2
リタは薄いおんぼろの扉を蹴り開けて、一目散に走り出した。中型の機械を紐でくくり付けた台車を引っぱりながら、ハルルのなだらかな丘をのぼる。
「よし、このあたりがいいわね」
丘の上から家々の屋根を見渡せるくらいの高さまで来た。背後からは、ハルルの樹がざわざわと枝を揺らしながらリタを見下ろしている。
台車から装置を引き下ろす。リタの身の半分くらいの大きさがある。個人的に作っていた飛行装置の試作品だ。安定運用できる最低限の精霊術を組み込み、あとは筐体側の機構で動力効率については工夫した。一人用で、ごく短時間しか稼働はできない。
「いつまでもバウルだけに頼ってられないしね」
魔導器が失われ、移動手段がさらに限られてしまった現代で、空を飛べるジュディスとバウルはあちこち引っ張りだこだ。彼女たちの負担を減らすというだけでなく、いずれ自分たちの力で空に辿りつきたい。そんなことをふと考えて、思いつきで空き時間に作り始めた。
組み立てを行い、起動確認をして背負う形で体に装着する。しっかりと固定しても、少しよろけるくらいの重量がある。軽量化、もしくは負担軽減は今後の課題だ。
「いくわよっ」
地面を蹴って、向こうの屋根目がけて飛び降りる。体がふわりと浮き上がる。地面が体を引こうとする力に抗って風が足元から吹く。風の流れに乗り、屋根の上へと飛び移ることができた。
「次のポイントは、あそこね」
もう少し離れた家の屋根に狙いを定める。まだ動力が切れる気配はない。そのまま踏み込み、空気の軌道に乗ろうと宙に飛び込む。
そのとき、背中から異音が鳴る。何かの不具合が起きたのかもしれない。リタは肩のスイッチを操作し緊急仕様に切り替える。そうしても向こうの屋根には届かない。なんとか小さな樹の枝にしがみついて事なきを得た。
「いたた……ここまで稼働時間が短いなんて想定外だったわ」
葉っぱにまみれた体をはたき、機械の様子を確認する。見ただけでは不具合の原因は分からず、ひとまず出力を落とすしかなかった。小屋に戻ってから調べるべきだろう。
リタは枝に腰かけてハルルの街を眺める。現在の研究者たちの本拠だからというだけでこの街に住んでいるが、なかなか悪くはない。アスピオに比べて昼間は明るすぎるし空気も少し乾いているが、少しずつ慣れてきた。旅暮らしのおかげでいろいろな気候を知ったからだろうか。
ふと、街の入り口のほうに目を向けると、数名の騎士団員、研究員が集まり何事か話していた。その近くには馬車に運び込まれようとしている大きな荷物がある。
「あれは……確か」
遠目からだが、あの形には見覚えがあった。先日完成したばかりの、精霊術を組み込んだ医療装置だ。レイヴンの心臓魔導器の件で多少医学についての心得を身につけたリタも、その開発に携わっていた。
魔導器を手放したことで人々はさまざまな問題に直面しなければならなくなったが、なかでも差し迫った課題の一つが医療についてだった。医者たちは魔導器による治癒術が使えなくなり、持ち合わせた医学の知識をもとに新たな治療法を模索することになった。また、魔導器の力によって重い病に抗っていた人々も少数ながら存在し、そうした人々の代替手段になり得るものを探すことが、リタたち研究者には課せられていた。
――まずは帝都に運ばれるってことだったけど……今日がその日だったのね。
リタの記憶では、帝国が装置を引き取りに来るのは来週の予定だったような気がしたが、向こうの都合で早まったのかもしれない。少しずつ、ほんの少しずつだが、着実にいろんなものが前進している。やわらかく拳を握り、さて早く帰ろうと樹から下りようとする。
――あれ……何か忘れてるような……。
すっかり動かなくなった飛行機械はきちんと装着している。リタはひとり首をかしげる。医療装置を見たときに、何か頭のなかに引っかかったことがあった。一瞬思い出した、誰かの顔。
「あーーーーーーっ!!」
土にまみれた飛行装置を部屋の端に置き、リタは今日の日付を確認する。このところ研究所のプロジェクトが忙しく、空き時間は飛行装置の作業に没頭していたため、すっかり日付感覚がなくなってしまっていた。
――もう、ずいぶん経ってる。
思い出したのは、レイヴンとの約束の期日のことだった。前回会ったときに決めた次の約束の日から、もうすぐひと月が経とうとしている。そのときレイヴンにもらった焼き菓子の箱など、とっくに空になった。
互いに忙しい身ということもあり、会う日がずれ込むことはこれまでもあった。それでも、ここまで何の便りもなしにすっぽかされたのは初めてだ。
リタの内にさまざまな想像が浮かぶ。とんでもなく面倒な任務に追われている。どこかで人知れず倒れて帰れなくなっている。心臓が急に異変を起こして、それを隠している。
がたりと立ち上がる。ひとまず汚れを拭ききってピカピカになった装置を部屋の端に片付けて、リタはまた小屋をばたばたと出ていく。坂を駆け下りて、街の入り口に立つ騎士に声をかける。さっき見た馬車はもう出発したようだ。
「ちょっと、いい?」
「はっ……ああ、モルディオ殿ではないですか」
「レイヴンって奴、どこにいるか知らない?」
「はい?」
「シュヴァーンだったのにレイヴンとか言い出したあの変な奴よ」
騎士は、兜で表情は見えないものの困惑したように首を傾げる。しばらくして、ああ、と合点がいったようにうなずく。
「そういえば、近頃こちらにはいらしてないですね」
「そうよ、で、今どこにいるか、何してるか知らないの?」
リタがうろたえる騎士を問い詰めていると、離れたところに立っていたもう一人の騎士がこちらへやってきた。
「なんだ、何をしている」
「こちらのモルディオ殿が、レイヴン隊長が今どこにいるのかとおたずねでして」
「レイヴン隊長ぉ?」
怪訝そうに言った騎士は、それなら、と言葉をつづけた。
「重要任務のため、しばらく帝都に滞在されると聞いたぞ」
「それ、本当?」
へえ、と呑気にこたえた騎士を押しのけて近寄る。
「ああ、先日街道で会った、帝都からの部隊による話だ」
帝都に滞在。それなら、なぜリタに何の一報もないのか。事情があって来られないのなら、それを知らせてくれさえすればいいのに。
「……わかった。ありがと」
ひとこと残して、リタは踵を返しまた坂をのぼる。だんだん足が早まるごとに、腹の底にふつふつと怒りが湧いてくる。
前回会ったときは、特に変わった様子はなかった。魔導器の調子も安定していた。またリタの好きな菓子を買ってくると言っていた。
旅の終わりに半ば強引に取り付けた約束が、この先ずっと果たされる保証はないと分かっていた。それでも、リタのできる精一杯のことをしようと決めた。この手で守れるというのなら、そうしないという選択肢はない。
すぐにでも帝都へ行かなければいけなかった。そうしないと、収まらなかった。
魔導器を失った世界は、当然ながら多くのものが様変わりした。帝都ザーフィアスも例外ではない。水道の流れが途絶え、水を汲み上げ各所に行き渡らせる取り組みが必要となった。街灯の明かりが消え、決まった時間に騎士たちが見回りがてら火を持って巡回することになった。挙げていけばきりがない。
それでもこうして歩いていると、人々がせわしく行き交い、以前より少し慌ただしいこと以外は変わりないように見える。市場のにぎわいが遠くから聞こえてくる。リタには今の帝都のほうが好ましかった。変に威張らずかしこまらずに、人々が暮らす拠り所であろうとしている。
「はあー……あいかわらず無駄に段差の多い街ね」
いくつもの階段をのぼり、ようやく城にたどり着いた頃にはリタの息はすっかり上がっていた。最近小屋や研究所にこもりきりだったので、街の外でこんなに動いたのは久しぶりだったかもしれない。
門の前でハルルの研究所から持ってきた報告書を突き出し、戸惑う騎士たちを横目に城内へ入っていく。報告書は、なるべくすみやかに帝都へ行くために作った口実だ。
ついでに書庫ものぞかせてもらい、貴重な書物でも借りて帰ろうか、などと考えていると、長い廊下の向こうからわらわらと人が出てきた。騎士団員もいれば評議会員もいる。その奥のほうに、見知った人影が見えた。レイヴンだ。
来ていきなり、探し人に出会えるとは思わなかった。部屋の入り口そばで話しているのはフレンとヨーデルのようだ。なにごとか言葉を交わしたあと、二人は廊下の奥へと去っていき、レイヴン一人が残された。
「何かの会議?」
ずんずんと近づき声をかけると、振り向いたレイヴンは目を丸くした。一見して前に会ったときと特に変わらないが、少し疲れているように見える。リタを見て、驚きに満ちた顔とばつの悪そうな顔を一瞬ごとに浮かべ、すぐにへらりと笑った。
「いやあ、ほんとはおっさんなんかが出ていいもんじゃないんだけど」
「出されてるのは、ちゃんと意味があるからでしょ」
「そ、ね……ごめん」
レイヴンはまるであっさりと傷ついたように目を伏せて黙り込んだ。リタに釈明するための言い訳でも考えているのかと思ったが、そういう雰囲気でもなかった。それよりも、心ここに在らずといった風に見えた。
「なんで、検診来なかったの」
だから、単刀直入に聞いた。少しでもまわりくどい聞き方をすれば、リタの望む答えは得られないと思った。
「ごめん、とっくに過ぎてたね」
レイヴンは手を顔の前に出してごめん、とふたたび謝る。力ない弱々しい声だった。てっきり何かしら理由を並べ立てられると思っていたのに、レイヴンの口からはそれ以上何も出てこなかった。
「……それだけ?」
「もしかして、リタっち、俺に会いに帝都まで来たの?」
そう聞かれて、すぐに頷けばよかったのかもしれない。あんたに会いに、わざわざ来てやったのよ――けれど、できなかった。心がざわざわと波立って、足がかすかに震えるのを感じた。
「ち……違うわ、調べ物のついで。あんたがちっとも連絡寄越さないから、会ったら一発殴ろうとは思ってたけど」
「いや、ほんとごめん、いろいろあって……次からこういうことないように、気をつける」
本当にすまなさそうに頭を下げるので、それ以上リタは何も言えなかった。本当はもっと怒るつもりだったのに。言葉が出てこない。
「あ、ごめん、俺そろそろ行かないと……この通りしっかり元気だし、次の検診はちゃんと行くからね、ごめんね」
早口で言い残して、慌ただしく廊下の奥に駆けていく。呼び留めることはできなかった。残されて、呆然とする。
会えたら、すぐにでもどこかの部屋に引っぱりこんで、心臓の様子を確かめようと思っていた。どんな言い訳をされようと、知らせ一つも寄越さなかったことをきっちり言い含めてやろうと思っていた。
――なんで、謝るだけなのよ。
レイヴンは言い訳など一つもせず、謝罪の言葉だけを何度も口にした。あんなにあっさりと何度も謝られたのは初めてかもしれない。
明らかに、レイヴンの様子はおかしかった。リタとの約束を思い出す暇もなかった何かがあったのかもしれない。
もしそうじゃなかったら。リタはぐっと奥歯を噛みしめる。レイヴンがまた、自分の命を軽んじて、リタの負担などを気にして、遠ざかろうとしているのだったら。
――レイヴン! しっかりしなさいよ!
あのときの記憶がよみがえる。旅の途中、レイヴンが突然倒れた。リタはそのとき初めて、レイヴンの心臓魔導器を診た。その少し前から、レイヴンには一度早く診せるように言っていたが、今日は調子が悪いとか眠いとかなんとか言って、いっこうに実現しなかった。
それがいきなり、いますぐ何とかしなければならない状況に直面することになった。仲間たちが見守る中で、おそるおそる制御盤を開いた。目にした術式は、これまでに見たことのない類のもので、リタが今までに見たヘルメス式魔導器と似たところはあったが、おそろしく複雑に緻密に組み上げられていた。
目を閉じて動かないレイヴン。不安げな仲間たち。あまりにも複雑な未知の術式。リタは震えを必死に押さえ込みながら、心臓魔導器と向き合った。
一晩かけて、なんとか術式の乱れを調整することができた。組み上げられた術式は難解ではあったが、無駄に煩雑になっているわけではなく、既存の知識を応用すれば道筋をつけることができた。
けれどその独特な構造に、そのすべてを自分が引き受けていくことができるのか、リタは不安を覚えた。何も分からずレイヴンの魔導器を診ていくと言っていた自分の浅はかさを思い知った。
調整後、レイヴンが目覚めるのを待つあいだ、思い出したのはバクティオン神殿でのできごとだった。あのときは最期のすがたさえ見ることができなかった。暗い瓦礫の奥に置いていってしまった。許せないのに、助けてくれた。大嫌いなのに、仲間だった。
思い出すたびに、リタの心はかき乱される。胸に灯った赤い光を見たときの衝撃も、見覚えのない昏いまなざしを向けられたときの痛みも、あまり呼び起こしたくはないものだ。
もし、また助けられなかったら。自分の手でこの火を消してしまったら。
リタは想像して、自分の心臓が止まるかと思うくらいひどい寒気が襲うのを感じた。かたかたと震える膝を抱えて、にじむ涙を服の袖に吸わせた。
早く、早く目を覚まして。何度も何度も祈って、祈って、疲れて、少しだけうたた寝しかけたとき、レイヴンはやっと意識を取り戻した。
――あれ、リタっち……おはよう?
気の抜けた挨拶をしてくる呆けた顔を、思わず軽く叩いてしまった。
それから、リタは定期的にレイヴンの心臓魔導器を診ることになった。初めは抵抗を示していたレイヴンも、リタや仲間たちから倒れた事件のことを出されれば、強く言えなかった。
もう二度と、あんなことを起こしたくない。リタはふるふると首を振り、気を取り直す。
先ほどのレイヴンは、何か別のことに気をとられているように見えた。きちんと応答しているように見えてどこか上の空というような。
リタを避けていると考えるのは早計かもしれない。本当に会いたくないというのなら、あの男はもっと上手くやるだろう。リタと会っていないあいだ、レイヴンにいったい何があったのか、突き止めなくてはならない。
城の中はいたっていつも通りに見えた。何か大きな事件が起こって、それの対応に追われているという風でもない。
それなら、一部の人間にしか伝わっていないことがあるのかもしれない。エステルやフレン、ヨーデルに会えれば、何か聞ける可能性がある。その辺りの騎士を捕まえて、三人の居場所を聞いてみたところ、今日は多忙で誰であっても面会の時間は持てない、ということだった。
リタは廊下の人影を確かめながら、上層階に向かう。はるばる帝都まで来たのに、何日も待っていられない。
しかし、リタには城内の構造がさっぱり分からない。いつも決まった場所にしか行かないため、気にしたこともなかった。階段の陰で頭を悩ませていると、ふと城の中庭を行き過ぎる侍女の姿が目に留まる。もしかすると、上の階の掃除にでも行くのかも知れない。付いていけば、誰かのいる部屋に出られるかもしれない。
こっそりとあとを追うことにする。隠密行動は得意なわけではないが、かつての旅のあいだにいくらかは慣れたところもある。侍女は奥まった廊下から裏庭に出ていく。こんな庭に出て何を、と物陰から様子を確かめていると、侍女の姿は、庭の奥にそびえ立つ塔の中に消えていった。
――あの塔は、なに?
遠目から見ても、かなり古びた塔のように思える。あんなところに侍女の用向きがあるものだろうか。
目当てとは違うが、何か怪しい感じがする。あの塔に近づいてみよう――そう一歩踏み出したところで、後ろからポンと肩を叩かれる。
「ふぎゃああっ」
反射的に飛び上がって、大声を出してしまった。まずい、見つかった、と思い振り向くと、フレンが立っていた。
「ごめん、驚かせてしまったね。君が僕を探していると聞いたから」
「あ、そ、そう……たしかに、探してたけど……」
「何か話したいことでも? いや、こんなところじゃ何だし、場所を移そう」
移動しようとするフレンを、リタはとっさに呼びとめる。
「ちょっと待って、あの、庭の向こうにある塔、あそこに人が入っていくのを見たの。あの塔、何かあるの?」
リタが尋ねると、フレンは目を丸くして首をかしげる。
「いや? あの塔はもう長い間使われていないし、扉に固く鍵もかかっているし、気のせいじゃないかな」
あっさりとそう言って、リタを別の階層へと案内しようとする。その間フレンが口にした世間話は、どれも耳に入らなかった。不自然だ。リタの知るフレンなら、念のため一度調べてみようとか言い出しそうなものなのに。
この違和感は、リタの求めるものに繋がっているのか。
「ねえ」
廊下を歩くフレンの背に問いかける。
「何か、あったの? ここ最近、帝都で」
「……どうして、そんなことを?」
「いろいろと、おかしいって思って」
フレンは笑って首を振る。
「特に変わりないよ、騎士団が忙しいのはいつも通りだけど、大きな事件や事故も近ごろは起きてないし、気を引き締めないといけないね」
「じゃあ、おっさんは、何してるの」
リタはフレンに一歩詰め寄る。
「帝都に滞在させて、騎士団の重鎮として働かせといて、騎士団長が行動を把握してないわけないわよね。あたしはあいつの体に責任があるの。もし無茶な働かせ方してたら見過ごすわけにはいかないのよ」
「リタ、落ち着いてほしい。レイヴンさんは何も……」
「おかしいのよ。おっさんも、あんたも、何か隠してる。どうしてもあたしに言えないことなら、せめておっさんが今何してるのかだけでも、教えて、お願い」
最後のほうは舌がうまく回らなかった。フレンの鎧を掴みながら、自分が思ったよりもずいぶん冷静でなかったことに気付いた。レイヴンの任務内容など聞き出してどうしようというのだろう。それで気持ちは晴れるのか。納得して帰れるのか。
リタはただ、動転しているだけなのだ。レイヴンの様子がいつもと違った、それだけのことに。
「リタ? フレン? どうしたんです?」
そこに、柔らかな声が飛び込んでくる。見ると、正装姿のエステルが廊下の先から歩いてくる。
「二人とも、何かあったんですか……? リタ、顔色が悪いですよ。どこかで休んだほうが……お願いします、フレン」
「分かりました、こちらへ」
エステルに支えられ、リタは城の一室へと案内される。久しぶりに親友の顔を見て、波立った心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
部屋のソファに座らされ、エステルが用意してくれたお茶を口にする。温かくやさしい味だ。
「ありがと、もう大丈夫……フレン、ごめん。ちょっと、どうかしてた」
「いや……いいんだよ。こちらこそすまなかった」
「あんたに当たったって、仕方ないことなのに」
「どういうことです? リタが突然帝都に来たって聞いて、会いたくて探していたんですが……何かよくないことでも起きて……」
心配そうに隣へ腰かけるエステルに、曖昧に笑ってみせる。
「ちがうわ、あたしは特に変わりない。むしろ、そっち側に……帝都で何かあったんじゃないかと思って、あんたたちと話したかったの」
エステルとフレンが顔を見合わせる。やっぱり、何かある。リタは確信する。
「あいつが……おっさんが検診に来なかったの。今まで知らせもなしに、こんなに長く来なかったことなかった。それで、帝都にいるって聞いて、来てみたら……」
気のせいだと片付けることもできた。それでもこんなに胸の内が騒がしいのは、今までレイヴンを見てきた直感だ。
「フレン、リタにも伝えたほうがいいと思います。わざわざレイヴンを心配して、来てくれたんですから」
「……そうですね、近いうち、凛々の明星ブレイブヴェスペリアの皆とともに共有する予定はありましたし……すまない、リタ。慎重になりすぎてたみたいだ」
向かいのソファに座るフレンが、深々と頭を下げてくる。
「レイヴンさんがリタとの約束に行けなかったのは僕の落ち度だ。いろいろと手一杯になっていて、気が回らなかった。今後はレイヴンさんの休息の確保とともに、最大限の配慮をする」
「ちょっと……どういうこと? やっぱりあのおっさん、働きすぎで疲れてるの?」
沈黙が走る。エステルが、膝の上に置いた手をぎゅっと握り込む。
「わたしも、つい先日知らされたばかりで、まだ受け止めきれていないんですが……」
エステルの視線を受けたフレンが、ゆっくりと頷く。リタに向き直ったエステルの瞳が、わずかにふるえる。
「アレクセイが……生きていたようなのです」
一言口にして、エステルは苦しそうに息をつく。リタはぱちりと瞬きをして、その言葉を頭のなかに巡らせる。
「アレクセイ……って、あの? なんで、今まで……」
困惑するリタに、フレンが説明を始める。クロームが発見し、人の手の届かない場所に隠していたこと。デュークがそれを引き継ぎ、こちらへ引き渡しにきたこと。
「そんな、いくら始祖の隷長エンテレケイアだからって、死にかけてる人間の命をとどめることなんてできるの?」
「詳しいことは分からないんだが、クロームの術はあくまで外界の変化から生命力の流れを一時的に守るもので、ここまでアレクセイが命を失わなかったのは、針の穴を通すような奇跡的なことらしい」
「もともと、ザウデから無事に生き延びたのも、本当に奇跡的なことだと思います。思わぬ形であっても、彼の命が助かったというのなら、わたしたちのできることをしたい……」
エステルはぎゅっと両手を組み、祈るようにうつむいた。
「とはいえ、まだアレクセイの意識は安定しない。少しのあいだ目覚めて、また眠ることを繰り返しているようだ。言葉も発さない」
リタは説明された言葉のひとつひとつをゆっくり飲み込んで、長く、息をついた。
「要するに……あの塔にアレクセイがいて、おっさんもそこにいるってことなのよね」
二人は目を丸くしたあと、苦々しい表情を浮かべる。
「さすがだね、その通りなんだ……レイヴンさんが、ヨーデル陛下に自ら願い出られて……自分が一番側にいた時間が長いのだから、意識を取り戻す手助けがしたいと」
「近ごろは帝都にいる日が多くて、騎士団の訓練や会議など任務の時間以外はずっとアレクセイのそばに付いてるみたいなんです。私も一緒にと言ったのですが、危険だからと、窓越しにしか……」
「……重傷を負っているとはいえ、彼はエステリーゼ様を傷つけただけでなく、多くの罪を成した大罪人です。彼を案じるお気持ちは分かりますが、どうかご理解ください」
レイヴンは、意識の曖昧なアレクセイのそばについて、あの塔にこもりきりになっているという。リタとの約束など思い出せないのも無理はない。自分の身をかえりみず、余計なことを考え思いつめているのだろうことは、容易に想像がついた。
「アレクセイって……あのザウデの巨大な魔核の下敷きになったんでしょ? そこから奇跡的に生還したとはいえ……治る見込みはあるの?」
「全身の至るところに、相当な損傷を負っている。治療のための手配を今極秘で行っているところなんだが……」
エステルが悲しそうに目を伏せる。
「きっと、体だけでなく、心も……」
かすかに声を震わせながらつぶやく。
「やり方は間違えていたかもしれませんが、帝国を守ろうとして、災厄を蘇らせてしまった……そのことにアレクセイはひどく動揺していたようでした。意識が戻って、そのことを思い出してしまったら、彼の心はどうなってしまうのか、心配なんです」
アレクセイはエステルの力を用いてザウデ不落宮の封印を解き、太古に封じられた災厄である星喰みを蘇らせた。彼の計画では、ザウデ不落宮の力を始祖の隷長などに対抗できる兵器として用いようとしていたようだった。
「エステルを傷つけたのは今も許せないけど……結局のところ、先送りにしてた問題を引きずりだしたんだから、今思えばあいつのやったことも全部が全部悪かったわけじゃないのかもね……」
リタたちの、さまざまな人の力により、星喰みは打ち倒され精霊に変わった。世界中のすべての魔導器と引き換えに。
「しかし、アレクセイは多くの人を犠牲にし、争いを生んだ……結果がどうあっても、それは変わらない。僕も、それを見過ごしてしまっていた。だからこそ、アレクセイが戻ったことは、帝国や僕らが彼の罪に今一度直面しなければならないということだと、思っている」
フレンが重々しく告げる。アレクセイに傷つけられたエステルも、アレクセイに守るべきものを揺るがされたフレンも、それぞれの考えでアレクセイを案じている。
レイヴンは、どんな気持ちでいるのだろう。自らに心臓魔導器を埋め込み、生き返らせた直属の上司。聞いた話によると、騎士団長の懐刀とも呼ばれていたという。
――あのときだって、アレクセイが……。
バクティオン神殿の天井が揺れたとき、レイヴン――シュヴァーンは、おそろしく落ち着いた様子で言っていた。アレクセイが自分ごと生き埋めにするつもりなのだろう、と。
戻ってきたアレクセイに対してレイヴンがどんな思いでいるのか、リタには到底押しはかることができなかった。けれど、簡単に理解できないほどに、さまざまなものがレイヴンを苦しめているのだろう。
ふとあの時の光景がよぎる。初めてリタがレイヴンの心臓魔導器を調整し、目覚めるまで見守っていた夜のこと。
胸がちぎれそうに痛くて、息を吐いたらすぐに涙がこぼれて、それが嫌で、いらいらして、お腹の底が熱いのに、体ががたがた震えるくらいにひどく寒かった。あの感覚を、ずっと忘れることができない。
――あんたも、同じなの?
リタはぼんやりとティーカップに手を伸ばし、残りを口にする。すっかり冷めてしまった茶をゆっくりと飲みこむ。ティーソーサーに反射した灯りを見つめながら、頭のなかではずっとレイヴンの曖昧な笑みがちかちかと瞬いていた。