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鎖みたいだと思っていた。不思議な形状をしたそれは、すべてを失った身をこの世に縛りつけるためのもののように見えた。
あるはずのなかった命は、この鎖の中に巻きとられ閉じ込められている。あの日から何度、言いあらわせない思いとともに、この体の異物に向き合ってきただろう。
視線を下にやると、赤い光が明滅する。絶え間なく動き続けていることがわかる。こうして目に見えるのは良いことばかりではない。少なくとも、レイヴンにとってはあまり直視したくないものだった。
鈍い光を目にすると、自分の意思とは関係なく生かされている、どうしてもそんな風に思ってしまう。仲間たちと多くの時間を過ごし、自分で再び生きることを選び取った今でも。
「はい、おしまいっ」
少女の声でレイヴンはハッと我に返る。
ダングレストの人気店で買ってきた焼き菓子は、リタにとても好評だ。検診が終わるやいなや、レイヴンの持ってきた手土産に飛びついて包みを開けようとしている。
「リタっち、おやつより先にごはん食べよーよ、せっかく二人分そこの店で調達してきたんだし」
「べつにどっちが先でも……」
「焼き菓子はもう少し日持ちするからさ、どっちもいっぺんに食べられないでしょ?」
「むう、わかったわよ」
リタはしぶしぶといった様子でレイヴンの向かいに座る。小さな椅子がギィと音をたてる。ハルルにあるリタの住まいは、元アスピオの研究員たちが暮らす一角の端にある小屋だ。そこへ定期的に足を運び、 心臓魔導器の検診を受け、食事をして帰る、それが一連の習慣となっていた。
「ほれ、採れたて野菜のサンドウィッチよ、焚き火で軽く炙ってたからまだあったかいはず」
「先に言いなさいよ、冷めちゃうじゃない」
「言わせる隙も与えられなかったんだけどね」
「はむ……ほへほふ?」
「ほいほい、いただきますっと」
定期検診をしたい、初めてそう言い出されたのは旅の終わりも近づいた頃だった。いずれ会うのが難しくなるかもしれない、だけど期間を決めて定期的にその子を見せてほしい、そう真剣に頼まれた。
すでにリタには何度か心臓魔導器を見せていた。それだって結局流れに押し切られてのことだった。リタがこの魔導器のためにそこまで時間を割く必要があるのか。そう言うと、リタは呆れたように息をついた。
――勘違いしないで、その子はあたしのこれからの研究にも必要なのよ。
あのとき、少し恥ずかしいような気持ちになったことを思い出す。自分のためにすべてやっているなんて、自惚れるなと言われた気がした。
けれど、やはり今になってみれば思う。レイヴンのために、などと言われれば、この定期検診が実現するのはもう少し遅くなっていたかもしれない。リタはきっとそれを分かっていたのだろう。もしそうだとしたら、賢い子だと思う。かなわない。
「来月も、これ売ってるわよね」
サンドウィッチに加え、焼き菓子をひとかけらだけ口にしたリタは満足そうだ。
「リタっちがご所望なら次また持ってくるけどさあ……おっさんのこと、お菓子配達人だと思ってない?」
「ついでがあったら店覗いて、なかったらそれでいい」
「あー、ちゃんとチェックしとくって。だからお菓子ばっかり食べすぎちゃだめよ」
「ついででいいって言ってるのに……」
ぼそぼそと呟くリタを横目に、散らかった部屋を少しだけ掃除にかかる。あまり置き場所を変えると怒られるので、様子を見ながらやることにしている。
――これもお礼、ってわけじゃないけど。
毎度そうしないと、気が済まないのだった。
剣が激しくぶつかり合う音が天高く響く。ザーフィアス城の端にある訓練場は上層とひと続きになっており、晴れた日は青空がよく見える。
「そこ、構えが甘い! もっと身を低くして、体をばねにして技を返せ」
「はい、レイヴン隊長!」
「もう一度だ」
レイヴンは特別顧問として騎士団の指導にあたっていた。そんな大層な名前をつけられる身ではないと何度も拒んだのだが、フレンたちから、ギルドの戦術を騎士団にも取り入れ双方の垣根をなくすためにも、などと熱心に説得されてしまった。騎士団とギルドの仲介役が今のレイヴンの主な役目ではあるため、そのついでという体で引き受けることになった。
「ご指導、ありがとうございました!」
深々と礼をして、去っていく若い騎士の姿を見送る。自分が後進の指導などしてもいいものか、とずっと思い続けてはいるが、熱心に訓練に取り組む騎士たちを見ているとレイヴンの胸は少しだけ熱を持つ。成したいことがあり、それを心に燃やし進み続ける者たちは、いつだって眩しい。
シュヴァーン・オルトレインがどのような人物であったか、騎士団員の前で告白してからもういくらかの時が経つ。騎士団で二つとない隊長首席という称号を冠したその男は、ギルド幹部に近しい立場でもあり、十年ものあいだ両組織に属していた。
そのことを告げられた騎士団員たちは動揺していたものの、おおむね同情的だった。騎士団長アレクセイの命で潜入任務を余儀なくされ、不自由な立場に置かれ続けていた、そうした印象になっているようだった。
当面レイヴンが両組織の仲介役を務める以上、多少のそうした印象操作は必要なことだったのだろう。ヨーデルやフレンたちにも、シュヴァーンという名ではなくレイヴンとして城の中でも動けるようにずいぶん手を尽くしてもらった。
レイヴンは首を振って考え事を追い払う。訓練用の剣を再び取り、模擬試合の準備をする。
いろいろなものが失われ、いろいろなものが恐るべき速さで変わっていく。今はただひたすら、目の前のやるべきことに向かうだけだ。それが己の役目だというのなら。
訓練が終わり、平服に着替えたレイヴンが廊下を歩いていると、後ろからふと呼びとめられた。
「あ、レイヴンさん! お疲れさまです」
早足で近づいてきたフレンが敬礼をする。
「おー、フレンちゃんお疲れ、そんなかしこまらなくっていいのに」
「そう言っていただけるのは恐縮なのですが、仮にも城内ですので……」
城の外で会ってもいつも同じ感じだけどなあ、などと思いながらレイヴンは頭を掻く。いつ顔を合わせても、若い騎士団長は各所を忙しく駆け回っている。
「訓練、模擬試合ともにつつがなく終わったわよ。あれ、そういえばフレンちゃん参加してなかったわね」
「申し訳ありません……レイヴンさんにすべてお任せしてしまう形になってしまいましたね。団長の私が穴を開けてしまい大変面目ないのですが、緊急の用件があったもので」
「緊急? なんかヤバい事件でもあった?」
フレンの表情は固い。どうしたものか、言葉に迷っているように見える。
「いや、口外できない案件ってんならべつに……」
「……いえ、レイヴンさんにお伝えするために、わざわざお呼び留めしたのです。ヨーデル陛下の命を受けて」
「陛下が?」
皇帝も絡んでいるとなると、よほど大きな案件らしい。レイヴンは表情を固くする。
「こちらへ」
フレンに案内され、城の上層階へと上っていく。その間、ずっと重々しい沈黙が流れていた。限られた人間しか立ち入ることのできない区画を通り抜け、辿り着いたのは皇帝陛下の私室だった。ザーフィアスに来てから十年余り、ほとんど足を踏み入れたことはない。
「陛下、レイヴン隊長をお連れしました」
いったいどんな厄介な話を聞かされるのかと、思わず浮かべた苦々しい表情をフレンの背に隠す。
「ありがとうございます。入ってください」
ヨーデルの声とともに、フレンのあとに付いて入室する。ソファに腰かけたヨーデルの向かいには、先客がいた。
「デューク!? なんでここに……」
レイヴンの驚いた声に、長い髪を揺らしこちらを一いち瞥べつする。その向こうで微笑みをたたえながら一礼するヨーデルに、慌てて敬礼をする。
「陛下、ただ今馳せ参じました」
「訓練指導の後だというのに、わざわざご足労いただきありがとうございます。とりあえず、そちらへ座ってください」
年若い皇帝陛下は柔らかに促す。示されるままデュークの隣に腰かけた。フレンはヨーデルの傍らに控えたままだったが、ヨーデルに言われ、その隣に腰を下ろす。
「どうぞ、楽にしてください。すみません、急な呼び立てで困惑されたことでしょうが、レイヴン殿にお伝えしたいことがあって、この場を設けたのです」
「私に?」
レイヴンは軽く首を傾げる。自分以外の面々は、すでに把握している話のようだった。ヨーデルとフレンは分かるとしても、デュークがなぜ同席しているのか検討がつかなかった。
「前置きは省いて、さっそく本題に入らせていただきますね。我々も、数日前デューク殿から伺ったばかりなのですが」
デュークからもたらされた、機密性の高い情報。つとめて柔らかにヨーデルが話していてさえ、拭えない重苦しい空気。レイヴンは背中に嫌な汗が伝うのを感じて、わずかに身震いした。
予感など微塵もなかった。ただ次の言葉を聞いてしまえば、もう戻れないかもしれない、とぼんやり思ったのを覚えている。
「アレクセイが、生きていたのです」
「先日、城内に運び込まれ……姿を確認しました。確かに間違いなく、帝国騎士団元騎士団長、アレクセイ・ディノイアその人でした」
ヨーデルの話が頭の表面を上滑りしていくように入ってこない。アレクセイは、ザウデでの戦いで巨大魔核コアの落下に巻き込まれて死亡したはずだった。立ち尽くした彼が大きな影に呑み込まれるのを、レイヴンはこの目で見た。
「い、生きてるって……何がどうなって」
やっとレイヴンの喉から出た声は、情けないくらいにかすれて弱々しいものだった。
「デューク殿、お願いできるでしょうか」
ヨーデルに請われたデュークは、長い息をつき顔を伏せる。
「……かの者を発見したのはクロームだ。もういくらか前のことになるか……海岸に横たわっていたのを見つけ、人の手の届かぬ場所に運んでいた。かろうじて息があったが、全身に深い損傷の跡があり、もういつ命の火が消えるとも分からぬ状態だった」
レイヴンは震える手をもう片方の手で押さえ込みながら、じっとデュークの話を聞いていた。クロームは、デュークのため長年アレクセイの側に仕えていた。彼女の中に、何か思うところがあったのだろうか。
「そしてクロームがその在り方を変えたあと、私はかの者の元を訪れた。すると、わずかな反応が見られたのだ。クロームによる守護の術の中で、かの者はごくわずかな意識を戻していた。そのため、ここからは人の手に委ねるべきだろうと思い来たのだ」
デュークは深く息を吐いて、ソファに背を預ける。目を閉じて、自分の役目は終わったとでもいうようにそれきり黙り込んでしまった。
「ご説明いただきありがとうございます。一刻も早くレイヴン殿にもお伝えすべきと思いましたが、なにぶん簡単に人の耳へ入れるわけにはいかない話だと判断したため、遅くなってしまいました」
ヨーデルは深々と頭を下げる。
「この件をほかに知っているのは、限られた側仕えの者だけです。帝国、ならびに世界中を揺るがした大罪人が生きていた……我々も今後の処遇を決めかねています。ひとまず意識が完全に回復するまで、人の立ち入れぬ部屋で治療を施していくことになっています」
震えは少しだけおさまってきた。だんだんとこれが与太話などでなく、現実の話をしているのだと頭では理解が追いついてきた。
なぜもっと早くに知らされなかったのかという気持ちとともに、なぜ先んじて自分に知らされたのかという気持ちが湧く。ヨーデルとフレンは帝国の中枢であり、デュークは事のきっかけの関係者だ。自分に知らせて、いったい何をしろというのだろうか。
「アレクセイに……会うことはできますか」
ともかく、本当に現実なのか自分の目で確かめるほかない。ヨーデルとフレンはともに心配そうな顔をしてレイヴンを見る。そんなにひどい顔をしているだろうか。
「……そうですね、わかりました。我々も同行しましょう」
「私はそろそろ行く。ではな」
デュークは立ち上がり、ちらりとレイヴンに視線を向けた。感情の見えない瞳からは、その意を汲むことはできなかった。そうして颯爽と部屋を出ていこうとする。慌ててフレンが引き留めようとするも、あっという間にその姿は扉の向こうに消えた。
「フレン、構いません。彼にはわざわざこんな場所まで同席いただき、二度目となる説明をお願いしてしまいましたから。ただでさえ複雑な事態ですし、レイヴン殿にも、デューク殿ご本人から説明していただいたほうが良いだろうと思いましたので」
ヨーデルがでは、と立ち上がる。先導するフレンとヨーデルに付いて、レイヴンも部屋を出る。
「人の立ち入れない場所、というのはいったい?」
「かつて研究者たちの詰め所として使われていたという、古い塔が裏庭に建っています。今ではほとんど使われておらず、人の目にもつきにくいということで、その最上階にアレクセイを運び込むことになりました」
人気のない廊下を通り、裏庭に下りる。裏庭の奥、小さな庭園を抜けた先にその塔はあった。久々に訪れた場所にかすかな記憶がよぎる。
――昔、アレクセイが出入りしていたのを見た……?
塔の内部に入ると、ひんやりとした静謐な空気に迎えられる。螺旋状の階段を一段一段のぼるたびに少しずつ体温が下がっていくような心地がして、レイヴンはぐっと奥歯を噛みしめた。
長い階段の先は灰色の壁があり、一見するとこれ以上先に進むことはできないように思えた。しかしフレンが壁の端に鍵のようなものを挿すと、壁は左右に開き動いた。
「この先の部屋です」
ヨーデルが指し示す。薄暗い廊下には小さな明かり取りの小窓がぼっかりと光り、その脇には両開きの扉があった。
「ヨーデル様は、こちらでお待ちください」
「お願いします」
ヨーデルを廊下に残し、その重々しい扉をフレンが開けると、さらにもう一つ扉が現れる。扉には小窓らしきものがあり、赤い布で覆われていた。扉と扉のあいだのごく狭い空間のなかで、布の端から漏れる微かな光だけが奇妙な存在感を放っていた。
「レイヴンさん、こちらへ」
布に手をかけたフレンに呼ばれ、扉のそばに寄る。レイヴンも赤い布に手を伸ばす。
「大丈夫ですか……レイヴンさん」
小声でフレンが耳打ちしてくる。見ると、目には心配そうな色が濃く浮かんでいる。
「何言ってんの、大丈夫よ」
つとめて普段通りの調子でそう返した。自分でも、何が大丈夫なのか、よくわからなかった。
巻き上げられた布の向こう、ぽっかりと白く四角に縁取られた小窓を覗きこむ。室内は寝台と机と椅子、そのほかには何も置かれてはいなかった。無機質な白い室内の奥、白い寝台に人間が眠っていた。
白いシーツに溶けるかのような真っ白な顔に、閉じられた目と唇があった。
「アレクセイ……」
確かに、レイヴンの知るアレクセイ・ディノイアと同じ顔をしていた。何度も頭のなかで繰り返し、影に呑み込まれた顔。
けれど、よく似せて作られた人形が横たわっているようにも見えた。窓越しに見て、生きているか分からないというよりも、生の気配が驚くほど感じられなかった。
レイヴンはぎゅうと胸をつかまれるような思いがした。あのアレクセイがこのような状態で生き延びていたことが、信じられないくらいに痛ましく思えた。
とたん、一つの声が聞こえた。
――お前のせいだ。
窓に貼り付くように近づき、薄く映った自分と目を合わせた。
――俺が、止められなかったから。
そうだ、というように目は語る。忘れたことはない。けれど時はあらゆるものを押し流す。日々のなかに埋もれていた罪をレイヴンに知らせるために、今帰ってきたのだ。
「……中に、入ってもよろしいですか」
レイヴンは少し離れた場所に立っていたヨーデルに向き直る。
「少しの間でしたら構いません」
「それから、お願いしたいことがございます」
自動的に体が滑るように動き、ヨーデルの前に膝をつく。
「アレクセイの身の回りの世話を、私に一部お任せいただけないでしょうか」
顔を伏せていても、ヨーデルと背後にいるフレンが困惑の表情を浮かべているだろうことは想像できた。しかしレイヴンの口は止まらなかった。
「アレクセイの容態が回復するまで、今後の処遇などを決めることは難しいでしょう。なればこそ、私の微力を尽くして、迅速な回復の助力ができればと……彼が在任中、近く側にいた者としての責務でもあると考えます」
レイヴンは影に呑まれた灰の床と見つめ合い、目を閉じた。風も空気も動かない静けさが立ち込めた。
「分かりました。レイヴン殿にお任せしましょう」
「ヨーデル様! しかし」
「あなたの本来の任務などに差し障りのない程度で、彼を見舞ってやってください。親しいあなたが側にいれば、彼も何か反応を見せるかもしれません」
フレンは納得しかねるかのようにレイヴンの一歩後ろで鎧を鳴らす。深々と頭を下げたレイヴンは、立ち上がり振り返って扉を見つめた。もう夢まぼろしだとか信じられないだとか、そうした感情は薄れていた。ただ、やるべきことがある、それだけが頭の奥に激しく瞬いていた。
一人、足を踏み入れた部屋は、不気味な白い明るさに満ちていた。格子の嵌められた窓から昼下がりのまっすぐな日差しが乱反射して、レイヴンの目を眩ませた。日が暮れると窓掛けを下ろすのだという。
改めて近づいて見ると、アレクセイの顔は作られた陶器のように青白く、命ある人間の息吹をたたえてはいなかった。これが実は保存状態の良い遺体だと言われても納得するだろう。
けれど、よく確かめてみれば呼吸をしているのが分かった。レイヴンは手を伸ばし、アレクセイの胸元にそっと押し当てる。かすかな温度と弱々しい拍動を感じて、ゆっくりと息を吐く。
――本当に、ここにいる。
いったいどんな感情をおぼえればいいのか、レイヴンには分からなかった。こんな状態にあることを悲しめばいいのか、生還したことを喜べばいいのか。早く目覚めてほしいと焦燥に駆られればいいのか、いまごろなぜ現れるのかと苦々しい思いを抱えればいいのか。
――あなたも見ていたのか、こんな姿を。
レイヴンの記憶が、十年の月日を越えて引き戻されていく。今に至るすべてが始まった、それまでのすべてが終わったと感じられた、横たわる自分の姿が蘇る。
目覚める前、アレクセイがどのような処置をもってこの胸に魔導器を埋め込んだのか、レイヴンは知らない。けれど、処置を受ける前に死んでいた・・・・・姿をアレクセイは目にしていたはずだ。そうして目覚めた人間は、命を繋ぐための機構を埋め込まれたことに絶望し、抗議し、生を放棄した。
レイヴンは膝を折って枕元にすがりつき、シーツの端に顔を埋めた。そうして、今度こそはっきりと理解した。
――この人をこうしたのは、自分だ。
命も、名前も、痛みも与えられながら、一番近くにいたはずなのに、何もできなかった。その人間はいまや与えられた名を過去のものにし、まだ消えない命の残り火をみっともなく燃やしながらおめおめと生きている。
アレクセイの体の両側に置かれた腕をたどり、冷えた手に触れる。ぞっとするほど冷たい手を両手で握りこむ。レイヴンにいくつもの感覚を刻み込んだこの手に、こうして再び触れる日が来るとは思わなかった。
「アレクセイ……」
対面してから初めて、名を呼んだ。アレクセイの目は閉じられたまま、呼びかけに応えるはずもない。海の底から帰ってきた主は、果たしてレイヴンのことを覚えているのか。再び名を呼ばれることなどあるのか。胸の奥がざわざわと騒ぐ。
しばらくの後、レイヴンが握った手を緩めたとき、アレクセイが一瞬身じろぎしたような気がした。驚いてしばし見ていると、もう一度体がびくりと動き、ゆっくりと、ゆっくりとまぶたが開かれる。
アレクセイの双眸が、レイヴンを見ていた。暗く、虚ろな瞳がそこにあった。かつて何度も見つめ、何度も逸らし、間近に迫り、彼方に遠ざかった色だ。
レイヴンは息をするのも忘れて静止した。指先のひとつも動かせなかった。そうして、ただ、ひとつの声だけが巻き付くように廻っていた。
おまえはここにいなければならないのだ、と。