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「それで、私を呼び出したというわけね」
長い足をソファの上で組み替えて、ジュディスは楽しそうに笑った。
「……なんでそんなに面白そうなのよ」
「だって面白いじゃない、深夜の潜入計画なんて」
リタはずっとそんな調子のジュディスに困惑しながらも、小声で話を続ける。市民街の宿の個室なので、誰かに聞かれる心配は少ないのだが念のためだ。
「城内の地図は調達したし、頭にもだいたい入れた。裏庭と、アレクセイのいる塔の位置関係も分かってる。あとは侵入する手段だけなの」
問題なくジュディスと帝都で会うことができたのは運が良かった。リタが菓子の礼として送った手紙の返事に、先の予定が記されていたのだ。帝都に立ち寄る日取りを覚えていたので、仕事がいったん一段落したジュディスをなんとか捕まえることができた。
ジュディスなら、真正面から話せば協力してくれる可能性が高いと思っていた。うまくいかない可能性も頭には入れていたが、ジュディスはリタの話を聞くなり快諾してくれた。
リタが単身ザーフィアス城に潜入し、アレクセイに会うという計画に。
「城の構造から、塔に飛び移れる距離の足場を割り出したの。そこに辿り着くためには、このポイントに降り立つ必要があるの。……現実的に、可能だと思う?」
テーブルに地図を広げて説明する。ジュディスは長い指を顎にあてて、そうね、と呟く。
「バウルが城にどの程度近づけるかによるかしらね」
「やっぱりそこよね……夜だから、そんなに注目はされないと思うけど、でも、ある程度の高さまで降下してもらえれば、あとはコレでなんとか飛べるわ」
そう言って、リタは背後の大きな荷物を撫でる。身長の半分ほどの大きな袋に包まれたものは、リタがずっと調整に取り組んでいた飛行装置だ。最初の試作段階から、ずいぶんと飛行可能距離も伸びた。
帝都に発つ前から、フレンたちとの交渉に失敗した場合は、最終手段としてこれを使ってなんとかしようとは決めていた。だからハルルからわざわざ持ってきて、市民街の宿で厳重に保管していたのだ。ジュディスとバウルの協力が得られない場合は、地上から上層までなんとか潜入し、その後飛行機械によって塔を目指すルートも考えていた。
「大丈夫、あなたの理想の距離まできっと飛べるわ。バウルは今やみんなの憧れの的みたいなものだから、ちょっと帝都の空を散歩しているくらい、なんてことないわ」
ジュディスは窓の外を見て目を細める。遠くの空に、見覚えのある影がぷかりと浮いている。
バウルは、たびたび各土地に現れて物資を届けてはまた去っていく、神秘的なヒーローのような存在になっているらしい。
「可愛いあなたの頼みだから、力を貸してあげたい……とは思っているのだけど、やっぱり心配は心配ね。アレクセイがあなたに危害を加えない保証はないのだし」
「それはもちろん想定の内よ。ただ、話によるとアレクセイは手足が自由に動かせない状態らしいし、距離をとって接すればいざというときも逃げられると思う。精霊術の試作装置も身につけていくし」
もし、ろくに話もできない状態なら、そのまま撤退するしかないだろう。しかし、少しでも話が通じる状態にあるのなら、確かめなければならないことがある。
リタの言葉を聞いて、ジュディスは目を伏せて頷く。
「あなたの実力と覚悟は疑っていないわ。それにあなたなら……もしかしたら彼と話ができるかもしれないと思っているの」
「あたしなら、って、どういうこと?」
「アレクセイとあなた、似た目線でものを見ているところがある気がするの。そのことに気付いて、あの人もあなたに目をかけていたんじゃないかしら」
おそらく、リタが帝都に来るよう誘われていたようなことを言っているのだろう。
「単に、帝国の言うこと聞かない魔導士だから、手元に置いて監視したかっただけでしょ」
ジュディスはなぜか、寂しげに微笑む。
「私が思うに、彼があなたに特別な目を向けていたのは、あなたが……」
途中で言いよどんで、首を振る。
「……いいえ、あなたの持つ紛れもない才に、惹かれるものがあったんじゃないかしら。利用価値とかそういうのとは別に、ね」
ジュディスの言うことはよく分からなかったが、アレクセイの意思を確認する上で、リタに対してどういう感情を持っているのかが、多少重要なことだというのは分かった。それをここで考えてもさっぱり答えは出ないので、これも確かめるしかないだろう。
「何にしても、本人に直接聞くしかないわね」
「出たとこ勝負ね、ハラハラするわ」
「だからなんでそんな面白そうなのよ……」
宿の外はまだ明るいが、いろいろと準備をしておかなければならない。地図の印を指でたどり、再び作戦の確認を始める。
決行は今夜、満月が南の方角を過ぎた刻限だ。
空中に浮かぶフィエルティア号から、明かりの灯る帝都を見下ろす。街の各所に灯された火が、花びらのようにぼんやりと円状に広がっているように見える。
「風も少し穏やかになってきたわ。そろそろ降下する頃合いかしら」
「今が絶好の機会ってやつね、行けるわ」
こうして船縁に立つのは苦手だ。これほどまで高いところから低いところを見下ろすと、どうしても足が震える。けれど、怖気付いている場合ではない。
「もし危険だと思ったら、これ、バウルの角を渡しておくわ。強く念じて、握って」
「バウルの角って……クリティア族のナギーグってやつがないと使えないんじゃないの?」
ジュディスはやさしく目を細めて見せる。
「あなたにも……使えるように加工しておいたの。角はふたつ……私が持っているものと、引きあうようにできているから」
「ちょっと原理はよく分からないから今度ちゃんと聞くとして……分かったわ。ありがと」
応えるように、ブオオ、とひかえめにバウルが声を上げる。リタは懐に角をしまい込むと、飛行装置の起動をはじめる。事前の念入りな調整のかいあってか、操作は問題なくできそうだ。背中にかたく装着する。
「じゃあ、お願い」
少しずつ、バウルが降下を開始する。だんだんとザーフィアス城の輪郭がはっきりと見え始め、城の中空にせり出した足場が夜闇の中で浮かび上がる。第一の到達目標地点だ。
「行くわ」
リタは甲板から足を踏み出し、つま先で縁を蹴って空中へと飛びこむ。リタの体を包む風がごうごうと鳴る。奇妙な浮遊感に背筋がぞくりとするが、落下の速度は調整した通りゆるやかだ。
怖いと思うのは、落ちることを想像するからだ。背中からリタの翼となってくれている装置の熱が伝わってくる。リタは飛ぶことができる。どこにだって行ける。
予定通りの地点に降り立つ。見上げると、バウルは少し離れた空をゆっくりと回遊してくれているのが見える。
ここから塔に飛び移るために、二度の滑空をする必要がある。特に物音は聞こえない。足場の縁から塔の方角を確かめる。いくらかの明かりが灯る城に比べると、その一帯は深い暗闇に沈んでいる。闇の中でも足場を見通せるように、暗視ゴーグルを装着する。
装置はまだ順調に稼働している。操作を行い、ここより一段低く、塔へ一番近い足場へと飛び移る。ふうわりと足が地面につき、一度深く息を吐く。
「いよいよだわ」
口のなかでひそりと呟く。ここまで来るだけでも、手に汗をびっしょりとかいてしまっている。心は気合いで誤魔化せても、生理的な反応は抑えがたい。
塔の屋上を見据える。そこから壁の管を伝って下りて、まず窓からアレクセイの様子を確かめるつもりだった。それで部屋の構造を確かめ、侵入経路を探す。
リタは二度深呼吸をして、足場の端に立つ。風がひとつ吹き去ってから、空に躍り出る。
そのとき、もう一度びゅう、と強い風が吹いた。リタは体のバランスを崩しそうになり、慌てて装置の操作をおこなう。とっさに体勢を立て直したものの、屋上よりいくらか低い高度になってしまった。
「もう一度出力を上げるか、それとも」
塔はだんだんとリタの眼前に近づいてくる。とにかく飛びつけそうな箇所を探していると、格子のつけられた窓を前方に見つける。
あれがアレクセイの部屋の窓だろうか――そう思って目を凝らすと、格子の向こうに人影のようなものが揺らめいたような気がした。
「え」
窓の向こうにいたのは、痩せてやや異なる印象はあるものの、アレクセイ・ディノイアだった。
窓越しにリタを見て、目を丸くしている。装置が出力限界を訴えてきたので、とっさに脇の管に掴まる。
「アレクセイ……?」
ここから問いかけて、聞こえるだろうか。格子窓はぴったりと隙間なく開閉できないようにはめ込まれており、このまま部屋に入るのは難しそうだ。
アレクセイと見つめ合いながらリタが悩んでいると、ふいにアレクセイが片手を挙げた。人差し指を立てて、ゆっくりと上方を示すように動かす。
「……上?」
アレクセイの意味するところは分からなかったが、ひとまずそのまま管を支えに、屋上にのぼる。幸い装置のおかげで、体重すべてを持ち上げずに済んだ。
屋上にたどり着くと、いくつかの装置らしきものが設置してあった。どれも魔導器だが、すでに魔核はなく動いてはいない。
当初窓をこじ開けて侵入することも考えていたが、あのようにしっかり格子が嵌められているなら、無理やり壊すのは難しいだろう。精霊術を工夫すれば壊すこともできるが、大きな音を立ててしまう。
アレクセイはリタを認識しているように見えた。こちらの話が通じる可能性は高まった。指を立てたのも何かしら意味がある動作だと信じて、リタは屋上をしらみ潰しに調べ始める。
とっくに動作を止めた装置たちは、この塔の機能を維持するためのもののようだ。元は研究員の詰め所だったと聞いたが、かつて帝都に詰めていた研究員たちはここでも何か研究していたのだろうか。それがなぜ、今はアレクセイを人目から隠し治療するための場所に使われているのか。そもそもなぜこんな城の奥まった場所に塔が立っているのか。
尽きない疑問を次々脇にやりながら、リタは装置とその隙間を丹念に調べていく。装置の下に潜ると、ふと、床の一か所がわずかに発光しているのに気がつく。ぼんやりと淡い光で、近づかないと分からない。
「違う……」
呟きながらゴーグルを一度外す。視界の外から暗闇が押し寄せる。暗視ゴーグルを装着していたから意識していなかったが、ここは城の明かりもほとんど届かない。月の光は方角からちょうど影になってわずかにしか頼りにならない。ゴーグル越しでようやく認識できるくらいのささいな違和感だったのだ。
その一点に触れる。他の地点と違い盛り上がっている。指でそっと押してみると、正方形の淡い光がその周辺を縁取っていく。リタの体を囲むように。
「……え?」
突然浮遊感に包まれる。リタが這いつくばっていた地面が忽然と消えていた。暗い空間に吸い込まれるように落下する。
「うきゃあ……っ!」
恐怖に漏れる声を塞ぎながら、真っ暗な通路を滑り下りる。浮遊感に包まれたのはほんの一瞬で、あとは通路の行く先のまま体が運ばれる。ぼうっと明かりが前方に浮かんだのを捉えたとき、リタの体は布地の上に投げ出された。
「ふぎゃっ」
ふわりと頬に暖かい布地がふれる。絨毯のようだ。体をゆっくりと動かし、体勢を立て直そうと顔を上げると、目の前に大きな影があった。
「来たな」
屈んだままのリタの眼前には大きな寝台があった。そこに腰かけたアレクセイが、静かにリタを見下ろしていた。
立ち上がって見回すと、小さな棚が三つと、大きな布のかけられた何かと、壁の燭台と、その他はなにも置かれていない簡素すぎる部屋だった。リタの背後にはぽっかりと四角く穴が開いていた。ダストシュートのようなもので運ばれてきたのだろう。
「……ずいぶん荒っぽい方法で迎え入れてくれるじゃない」
「不法侵入者に詰られるとはな」
「思ったより元気そうじゃない」
そうは言ったものの、白いローブをまとったアレクセイは、リタが最後に見た鎧姿から受ける印象とはずいぶん異なっているように思えた。しかし最悪の場合、錯乱して話も通じない状態を想定していたので、言葉を交わせているのはそれだけでリタにとって幸運な事態と言える。
けれど、アレクセイの前に立って、リタは知らず体が震えた。目の前にいるアレクセイがまとう雰囲気もそうだが、この部屋に満ちる空気はあまりにも静かすぎる。生きている人間が過ごしている部屋とは思えないほどに。
――あいつはいつも、この部屋でアレクセイを見て……。
黙っているとそのまま呑まれそうになる。リタはわざと大きく息を吸い込んで、頭をぶんぶんと振る。
「聞きたいことがありすぎて、混乱しそうだけど……あんたと話がしたくて来たの。それ以外の目的はないわ」
「私と……話を?」
アレクセイはぴくりと眉を動かす。発する声もところどころかすれていて、覇気がない。ローブからのぞく手足には包帯がしっかりと巻かれている。
「今、どういう状態なの?」
「どういう、とは」
ぼんやりとした返答に、リタは溜め息をつく。
「頻繁に錯乱して、手のつけられない状態って聞いてたんだけど、芝居だったの? そんな状態だから今は会わせられないって言われて、やむなくこんな手段を取るしかなかったんだけど」
アレクセイはうつむいたまま、じっと黙りこんでいる。リタは背負っていた飛行装置をいったん床に下ろして、壁にもたれかかる。
「嘘ついて、芝居して何がしたかったの? それも、あんたを甲斐甲斐しく世話してたレイヴンが離れたタイミングだって言うし……何か考えでもあったわけ?」
リタの問いに、くく、と薄闇がふるえる。アレクセイが笑んだのだ。
「果たして、芝居だと思うか? 私の今の状態は、ほんの一時の凪に過ぎないとしたら? 君はこの後、私の手に落ちて計画の一部に用いられるやもしれん」
背筋がぞくりと粟立つ。アレクセイの暗い瞳がリタに向けられ、一瞬、得体の知れない魔物を前にしているような感覚をおぼえる。リタはじわりと汗ばんだ拳を握りしめて、足元の飛行装置の存在を確かめる。まだすこし熱を持っていて、あたたかい。
「……あたしになんて、なんの利用価値もないわよ。あんたが欲しがってる力なんて持ってない」
「その頭脳だけで十分価値がある。そして君には……大切な友人たちがいるのだろう?」
リタは歯を食いしばり、アレクセイを鋭く睨みつける。
「そんなにぼろぼろの体だってのに、ずいぶんくだらないことばっかり考えてるのね」
「考える時間なら……嫌と言うほどあったからな」
陰になって見えない表情から、静かな声が漏れる。リタは意識的にゆっくりと呼吸をして、波立つ己を抑えつけようとする。この部屋と、アレクセイのまとう空気が、リタを揺さぶりつづけている。ここには死のにおいが満ちている。立っているだけで、自分には何もできないと根拠もなく思わされそうなほどに。
アレクセイはリタを脅すような言動を向けてきてもなお、そこに原動力のようなものは感じられなかった。とても目的のために何かを為そうという人間の様相ではない。まるで人形が無機質に脅し文句を述べているようで、別の意味で気味が悪い。
「……そんなくだらない話をしにきたんじゃないのよ。あたしは、あんたに聞きたいことがあるの。あんたに、生きる気があるのかどうか」
アレクセイは軽く目を見開いたあと、不可解な表情をする。
「なぜ、君がそれを私に問う?」
「あんたにちゃんと生きる気があるなら、協力してほしいことがあるからよ」
「君のほうが、私を利用しにきたということか?」
「まあ、そう思ってもらってかまわないわ。で、どうなの?」
リタは腕組みをして、アレクセイの返答を待つ。恐れることはない。リタはアレクセイという人間について確かめるためにここへ来たのだ。ならば、それがどんなものであっても解の一部として目を逸らすことはできない。
「生きるなど……今更口にするような身の上ではないだろう」
アレクセイは低く重々しい声とともに口を開く。
「私に残されたものは、死と裁きのみだ。もはやほかに何もない。このまま死が再び訪れぬままならば、まもなく罰を受け損ねた私への正当な裁きが下されるだろう」
その言葉にリタは弾かれたように一歩前に出る。
「やっぱり、罰を重くするための芝居をしてたってわけ……!?」
アレクセイの手が、宙に浮かぶようにゆっくりと持ち上げられる。
「この世界はすべて誰かの見る夢であり、誰かによって作り上げられた芝居のようなものだ。そのような舞台に再び転がされた私は、さしずめ亡霊のようなものだろう」
格子窓からかすかな月光が差し込んでくる。青白い光が、アレクセイの顔を浮かび上がらせる。
「地の底から這い出し民を汚す亡霊は、正義の剣によって斬られることで、観客の惜しみない喝采が飛ぶだろう。万一演目に変更があったのなら、自ら退場の手立てを用意するほかない」
ゆっくりと、ある一点をアレクセイが指さす。リタがこの部屋に来るときに使ったダストシュートだ。
「この塔は、かつて私が管理し、統括していた計画の拠点の一つだった。未だに残されている機構もあることだろう。時が来れば、この塔から出て、ふさわしい場所へと還ることもできる」
リタは屋上を調べていたときのことを思い返す。光に触れたとたん、突然穴の中へと誘い込まれた。あれは古い魔導の仕掛けに似ていた。
すでにこの世界の魔導器は多くが災厄の打倒に用いられた。しかし、エアルの消費量がきわめて少ないため感知できず、巧妙に隠され見落とされたものは、魔導器ネットワークに組み込まれずに今もわずかに残っている可能性が高いとされていた。それがこんな城の一角に堂々と隠されていたとは驚きだ。
「じゃあ……何? あんたは死罪を受けたくて仕方がなくて、それがもし失敗したら、この塔を抜け出して、何かやらかそうってわけ?」
「私の意思に関係なく、世界がそのように演目を進めるだろう。今更、狂乱した亡霊を解き放つような愚を犯さぬとは思いたいがな」
ふっと鼻で笑うように言う。アレクセイは、ヨーデルたちがさまざまな理由から彼を生かそうとしていることに勘付いているのかもしれない。
舞台やら演目やら、聞いていると、だんだんとリタの中に苛立ちが増していくのを感じる。ぎりぎりと手のひらに爪を立てながら、言葉を返す。
「あんたを……死にかけてたあんたを、ずっと生かそうとしてた奴がいることについては……どう思ってるわけ? 生き延びたのも、あんたが今こうやって喋れることも、偶然じゃないのよ」
「死人を気まぐれに死の淵から引き上げるなど……愚かなことだ」
「愚かって……あんたが命を繋いだ、レイヴンの前でも……同じこと言えるの」
しばしの沈黙が走る。ようやく、その名前をアレクセイの前で口にできた。リタはどこかで恐れていた。アレクセイに、レイヴンの存在を問いかけることを。
そこはリタの知らない暗闇だ。謎がどこまでも横たわって、手探りでは解くことができない。リタが触れてきたレイヴンの命のはじまりは、アレクセイに繋がっている。心臓魔導器の術式に触れるたびにそのことをどこかで考えていた。その絡まった問いをいつか解かなければならない日が来るのが、怖かった。
「……レイヴンなどという者の名は知らんな。君が知っているのは、どこかで別の生を受けた、別の者だろう」
「本気で言ってるの? あんたをそばでずっと見てて、何ができるのか考え続けて、あんたに生きてほしいって思い続けてた奴が……誰なのか分からないわけ?」
アレクセイは、青白いまぶたを閉じ、ややあって開く。
「私が蘇らせた男は、とうに死んだのだ」
リタはとっさに前に踏み込み、アレクセイの胸ぐらを掴んだ。白くさらりとしたローブが手のひらに食い込む。
「馬鹿言わないで」
悔しさに涙がにじむ。レイヴンが何を思ってこの男のそばにいたのか、リタに分かるはずもないが、それでも少しだけ分かったような気がした。生きてほしいとひとりで祈りつづけることがどれほど苦しいか、リタは知っている。
「あんたが死にたいのはよく分かったわ。でも、レイヴンでもシュヴァーンでもなんでもいいわ、あんたのそばにいた奴のこと、そんな風に言うのは許せない」
レイヴンはシュヴァーンという存在を自ら遠ざけようとしていた。けれどそれは前に進むためのレイヴンなりのけじめで、過去を切り離すための行いではないと、少なくともリタは思っていた。
過去は決して消えない。自分の一部になってどこかに残り続ける。だからこそ、レイヴンは償わなければならないと一人で苦しんでいた。
「自分のせいだ、って言ってたわ。あんたがこんな風になった責任を、バカみたいにずっと抱え込んでたのよ。せめて勝手に死ぬ前に、あんたから言うことがあるんじゃないの?」
アレクセイはリタから目を逸らし、苦々しく呟く。
「私が舞台から降りれば、その役も解かれる」
リタは苛立ちがだんだんと深い怒りに変わっていくのを感じた。ふつふつ煮えていた腹の底が、温度を上げていく炎のように静かな熱を宿す。
「あたしが間違ってたわ」
薄明かりの中で、アレクセイの痩せた首元を見下ろした。
「あんたに生きる気があるかどうかなんて、この際どうだっていいわ。あんたの命が、今さらあんたの好きにできるなんて思わないで。勝手にバカやって勝手に死のうなんて、あいつと一緒じゃない……そういう奴、大っ嫌いなのよ」
顔を背けたままのアレクセイがわずかに眉をひそめる。
「でもね、あたしはそれでもあんたが必要なの。これ、見て」
リタは懐から一冊の記録帳を取り出し、アレクセイの前に突き出す。
「レイヴンの心臓魔導器の、構成術式の一部よ。あたしが分かる範囲で書き留めてる……でも、どうしても解けない部分がある。他の魔導器にはない、心臓魔導器特有の編まれ方をしてるせいで、肝心な調整が行き届かないところがあるの」
記録帳に目を向けたアレクセイに、そのままリタは続ける。
「もちろん、あたしがなんとか解き明かすつもりだったわ。でも、あたし一人の力では時間がかかる。いつ、その解が必要なときが来るか分からない。けど、あんたが生きてるっていうなら、あいつの心臓魔導器についてあたしとレイヴンの他に、ちゃんとした知識を持ってるのはあんたしかいない」
リタは深く息を吸い込む。レイヴンの心臓魔導器に初めて触れた夜は、こんな時が来るなんて思ってもみなかった。
たった一つリタの元に残された魔導器が、大切なひとの命であるという事実は、リタを奮い立たせ、同時に苛んだ。命には始まりと終わりがある。そしてたやすく失われようとする。
手入れをし、調整をするということは、永くあるよう祈ることと同じだ。どれだけ術式に深く潜ろうとしても、命そのものに触れることはできない。だから、どうかと手を伸ばして、指先の向こうに祈る。生きてほしいと紡いだ式が、命を動かす解を導くようにと。
「だから、あたしは、あんたに生きてもらわなきゃいけないの。あたしが、あんたも、レイヴンのことも生かす」
リタの言葉のあと、しばらくしてアレクセイはゆらりと手を持ち上げてリタの記録帳に触れた。ぱらり、とめくりながら、目を通す。
「そうか……あれは、今は君が診ているというわけか」
独り言のように口にして、ふっと笑みをこぼす。
「君に引き継がれて……彼も誇りに思うことだろう」
そうしてごく微かな声でなにごとか呟く。リタは意味が分からず、首を傾げる。
「誇り?」
記録帳をリタに返したアレクセイは、長く、長く息を吐いた。何かを体の内から絞り出すように、小さく呻いた。
「君に見てほしい場所がある。来たまえ」
寝台のそばに立てかけてある杖を取って、アレクセイはよろよろと立ち上がる。突っ立ったままのリタを横目に、一歩ずつ、覚束ない足取りで部屋を出ようとする。
「中から、その扉開くの?」
「先ほど君が屋上で操作をした関係で、一時的に解錠されているはずだ」
アレクセイの言う通り、扉は手で押されるとわずかに動いた。だが、それなりに重量のある扉らしく、アレクセイは扉を押したまま立ち止まっている。見かねたリタが手伝うと、ようやく通れるくらいには開いた。
「助かる」
そのまま廊下をよろり、よろりと歩いていく。リタは部屋に置いたままの飛行機械を背負うと、その後を追いかけた。
「ここだな」
廊下のある一点でアレクセイは立ち止まる。
「すまないが、私は屈むことが難しい。この壁と床の境目辺りを調べてくれ」
「いいけど……隠し通路でもあるわけ?」
「察しがいいことだ」
言われた通り、リタは屈み込んでその周辺を探る。廊下はほとんど灯りが入っておらず、リタの持つ発光装置だけが頼りだ。
いや、と思い直す。屋上では、肉眼で見つけることができなかった。装置をしまい、暗視ゴーグルを付ける。そうすると、ごく淡い光が壁の模様の隙間に埋もれているのが分かった。
「これ、押せばいいのね?」
アレクセイが頷いたので、リタはその光を指で押し込む。すると辺りの壁が扉のようにゆっくりと開き、その奥にまっすぐな暗い通路が現れた。
「研究に使ってたって言ってたけど……ここも怪しい目的のための区画なの? それって何?」
「来れば分かる」
廊下をゆっくりと進むアレクセイの後ろに立ち、リタはしぶしぶ付いていく。アレクセイの歩く速度はおそろしく遅いので、リタはしばらく止まっていてもじゅうぶん追いつけた。
「時に、君は……」
「なによ」
「なぜここまで、あの男のために動こうとするのだ」
アレクセイの後頭部を見つめながら、リタは顔をしかめた。
「違うわよ、あいつのためっていうか……心臓を診るって決めた責任があるから、魔導の専門家としてちゃんときっちりやる必要があるって思ってるだけよ。中途半端は嫌いなの」
そうか、とアレクセイはちらりとリタを見やる。
「それほどにまで、愛しているのかと気になっただけだ」
「あ、愛……っ!?」
危うく手にしていた発光装置を落とすところだった。リタは数回咳き込んでから、アレクセイをじとりと睨みつけた。こんなことを言うような男だったのかと呆れた気分になる。
「そんなんじゃないから! あいつとは検診のとき会うくらいだし、あたしは単に義務っていうか一回引き受けたからには投げ出したくないだけ……それだけよ」
それを言うなら、とリタは複雑な気持ちになる。レイヴンはここ数か月ずっとアレクセイのために動き、アレクセイのことを考えて悩み続けていた。結果、リタとの約束を数度も忘れることになった。それほどの想いを向けられていることに、果たしてこの男は気付いているのだろうか。
「この部屋だ」
アレクセイに示されたのは、ずいぶん古びた扉だった。それはアレクセイの力でもキィと音を立ててのろのろと開いた。
中に入ると、古い紙の匂いがした。城の地下書庫と少し似ている。けれどここは長いあいだ誰の手入れもなかったからか、埃っぽく冷えた空気に満ちている。
「何ここ……資料室?」
四方の壁と部屋の中央に備え付けられた棚には、所狭しとあらゆる本や紙束、実験器具のようなものが詰め込まれていた。どれも長い時間触れられていないのか、時が止まっているように縮こまり眠っている。
「ここに、心臓魔導器の開発についての資料が残されているはずだ」
「え……!? なんで、ここにそんなものが」
「この塔は、秘密裏にヘルメス魔導器の研究と改造を行うための実験施設の一つだった。表向きは帝都詰めの魔導士たちの寝所ということになっていたが、こうした区画を知っていたのはごく限られた者だけだ」
「そんな場所、よく知られずにいたわね」
「ここにあるものはごく一部だ。多くは騎士団本部の研究区画に保存されていたが……失われた」
アレクセイがゆらりと棚の一角を指さすので、そちらを見る。何かの模型だった。ちらりとアレクセイを見ると小さく頷いたので、手に取ってみる。まじまじと正面から見て、気がついた。
「これ、心臓魔導器の模型……!」
「この部屋にあるものは、すべて好きにして良い。今夜すべて持ち帰るわけにもいくまい……後日、誰かにこの部屋の存在を話し、引き取るなり滞在するなりするといい」
リタは模型をぎゅっと両手で挟みこみ、ぼんやりと発光装置に照らされたアレクセイの顔を見上げる。
「そんなことしたら、この塔の秘密もバレることになるけど……あたしの頼みは、承諾してもらえたと思っていいの?」
リタが距離を詰めると、アレクセイは目を細め、背を向ける。
「資料さえあれば……とか思ってない? あたしが言ってるのは、そういうことじゃないんだけど」
「君は、なぜそこまで私にこだわる? 罪人の処遇がどうなろうと、君には関係のないことだろう」
淡々と述べるアレクセイに、リタは心臓魔導器の模型を突き出す。
「どんな経緯とか、理由とか、そんなのは知らないけど……あんたが命を繋いだから、あたしはあいつと出会って、今もその命に関わることになった。その命の持ち主が、あんたのことも守りたいって思ってるなら……あたしもその願いを繋ぐ役目をする」
アレクセイは苦しげな眼差しでリタを見つめたあと、ぐっと目を閉じて息を吐いた。そのとき、ぴくりとアレクセイの肩が動く。
「どうしたの?」
「人が来る」
「こんなところに? 通路の入り口は閉じてきたはずでしょ」
「まだ入り口までは開かれていない。だが、君が見つかると厄介なことになるだろう」
アレクセイは杖を使って、リタを無理やり壁際まで誘導しようとする。
「見回りの騎士でしょ? べつに、見つかったら諦めて申し開きするわよ」
「静かに」
唇に指を当てられ、リタは狭い壁に背を当てたまま硬直する。アレクセイの顔が間近に迫り、困惑や緊張や動揺などで鼓動が速くなり、体が震えた。
「私の部屋にあった通気口と同じようなものが、ここにもある。塔の外に出たら、あとは君が想定していた脱出方法なりで何とかするがいい」
「ちょっと」
「君の申し出、しばし考えさせてもらおう。次は空から来ずとも、あの男とともに来るといい」
「話、聞きなさいよっ」
一瞬感じた恐怖も飛んでいき、アレクセイに抗議しようとするも、そのまま不意に開いた通気口にリタの体は吸い込まれる。遠ざかっていくアレクセイの顔を思い切り睨みつけたが、体がすべり落ちていく浮遊感への恐れにすべて巻きとられてしまった。
長い降下の旅はふいに終わり、塔の外、城の裏庭に体は投げ出される。暗闇に満たされた裏庭は、誰の気配もなくとても静かだった。リタはようやく息をつく。両手が、かたかたと小刻みに震えていた。ジュディスからもらったバウルの角をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫……上出来よ」
装置を背負いなおし、どっと疲れの乗った体を引きずって、リタは草を踏みしめた。白み始めた空に、月がぼんやりと佇んでいた。