格好の材料になるだろうね……騎士団を失脚させる一手になるかもって」
「事は……私一人の問題ではないということか」
 腕組みをしながらじっと聞いていたリタが、はっと顔を上げる。
「そう、そういえば……ヨーデルが、あんたの持ってる評議会の情報が欲しいって言ってたわ。評議会の体制を変えるためにって」
「得た情報を元に、調査をやり直すってことかね……」
 アレクセイはふっと自嘲するように笑った。
「罪人の証言がどこまで役に立つものか。第一、あの者たちを追い落とせるような有用な情報が手元にあれば、こちらも苦労はしなかった……」
 苦しげに顔を覆うアレクセイに、レイヴンは唇を噛む。かつて評議会員たちの策で騎士団本部が燃え落ち、大怪我を負ったアレクセイの絶望した眼差しを思い出す。そうしてアレクセイの指示で、何人もの標的をこの手にかけた。命じられるまま、何の感情を抱くこともなく、任務は淡々と遂行された。
「……こうして論ずることに、やはり意味などない。私は多くの民を殺めた。数々の人間を己のために利用した。愚かにも災厄を蘇らせた。その事実は、私が死のうが生き返ろうが覆ることはない」
 レイヴンと同じに、さまざまなことを思い出したのだろう。拳をぶるぶると振るわせながら、アレクセイは呻いた。
「私は、取り返しのつかない罪を重ねた、大罪人なのだ」
 言葉が重く、重く、レイヴンの心にのし掛かる。アレクセイが大罪人というのなら、自分はいったい何だというのだろう。アレクセイの手足となり重ねた罪は、その持ち主だけに問われるものなのだろうか。
 静まりかえった部屋で、ようやくリタが口を開く。
「だからって、何もせずに待つっていうの? そんなの、結局自分のやったことから逃げてるだけじゃない」
「今さら罰を逃れるために画策などするほうが、よほど浅ましい」
「どんな罰にせよ、あんたが今どうしたいかが肝心なんじゃないの? それを命奪ってハイおしまいなんて、どう考えてもおかしいから話してるのよ」
 アレクセイとリタの言い合いをよそに、レイヴンは一人ずっと考え続けていた。何が正しいのか。何が罪だというのか。
 世に混沌を招き、多くの犠牲を生んだ者は、大罪人と呼ばれる。それでは、その者のそばにいながら何もしなかった者は、どのように呼ばれるのだろう。大罪人の手足はそれ自体意思を持たないために、すべて大きな罪の一部としてみなされるのだろうか。
 誰かの手足に甘んじた日々はとうに終わった。レイヴンはもはやアレクセイの所有物などではなく、一人の命ある人間として生きることを選んだ。それならば、この身に宿る罪はレイヴンのものであり、また、レイヴンだけのものではない。
「俺は……あなたの名のもとで多くの罪を重ねました」
 言い争っていた二人が、ぴたりとレイヴンのほうを向く。
「命じられる通りに、何も感じずに、それが罪かどうかさえも考えようとしなかった……それなのに、今はこうして、のうのうと生きている」
「ちょっと、何言って……」
 怒りを見せかけたリタをそっと制する。ゆっくりと首を横に振るレイヴンを見て、リタはぐっと唇を引き結ぶ。
「あなたが死によって裁かれるというなら、俺も一緒に裁かれます。あなたの罪は、俺の罪でもあるのだから」
「何を、シュヴァーン……」
「違いますか? あれだけいろいろ命じといて、いざとなったら自分だけトンズラなんて、ずるいにも程がありますよ。不公平です」
 アレクセイは顔を歪ませ、唇を噛みながら体を震わせる。違う、そうではない、と口の中で呻くように呟いている。
「でも……俺は、こんな身なのに、生きたいと願ってしまった。大切なもののためにまだこの命を持ってここにいたいと思ってしまったんです。あなたの言う通り、浅ましい人間です」
 顔を上げたアレクセイに一歩近づく。手足でも道具でも従者でもなく、彼の正面に立てる対等な人間として話をするために、今度こそ本当に伝えたかったことを少しでも届けるために。
「あなたがこの罪を抱えて生きることを選ぶというのなら、俺も同じ道を行きます。俺は……あなたと一緒に、この罪を償いたい」
 真っすぐに、震えながらアレクセイを見つめる。ずっと見ようとしてこなかった、見つめることなどできなかったその瞳は、ひとりぶんの人間の迷いと恐れと、ひとかけらの意思をたたえて揺れていた。
「私は……おまえの、罪を……」
 アレクセイは額に手の甲を押し当て、逡巡するように視線をさまよわせる。それをじっと黙って見ていたリタが、そうよ、とふいに呟く。
「あんたが死ぬことを望んでない、生きて償ってほしいって思ってる人間は、必ずいるわ。それを証明すればいいのよ」
「リタっち、証明って……」
「そういう声をはっきり形にして突きつけたら、帝国の態度も変わるかも」
 リタの提案にはっと気が付く。これまでに罪を逃れた者、減刑された者は何らかの後ろ盾や圧力によってそうなっていた。処分を回避してきた評議会員も数々の根回しがあってこそのものだった。
 それらを逆に利用して、正当な形式で裁定に関与することで、流れを変えられる可能性があるのでは、とレイヴンは思い至る。
「罪人の処遇について、人々の声を……嘆願書の形で提出すれば」
「それよ! いろんな組織とかも合わせてみんなの声を集めれば、無視できない力になるかも」
 アレクセイはレイヴンとリタを交互に見つめながら、力なく首を振る。
「私の処遇について、極刑以外を望むものなど、いるとは思えない」
「あんたが諦めてちゃ話になんないでしょ! 現にあたしたちはあんたに生きてほしいって思ってる。他の、あんたと戦ったみんなも、今のあんたを見ていろんなこと考えてるのよ」
 だが、と苦しげに首を振りつづけるアレクセイの肩に手を置く。ずいぶん痩せて温度の低い感触が、レイヴンを奮い立たせた。
「俺たちと一緒に、あなたがこれからどうしたいのか、考えませんか」
 遅すぎることなどない、そう自分に言い聞かせる。心のうちに熱が灯る。まだ取り返しがつく。死んで、生き返って、まだ生きることを許された。罪を重ね、何もできないままに死なせてしまっても、それでもまだやり直せるというのなら、その機会を逃すわけにはいかない。
「……君たちの言い分は分かった」
 アレクセイは長く息を吐き出し、寝台に背を預ける。
「もう、四の五の言うのはやめにしよう。すでに君たちをこの部屋に招いた時点で、私が取るべき行いは決まっていた。今さら御託を並べるものでは、なかった」
 光さす格子窓のほうを眺めながら目を細める。白い昼間の陽光が、この部屋をいちばん明るく照らす時間だった。
「私の罪が何であるのか、そうして私は何であるのか……君たちに述べられる答えを、考えるとしよう」
 アレクセイの言葉を聞き、リタはレイヴンのほうを見てふっと笑った。安心したような、こちらを安心させるような、そんな笑顔だった。
「あんたが生きなくちゃいけないって、ちゃんと分からせてあげるわ」
 びしと指を突きつけるリタに、アレクセイはいまだ戸惑ったように眉根を寄せている。しかし、その表情は先ほどより心なしかやわらかく見えて、張りつめた悲壮感のようなものは少し薄れているように思えた。
 ――これで、よかった。
 それを見て、心からの微笑みが浮かぶ。過ぎた幸福だと思うほどに、体が崩れおちそうに覚束なかった。同時に何かが抜け落ちたかのようにうつろな感覚が白く満ちていた。暖かな日に見る夢のように、霞んでいた。


「さっそく、ヨーデルたちにも相談しないとね」
 アレクセイの部屋をあとにし、レイヴンとリタは長い廊下を歩いていた。勢いよく早足で歩いていくリタの背を、ぼうっと見つめる。
「おっさん? どうしたの」
 のろのろと歩調の遅いレイヴンに、リタは首を傾げて戻ってくる。不可解そうに見上げてくる表情を目にして、胸のなかに言い知れない感覚がこみ上げる。
「リタっちは……すごいよね」
 レイヴンは、廊下の中央にある小窓のそばで足を止めた。白い床に、細かな光がわだかまって反射している。
「すごいって、アレクセイのこと? あたしは何もしてないけど」
「あんな風になるなんて、思いもしなかった。あの人にどんな魔術をかけたんだか」
「だから、何もしてないってば」
「じゃあ、なんで一人で、会いに行ったの」
 自分で思ったより低い声が出て、驚いた。結局まだ聞かされていないからといって、べつに問い詰めるつもりはなかった。けれどまるでずっとその理由を気にしていたみたいに、余裕のない聞き方をしてしまった。
 リタは、悩むように視線を逸らし、答えをためらっていた。
「いや、言えないってんなら……いいよ。無理に聞きたいわけじゃないし」
 心に反する言葉を口にしながら、レイヴンは自分の波立つ感情をなだめようとした。なぜこんな風になっているのか自分でも分からなかった。
「……嘘、聞きたくないわけ、ないでしょ」
 立ち尽くすレイヴンに距離をつめる。リタは、レイヴンの苦手なあの目をしていた。
「ごめん、でも今はやっぱり……まだ言えない。あたしが勝手にしたことだから、ちゃんとできるって確証を得てから、話したいの」
「なんか、やろうとしてることがあるってこと?」
 リタはこくりと頷く。
「ひとつだけ、言えることがある。あたしと、あんたの望みは同じってこと。だから、あたしはあんたと一緒に全力を尽くすわ」
「なんで、そこまでリタっちががんばるの? アレクセイと、そんな仲良かったわけでもないのに」
 あの二人のあいだの空気は、ただの互助関係というものではなかった。それがずっと心に引っかかっていたことに、今さら気がつく。
「もうひとつ、言えること……あたしの望みと、あいつの望みも……同じなの」
 リタは顔を伏せて、そっとレイヴンの胸元に頭を寄せる。心臓が少し、跳ねるように駆動したような気がした。
 しばらく廊下に反射した光をながめていたレイヴンは、ややあってリタの小さな頭に触れた。やわらかくさらりとした熱が手から伝わり、体が震えた。そうして、多くのことを思い知った。
 ――こんな風に、知らされてきたんだ。
 命が慈しまれるということ、生きてほしいと願われること。それを何度も繰り返し伝えられつづけたことを思い出した。
 それらはすべて痛みをもたらす罰であり、自分の命や世界をいとおしく思ってしまった引き返せない罪だった。レイヴンはもはや知ってしまった。繋ぎ止められてしまったこの命が、未来の話を語りたくなった日のことを。
 今度は自分が知らせる番だ。そばにあるこの温もりと一緒に、大切なものを見失わないように、成し遂げなければならなかった。
「リタっち、あの人のこれからのために……力、貸してくれる?」
 レイヴンの胸元でぎゅっと拳をつくって、リタは力強く頷いた。
「いまさら、当たり前でしょ」
 もっと早く、こんな風に言えばよかった。レイヴンは悔やみ、そして胸元のぬくもりを噛みしめた。それがなぜできなかったのか、いつから何をやり直せばいいのか、今はもうそんな問いに意味はない。
 過去は変わらず、罪も消えない。けれどまだ、終わりではなかった。



 それから一週の後、皇帝の名において、元騎士団長アレクセイ・ディノイアの生存と、その裁定を近日中に執り行うことが正式に発表された。テルカ・リュミレースの主要都市にはいち早くその報が届けられ、近隣の街にもすばやく話は広まった。
 人々は惑い、アレクセイという者がどのような人物であるのか、口々に噂しあった。なかには怒りを表明し、断じて許せないと声高に述べたものもいた。なかには、実際に彼が何を行ったのか疑問を持ち、知ろうと動くものもいた。

 記者たちによって、アレクセイの来歴や事件を引き起こした経緯が伝えられた。許しがたい数々の暴挙だと報ずるものもあれば、私利私欲のために動いていたのではなかった証拠が添えられたものもあった。これをもって、また人々の議論は紛糾した。
 新たな世界での生活が軌道に乗り始めた人々に、アレクセイの裁定がどうあるべきかという議題はさまざまな意見を呼び起こした。これまで、帝国の政や罪人の処遇というものをどこか遠い世界の出来事として考えていた人々も、日々アレクセイの一件について隣人と意見を交わしあい始めたのだった。

 レイヴンたちはそんな各地を奔走し、嘆願書のための署名集めを始めた。レイヴンはユニオン幹部としてそれぞれのギルドに呼びかけをおこない、自分の知るアレクセイの内情と自らの行いについて語った。リタは元魔導士や精霊研究家たちに、これまでのアレクセイの研究成果を提示した。
 エステルは城内で縁のある評議会員と話し合い、フレンは騎士団内でアレクセイの目指していた騎士像について語り、現騎士団長としての見解を表明した。
 ユーリとカロル、ジュディスは凜々の明星としてギルドの依頼でかかわった人々を訪ね歩き、アレクセイの処遇について意見を募った。
 パティはアイフリードの孫として、海精セイレーンの牙の海賊たちや顔の利くギルドに、ブラックホープ号事件とアレクセイの関係について語った。真実に驚くものたちへ、自分の復讐はすでに終わった、とパティは話したという。同じ大海原に生きるものとして、これからの航路を見届けたい、と。


 かくして、署名活動が各地でおこなわれるなか、アレクセイの裁定の日が少しずつ近づいてきた。
「どうですか? 活動のようすは」
 皇帝の執務室で、レイヴンはヨーデルと面会していた。騎士団の様子を見にきたところ、呼び出されたのだった。
「どうですかね……やはり反発もあって、十分な数には今少しってところかもです。それでもいろんなとこで皆まだまだ頑張ってくれてますし、俺も諦めずに粘ります」
 驚いたのは、元アレクセイ親衛隊の動きだった。生き残った者は騎士団を追放され、奉仕活動のため各地に散っていたのだが、署名集めの報を聞いてか、それぞれ独自に活動を始めたのだ。奉仕活動の傍ら、在りし日のアレクセイに受けた恩義について、近隣の街を語り歩いているという。
「本来、多くの民の声を拾うべき私が力不足なこともあって、苦労をかけます」
「そのようなことは……陛下はこの激動の時代で、素晴らしい手腕を振るっていらっしゃると思ってますよ」
 首を横に振りながら、ヨーデルは椅子から立ち上がる。
「私は、帝国一の権力という身に余る力を持ちながら、全能ではない……皇帝となってから、そのことを常に思い知らされています。そして、力を手にすることの自惚れと、己を見失いそうな危うさがずっと喉元に突きつけられている」
 昼下がりの晴れた空を見上げながら、若き皇帝は語った。
「彼もまた、私のような思いをしたのだろうかと、近頃は思うのです」
 ヨーデルは、悲しげな眼差しをレイヴンに向ける。
「そうして、また私も、あなたを追い詰めてしまった。あなたがまたもや、彼の元で一人思い悩むことを許してしまいました。彼の処遇やこれからの大局について考えるのであれば、もっと早くあなたとしっかり話をするべきだった」
「陛下、そのような、頭を上げてください」
 頭を垂れるヨーデルを、レイヴンは慌てて制する。
「一人でアレクセイの側にいると申し出て、いろいろなものを遠ざけて、それだけで何もしなかったのは、俺自身の選択です。自分の犯した過ちとあの人への償いを、すべて一人で抱え込もうとしてました。そんなこと、出来もしないのに」
 あの日、横たわったアレクセイを初めて目にしたとき、レイヴンは一人で檻に入り、自分の手で鍵をかけて囚われた。自らを罰して、満ち足りるためだけに閉じこもろうとした。
「俺は、あの人と同じ罪を抱えて生きます。だから今度こそ同じことを繰り返さないように……あなたが一人悩むことも、俺は止めなければならないし、止めたいと思ってます」
 レイヴンの表情を見上げ、ヨーデルは目元をやわく綻ばせた。
「ありがとうございます、私も……あなたたちと、民と、彼にも恥じない君主であるために、あなたたちの力を借りさせてください」
 レイヴンはゆっくりと頷き、窓越しの空を見上げた。鳥たちの群れが、抜けるような青空をわたっていくのを、目で追いかけていた。



 アレクセイの裁定の日、帝都には多くの者たちが詰めかけた。
 城に立ち入ることができたのはほんの一部だったが、そのほか裁定の結果を待つ人々は市民街の広場に集まった。裁定に関心を持ち、はるばる遠くの街から来た者もいた。

 城の議場にはヨーデルと副帝のエステル、評議会員たち、騎士団を代表してフレンとレイヴンや隊長格の一部が集められた。凜々の明星を初めとした仲間たちは、見届け人として議場の脇に並んでいる。場の中心に、二人の騎士のあいだ、アレクセイは静かに座っていた。
 民の代表としてエステルから、嘆願書が提出された。騎士団、元魔導士や精霊研究家たち、ギルドなどの団体のほか、さまざまな街から寄せられた声が集められていた。一つの賛同にとどまらず、多種多様な意見を集約したものとなったが、いずれも一点においては共通していた。
『アレクセイ・ディノイアに厳正な裁きを求めるとともに、死罪を除く賢明な判断を望む』

 評議会員の一部は声を上げた。帝都を脅かした重罪人を、生かしておくなど許されない。新世界の民たちの憂いを断つためにも、断じて死罪以外の処分はあり得ない。そう主張した。
 エステルは、その声に対するように嘆願書を読み上げる。帝都市民の一人が記したものだ。
『アレクセイがもたらした被害は甚大だと知った。帝都に魔物が入り込んだとき、自分の大切な家も失われた。到底許せるものではない』
 議場はざわめきに満ちる。そのままエステルは続ける。
『しかし、例え死罪が下っても、失われたものは元に戻らない。少し胸のすいたような思いがするだけだ。それならば、なぜ私の家は失われなければならなかったのか、彼がどのようにしてその行いに至ったのかを知りたい。彼にも、ともに考えてもらいたい』
 わずかに静まった場に、元アレクセイ親衛隊の者たちが証人として召喚される。彼らはアレクセイの計画に加担した経緯を語り、同時にアレクセイの語る理想に心から共感し、志を同じくしていたことを話した。主がこのような形で戻ったうえで再び命を絶たれれば、己が罪を償う機会も絶たれてしまう、と口々に訴えた。

 さまざまな議論や訴えの後、ヨーデルがいよいよ口を開く。嘆願書はすべて目を通し、民たちの声を確かめたことを述べる。
 そうして、一つの紙束を取り出して言う。これは、評議会員より提出された、アレクセイの死罪を望む嘆願書であると。
 皇帝の判を待ち静まり返っていた場が、一気に騒がしくなる。見届け人の仲間たちも、顔を見合わせている。騎士たちの制止を待って、ヨーデルは再び話し始める。

『帝都ならびに世界全体を混沌に陥れた、許しがたい暴挙の数々は、世界が大きく変化した今でも記憶に新しい。それらを私たちはどのように考えるのか、ここに機会が訪れた。
 彼がこの先どうあるかは、この世界で私たちがどうあるべきかに大きく関わるものだと考える。新たな世界で彼の償う機会を与えるのか、彼の命をもって、今ひとたび新たな世界へ舵を切るのか。
 提出された証拠や証言から、彼の行いは必ずしも身勝手な私利私欲によるものと判断できない点も存在する。しかし、何かを企むときにいったいどこからが私利私欲と呼べるのか、独りよがりな行いはいずれも私利私欲とみなすべきではないのか、といった論点もある。彼らを陥れた者たちにより、凶行に走ることを余儀なくされたという声もある。
 しかし、民の訴えやこれらの点をもっても、彼が重罪であるという事実は覆すことができない。彼の所業により、帝国が、世界が受けた痛みは到底計り知れないものであるといえる。

 だが、これらは今生きるすべての者たちにも関わる罪であるとも考える。彼の行いを見過ごした者、世界の惨状から目を逸らしていた者、そうして積み上げてきた罪が彼の身に集約される形となったのではないか、と私は考えている。
 私たちが知らず積み上げてきた罪から生まれた、この新しい時代へ、今一度どう向き合うべきか。一人一人がその問いを胸に抱くときではないか。

 人の命はひとつきりであり、死罪も罪人ひとりにつき一度しか下すことはできない。その一度きりの判断を下すのは、少なくとも今ではない。
 彼の罪を過去にせず、未来への礎とするために、彼を帝国の名のもとで無期刑に処し、厳重な監視のもと、新たな世界のために従事させるものとする』

 水を打ったように静まった議場で、裁決が取られる。
 アレクセイは、顔を覆っていた両手を下ろし、視線を上げた。
 その瞳が、涙に濡れているのをレイヴンは見た。



 そんな裁定の前夜、レイヴンはアレクセイに会いに、一人塔にのぼっていた。
 アレクセイは杖を手に、窓辺で夜空を見ていた。部屋にレイヴンが入ってきたのに気がつくと、渋い表情でこちらを見やる。
「また来たのか。昼間もモルディオと来ただろう」
「慌ただしい時間にリタっちに引っぱられて、結局さっさと帰っちまったんで」
 昼に来たときは、ほとんどリタがアレクセイと話していた。レイヴンはそれを後ろからながめていたが、以前より心に引っかかるものはいくらか減っていた。研究者気質で馬が合うのか、率直に意見を交わし合う二人の姿は、時に仲睦まじい親子のように見えた。
「明日……ですね」
 窓を見上げるアレクセイの横顔が、月明かりに白く照らされる。
「最近は、あなたが城内でどこにいたとか何をしてたとか、そんな噂で持ちきりですよ」
「単に城内を見て回っていただけだ。様変わりしたところも多いと聞いたのでな」
 アレクセイは監視の騎士たち付きで、侍従たちに混じって城内の細々とした仕事を手伝っていたという。侍従たちはたいそう恐れおののいたというが、繕い物の仕分けや備品の分類などの速度は目を見張るものがあったらしい。
「アレクセイ・ディノイアの印象も、ずいぶん変わったでしょうね」
「死罪を逃れるために小賢しい真似をしていると、そのような声も聞こえた」
 アレクセイは右足を引きずりながら寝台に戻っていく。体の状態や意識はすでにかなり安定したが、手足には麻痺と痛みが残り、この先回復の見込みがあるか分からないと医者から聞いた。
「言わせておけばいいんですよ。あなたのことは、知るべき奴が知ってる」
 扉近くの壁にもたれて立っていたレイヴンに、視線が向けられる。
「何か、あるのか」
 レイヴンはふっと笑って、首を左右に振りながら寝台に近づく。
「用がないならさっさと帰れってことですか」
「言いたいことがあるならすみやかに言え」
「単に、あなたと話がしたかった、それだけです。いけませんか?」
 アレクセイは顔をしかめ、何も言わず溜め息をついた。ふとしたときに感情をあらわにするのが、レイヴンにとってはこの上なく面白かった。
「この機会だ。君に、言っておきたいことがあったのだ」
 レイヴンが寝台脇の椅子に腰を下ろすと、アレクセイはぽつり口を開く。
「なんです?」
「私の、罪についてだ」
 アレクセイは静かに目を伏せる。
「私は、大きな罪を犯した。取り返しのつかない過ちを引き起こした。だが、時を戻せば再び同じようなことを為すのではないかとも思う。私は私の理想のために、すべきことをしたのだと、今でもどこかで感じている」
 燭台の火が揺れるたび、その顔に落ちる影もかすかに揺らめいた。
「先日の狂乱を、君たちは私が下手な芝居を打った故だと思っているかもしれないが……実のところ、芝居なのか本心なのか、どちらなのか分からなくなっていた。野望を遂げる、と口にするたびに、私は真に自らの行いを悔いてはいない、そう思い知ったのだ」
 レイヴンは、実際に錯乱状態のアレクセイを目にしていない。けれど、数々の者がアレクセイの乱心を信じていたのだ。あのデュークも危機感に駆られていたほどだ。それは真に迫るものだったのだろう。
「どちらなのか、分からない……ね」
 アレクセイの言葉を繰り返す。二つの仮面を付け替えるかのように過ごし、ある時自分が誰なのかおぼろげになることが、レイヴンにもあった。
「君が帝都を離れると知り、事を起こしたが……やはり君に止めてもらったほうがよかったのかもしれないな」
「俺がいたらバレるって? 買いかぶりすぎですよ。十中八九コロッとあなたの芝居に騙されて、今頃もしかしたらあなたを殺してしまってたかもしれない」
 顔の前で手を振るレイヴンを、アレクセイはじっと見つめてくる。
「君は、まだ私を殺すつもりがあるか」
「あなたは、それを望むんですか?」
 問い返すと、アレクセイはなぜか目を丸くしたあと、わずかに表情を緩めた。
「君の手によって終わるのなら、最もふさわしい末路だと思っていた」
「そりゃ光栄ですね」
「だが、それは君に最後まで全てを背負わせるということだった。私の手で全てを強いられた君に私の末路まで委ねようとするのは、傲慢なことだった……すまなかった」
 シーツに頭ごと倒れ込むように、アレクセイは背中を丸める。何度かこの部屋で請われた言葉が、今は違う意味をともなってよみがえる。アレクセイはずっと助けを求めていたのだ。どうやって生きていけばいいのかと、問い続けていたのだ。
 ――俺も、このひとにずっと答えてほしかった。
 死人の身でどうやって生きろというのか。命を与えられ、痛みを受けて、それでも足りずに、この身に触れる手が、いつまでも続く泥のような時を終わらせてくれることを幾度も望んだ。互いに同じことを繰り返していたのだと、今更気がついた。
「あなたがまた道を踏み外すようなことがあれば、俺が必ず止めます」
「そのときは、迷わず殺してくれ」
「そうならないように、せいぜい頑張ります」
「いや……やはり、君にそこまで委ねるわけにはいかない。私自身で始末をつける」
「そこがいけないんですよ。一人であれこれ考えずに、周りを見てください。まあ、俺が言えたことじゃないんですけど」
「……変わったものだな、君は」
「何も変わっちゃいないですよ。まあ……うっかり俺も一緒に踏み外しちまったときは、リタっちあたりが火の玉ぶつけまくってくれることに期待しましょう」
「そうだな……」
 うつむいたままのアレクセイの口元が、ほんの少し綻んだのが分かった。長い時間ともにいたはずなのに、こんなに長く言葉を交わすのはおそらく初めてで、不思議な気分に満たされていた。
 明日、アレクセイの処遇が決まれば、どうなるのだろうか。こんな風に話したり、時間を過ごしたりすることはできるのか。レイヴンは不安に駆られ、丸められたアレクセイの背中にそっと手を伸ばした。
「俺は……あと、これからのあなたのために、何をしたらいいですか」
 これからやり直し、償うことは許されるのか。この背に負ったものを今からでも分かち合うことはできないか。あまりにも遅すぎる後悔と切実な願いがレイヴンの胸を満たす。
「何も、しなくていい」
 アレクセイはレイヴンの肩に触れて、そっと抱き寄せるように頭をもたせ掛けた。
「生きているだけで、いい」
 レイヴンはアレクセイの背に腕を回して、たまらずにほんの少し力をこめた。顔を埋めた肩口の生地にこぼれた雫が染みこむ。
「俺も……同じです」
 ずっと受け止めきれないくらいに与えられた、生きてほしいという願いを、もらった分だけ今度は自分が与えたい。胸が熱く焼け焦げそうなほどに、強く思った。
「君が、今も生きる意味はなんだ?」
 少し体を離したアレクセイが、指でそっとレイヴンの目元に触れる。涙を見られたのが気恥ずかしくて、手を掴んで制した。
「そうですね……一度死んで、あなたに命を与えられて……でもこの命は、もう俺だけのものじゃない。いつの間にか、俺一人がどうこうできるものじゃなくなっちまいました」
 そっと胸元に手のひらを当てる。穏やかな駆動音と、熱い温度が伝わる。
「だから、きっとあなたもそうなんです」
 にこりと笑んでみせる。服越しの魔導器に触れながら、思い出す。
 埋め込まれたものを、ずっとこの身を縛る鎖のようだと思っていた。けれど、それ以外にも、どうあってもこの世界に繋ぎ止めてくれるいくつもの鎖があるようだった。それはやさしく、痛く、いとおしむべきものだ。
 いつか鎖が解ける日まで、その罰は続くのだろう。
 それからしばらく、アレクセイと他愛もない話を少し続けた。主と従者でもなく、世話をするものとされるものでもなく、同じ願いを抱くふたりの人間として、語り合った。









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