5
白い部屋で、レイヴンは格子窓越しの夕暮れを見た。
静かな部屋にアレクセイのかすかな呼吸音だけが響く。もう医療装置の出番はずいぶん減った。少しずつ食事もとれるようになってきている。
白い服の合わせ目からのぞく肌が、少し汗ばんでいるのに気付く。引き出しから清潔な布を取り、そっと拭ってやる。シーツと同じくらい白い肌が、ほんのりと赤みを帯びている。
「……ちゃんと、生きてる」
呟いて、頬に手を這わせた。ほんの少し温もりをはらんだ、ぬるい温度がレイヴンの手のひらに伝わる。生きている人間のあたたかさに、レイヴンは泣きそうな思いがした。
同時に、恐ろしいと感じた。こんな風に、勝手に安心している自分に対して。
アレクセイとは、まだまともに言葉を交わせてはいない。身体の状態は少しずつ回復に向かっているものの、会話は誰ともすることがなかった。わずかな身振り手振りのみが、意思疎通の手段だった。医者は、まだ脳機能が回復途中なのだろうと推測していた。
しかし、アレクセイは少なくとも、自分が置かれている環境について理解し始めているとレイヴンは確信していた。なぜこんな厳重な部屋に閉じ込められているのか。会いに来る人間がごく限られているのか。
――殺してくれ。
アレクセイが度々口にする意味のある言葉は、それ一つきりだ。少なくとも、レイヴンが知る限りは。
アレクセイはその言葉とともに、レイヴンに請うような眼差しを向けた。なぜ殺してくれないのか。なぜ生きなければならないのか。見ているものを虚無に引きずりこむような昏い瞳がレイヴンをとらえつづけた。
レイヴンはアレクセイが口を開くたび、その言葉を熱のなかに閉じ込めた。それ以外に、どうしてよいのか、分からなかった。
このまま身体が回復していっても、心がついていかないのでは厄介なことになるかもしれない。まともな裁きが受けられず、処遇に悩んで死罪が下されることも十分あり得る。
本来、今アレクセイが生存しているのはあり得ない事態なのだ。それなら、初めからなかったことにすればよい。そんなことに割く労力が惜しいくらいに変わりつつある世界は誰にとっても目まぐるしい。
――いったい、どうすればいい?
アレクセイに生きていてほしいと思うのは、自分の勝手な願いだ。助かったアレクセイの命を、過去を償うための機会として見なしているのはひどく傲慢なことではないのか。それなら、他ならない自分の手で、アレクセイの望みを叶えてやるべきなのだろうか。
眠るアレクセイの服をもう一度整え、レイヴンはそっと離れる。すると、目尻がわずかに濡れていることに気付く。そのままするりと涙が一滴すべりおちる。
レイヴンは持っていた布地の端でそれを拭った。それからしばらく、枕元にうずくまって、動けなかった。
「以上、報告終わり」
ユニオン本部の一番奥の部屋で、レイヴンは形だけの報告書を読み上げる。
「ご苦労、どうにか片付いたみたいで一安心だな。これで厄介な案件が一つ消えたってわけだ」
ハリーはその体よりいくらか大きな椅子にもたれて、安心したように息をつく。今やユニオンを束ね、首領の肩書きを背負う昔馴染みの、時折見せる幼い表情に少しだけレイヴンの心はほどける。
「どうにか頼まれた件は片付いたけど、他には?」
「あー、しばらくは大丈夫だ。お前、帝都から帰ってきていきなりずっと動きっぱなしだったろ? 当面待機ってことで、久々の酒場でも行ってこいよ」
「え、ハリーが俺に酒を勧めるなんて珍しいね、飲み代は持ってくれるってこと?」
馴染みの青年は、溜め息をついて呆れたような顔をする。
「んなわけねえだろ、飲みすぎて何か起こすようなことがあったら連絡しろって、あの団長兄さんに言われてるからな」
「ああそう……んじゃ、ほんとにブラブラしちゃうけど、いいのね?」
「ああ、何かあったら呼び出すから、もう行っていいぞ」
「冷たいねえ」
茶化すレイヴンに、ハリーはさっさと行け、とでも言うように手の甲を向けてくる。はっはと笑い声を残して、ギルド本部をあとにする。出口に向かう階段を一段ずつ降りる自分の足音が、いやに大きく響く。
外に出ると、変わらない黄昏の空が頭上に広がっている。ダングレストを訪れるのは久しぶりだった。ギルドの仕事ということで呼び戻されたが、フレンとハリーが手を組んでレイヴンを休ませようとしているのは明白だった。このところ騎士団の任務とアレクセイの件で手一杯になっていたのは確かだった。しかし、レイヴンは最後まで帝都を離れることを拒んだ。
――確かに長いことあっちを留守にしてるけど、今は……。
――騎士団の訓練も、レイヴンさんのおかげでとても順調です。アレクセイの状態も少しずつ回復に向かってきていますから。
――そうはいっても、いつ不安定になるか。
――こちらばかりがレイヴンさんを借り続けていた形になって、これ以上はギルド側から睨まれてしまいます。そういうわけで、しばらくギルド方面にお力を貸してあげてください。レイヴンさんを必要としている人は、たくさんいるんですから。
フレンに押し切られる形で、要請を受けいれることになってしまった。実際、人手が足りない案件があったのは確かだったが、レイヴンがやったことなどほんのわずかなものだった。ギルド員の喧嘩の仲裁や、遺跡調査の護衛など、本当に細々とした仕事をやっただけだ。
「どうすっかね……」
あてもなく街を歩きだす。何もしなくていい時間というのはいつ以来だろう。世界の激変以来、思えばずっと何かに追われていた気がする。それを苦だと思っていたわけではなかった。何かやることがあるというのは楽なものだ。今も、こうして空っぽの時間を与えられたことに戸惑っている自分がいる。
街の賑やかなざわめきに、懐かしい思いが蘇る。この街に初めて来たのは潜入任務のためだった。それがいつしか、馴染みの街になっていった。
この街で過ごしているときは、自分の身分を忘れられた。自分が誰なのか、何をするために生きているのか、そんな些細なことなどざわめきの中に放って、酒と一緒にどこかへ流してしまえた。
任務を命じたアレクセイの存在さえも、忘れられた。
行きつけだった酒場に向かっていた足が、別の方角へ向く。裏通りの店で、酒瓶をひとつ買い、中心部の喧噪とは反対の方向へ歩いていく。
煉瓦の階段を上って下りて、街の裏手まで出る。ダングレストに住む者、ギルドに関わる者やその親族が眠る墓地だ。ザーフィアス城の墓地よりは質素だが、多くのギルドがこの場所を維持するために協力しあっている。ダングレストの歴史を感じられる場所だ。
「……ずいぶんご無沙汰しちまったね」
墓地の一番奥の大きな墓石の前に立つ。天を射る矢アルトスクの前首領、ドン・ホワイトホースの眠る場所だ。数々の供え物の中心に堂々とそびえる墓標は、さながら本人がそこに立ち続けているかのような風格をたたえている。
レイヴンは買ってきたばかりの酒瓶を他の供え物の脇に置く。たまに二人で飲んだときに、彼が気に入っていた酒の一つだ。
「運良く売ってて助かったよ、これで勘弁してくれよな」
――今更、おめえの何を勘弁しろって?
そう声が聞こえてくるような気がした。レイヴンは墓石の前にうずくまる。
レイヴンは改めて墓石の前の供え物を眺めた。ドンの好物の酒当て、よく磨かれた工芸品、色とりどりの花々。だんだんと居たたまれない思いが湧いてきて、唇を噛む。
ドンが死んだのも、巡り巡ればレイヴンに責任の一端がある。レイヴンが逃げ続けた果ての報いとして、彼の命は差し出された。そうして〝ギルドでの役目〟は終わりを告げた。
それでも、まだレイヴンはここにいる。あのとき逃げ続けた報いが今もすぐそこにある。払いきれていない代償が山のようにある。
辛気くさい面してんじゃねえ――そんな風にドンなら一発張り飛ばすだろうか。ドンの拳はいつも脳天に響くような衝撃だった。想像して懐かしく思ったあと、レイヴンはふと空恐ろしくなった。
――もしアレクセイが死んでいたら、こんな風に懐かしく思い返したんだろうか?
実際に、つい先日までは死んでいたと思っていたのだ。アレクセイのことを過去の痛みにして、今の出来事に精一杯になって、少しずつ進もうとしていた。
そうしているうちに、自分の行いなど薄れていき、鮮やかな眼差しも、夢を語る声も、触れられた手も、刻まれた痛みも、やがてすべて美しい思い出などになっていたのだろうか。
レイヴンは立ち上がる。これ以上ここで追憶に耽っていると、本当に化けて出たドンに叱り飛ばされそうだった。
「……じいさん、俺はいつまで経っても、腑抜けなんだわ」
呟いて、踵を返した。
のろのろと歩きながら街の中心部まで戻ってくる。甘い匂いに、ダングレスト有数の菓子店が今日も営業していることを知る。リタによくこの店の菓子詰め合わせを買っていった。次にまた同じものを買っていくと言って、いったいどのくらい経っただろう。
ダングレストに向かう道中で、こっそりとハルルに立ち寄った。あんなことを言ったあとで、しれっとリタと顔を合わせる気はなかったが、様子だけでも確認したかったのだ。
しかし、リタは不在だった。しばらく調査のために遠方に向かったという。それを聞いてレイヴンは心からほっとした。本当は会いたくないと思っていたのに、なぜ立ち寄ったのか。謝りたいという思いと、いったい何を謝るのかという思いが同居していた。結局、手土産だけを研究所の受付に預けて去った。
ぼうっと歩いていると、余計なことばかり考えてしまう。予定通り酒場にでも行くか、さっさと寝床に帰って眠るか迷っていると、勢いよい声が耳に飛び込んでくる。
「さあさ、とれたてピッチピチのお魚天国じゃぞ~新鮮な魚がよりどりみどり、どれも早いもの勝ちじゃ!」
老若男女の歓声が次々に響く。どの客も店主の謳い文句に寄せられて、我先にと店頭に押し寄せている。
「乱暴な扱いは御法度じゃぞ、魚を傷つけたものはそれなりの代償をいただくからの」
店主が上手に客たちをいなし、礼儀正しく並んだ列がするすると捌けていく。レイヴンが呆気にとられて見ている間に、屋台の品物は空っぽになってしまった。
「……パティちゃん、商売上手だねえ」
「おお、おっさんか! あいにくじゃがもう売り切れてしもうての」
「いや、今べつに魚はいらないんだけど……なんでこんなとこで魚屋さんしてんの?」
「仕事のついでに寄った海で大漁になっての、みんなで食べきれんほどじゃったので、せっかくなら自分で売ってみようと思っての」
「ギルド所属なら市場の許可も取りやすいけどさ……相変わらずすんごい度胸ね」
話しているあいだにパティは素早く荷物をまとめ、屋台の周辺はあっという間に綺麗に片付いた。
「おっさんは散歩か? よく考えたら久しぶりじゃの」
「そうね、パティちゃんがギルドを率いて海で大活躍って噂は聞いてたけどさ」
「再会を祝して、一杯どうじゃ? うちも陸の食事は久々じゃからな」
パティは伸びをしながら、返事を待たずに歩いていく。レイヴンは頭を掻いてそのまま付いていくことにする。
「ぷはあーっ、久々の一杯は格別じゃの」
「豪快な飲みっぷりねえ、ジュースでも」
パティはオレンジジュースをあっという間に空にして、早々に二杯目を注文する。
「酒が不足して、ギルドの決まりも厳しくなったというからの。ここでうちがうっかり酒を口にしようものなら、たちまちおっさんが牢屋行きじゃな」
「おっさんのことを思って? 優しいねえ」
「一流の船乗りとしては、各地の酒を海風と一緒に味わいたいんじゃがな」
「大丈夫、まだまだ人生長いからいくらでもできるって」
酒場の雰囲気もあって、久方ぶりのパティとの会話は賑やかに弾んだ。ダングレストの馴染みの食事に、レイヴンの酒もいくらか進む。
「そういえば、この前ジュディ姐に会ったぞ」
「おお、ジュディスちゃん、元気だった?」
「近ごろ特に大忙しみたいでな、皆に会う暇がないと嘆いておった」
「あらま、そんなに? 心配ね」
すばやく持ってこられた二杯目を傾けながら、パティはレイヴンを見やる。
「おっさんのことも、心配しとったぞ」
「心配って……ジュディスちゃんが? 俺を?」
ジュディスに最後に会ったのはいつだっただろう。記憶をたどっていると、がたん、とグラスを置いたパティがじっとレイヴンを見ていた。静かな海のような瞳が、店の灯りにきらめく。
「アレクセイのことじゃ。おっさんが看てやってるんじゃろ?」
その名前を出されて、レイヴンは口に運びかけていたチーズを手元の皿に戻す。楽しい雰囲気に薄れかけていた痛みがじくりとよみがえり、胸を刺す。
「看て……って、そんな大層なことしてないって。たまたま城にいる時間が長いから様子見に行ってただけでさ、今はギルドの仕事で呼び戻されて、お役御免になってるし」
はっは、と軽く笑ってみせたが、パティは表情を変えなかった。
「なるほどの、ジュディ姐の心配は見事的中しとったというわけじゃな」
「いやいや、どういうことよ……」
「アレクセイのことで、うちらの中で一番つらい思いをしとるのは、誰なのか明白ということじゃ」
落ち着いた様子でパティはグラスを空にして、三杯目にパインジュースを注文する。
「つらい思い、って」
つらい。つらいとは何なのか。言葉がぐるぐると回って、思考がかき乱される。
「そ、んな……ことないって、それを言えばさ……パティちゃんのほうが、思うところあるんじゃないの? びっくりしたでしょ、仇が生きてたなんてさ」
パティは目を丸くしたあと、そうじゃな、と考え込むようにうつむく。
「今でも、あいつのことは許せん。あいつのしたことを思うと、仲間たちのことを思うと……腹の底が煮えくり返りそうになる。憎くて、たまらなくなる」
重々しい声が絞り出される。憎しみを語る言葉に、レイヴンの体は知らず震える。己の手でもしかすると止められたかもしれない悲劇だったのに、事件の詳細すら知らなかった。あれだけそばにいながら、アレクセイの行いに何の関心も持っていなかった。すべては自分の外側で回ることだと思っていた。
「……けど、うちがあいつをもう一度殺したところで、何にもならん。せいぜいうちの心が少しばかり晴れるくらいじゃ。その代わり、おっさんが悲しむのは嫌じゃからな。心を晴らすなら、他にもっといくらでも良い方法がある」
もう一度殺す。心臓がどくりと音を立てた気がした。自分の感傷などどうでもいい。そうしたほうが、あの人にとっては幸せなのではないか。ずっと考えていた迷いが、ふっと顔を出す。
「悲しむなんて……そんなことないよ」
呟きながら、酒を一口流し込む。喉が焼けるように熱くなる。
「フレンや、他の奴からほんの少し聞いただけじゃが、おっさんとアレクセイは……サイファーとうちみたいなものだったんじゃな」
しみじみと口にするパティに、慌てて否定する。
「いやいや、パティちゃんにとってのサイファーはさ、信頼できる右腕以上のかけがえない人だったんでしょ。俺とあの人は……そんなんに例えていいもんじゃないよ」
「そうかの、まあうちが知ることなど些細なことじゃが……もしサイファーが、と考えてみると、少しばかりおっさんの胸中が分かるような気がするのじゃ」
パティはわずかに微笑んで、サイファーとの思い出をいくつか話してくれる。酒を賭けて何度も博打を打ったこと。無茶を何度も叱られたこと。めくるめく航海の日々をともに過ごしたこと。
「そばにいるからこそ、案外分からないことも、ぶつかることもあった。それもすべて大事な思い出じゃ」
宝物をそっと懐からひとつずつ出すように、パティは語る。そのひとつひとつが眩しい光を放っていて、レイヴンは目が眩むような感覚をおぼえる。
「聞けば聞くほど、パティちゃんとはぜんぜん違うことばっかだわ。ぶつかるどころか、言い合いすらしたことなかったよ」
アレクセイが道具たれと望むままに、レイヴンは道具以外のものになろうとしなかった。人間としてそばにいたのではなかったのだ。
「俺は……あの人の好きな酒も知らない」
酒を飲み交わしたことなどない。アレクセイが酒を飲むのかどうかも知らない。ただ分かるのは、彼の体から酒の匂いがしたことは一度もなかったということだけだ。
「それなら……今度こそ、おっさんの気持ち、伝わるといいの」
パティはちっとも減らない料理の皿をレイヴンのほうに差し出す。それに曖昧に微笑みかえし、のろのろと手をつける。
今更、何を伝えればいいのか。
アレクセイの濁った瞳が、強い残像のようにずっと焼き付いて離れないのに。
パティと別れて、夜半過ぎ、レイヴンは街をふらふらと彷徨っていた。酒はそんなに飲んでいないはずなのに、足元が少しおぼつかない。
街の入り口に渡された大きな橋のたもとまで来る。昨日は雨だったせいか、水の流れが速い。ごうごうと音を立てる濁流が、欄干に押し寄せている。
深夜に歩き回ってはよく、この橋の上から水の流れを見ていた。この流れに飲み込まれたらどうなるのだろうと、想像することもあった。けれど、身を乗り出そうとしたことは一度もなかった。
――あの人に、終わらせてほしかった。
今のアレクセイは、かつての自分によく似ている。なぜまだ生きているのか、なぜ終わらせてくれないのか。その思いに苛まれ、他をすべて塗りつぶす勢いで望みは膨らみつづける。
かつての自分と違うのは、アレクセイが紛れもない大罪人だということだ。
多くの人間を犠牲にし、多くの悲しみを生んだ。そのことを正しく覚えているとしたら、今の状態は耐えられないほどの責め苦だ。だからこそ、アレクセイはレイヴンに請い続けたのだろう。
レイヴンはふらりと橋の欄干にもたれかかる。夜風で冷やされた石のつめたさが服越しに伝わる。ぼうっとそのまま体重を預けていると、橋の中央に、白い影が立っていることに気づく。
「な……デューク?」
目を凝らすと、白髪が風になびいて翻る。デュークはレイヴンの驚いた様子など意に解さぬように表情を変えない。
「世を儚んで、川に身でも投げるつもりか」
「……んなことしないって、今夜はこんなに寒いし」
なぜこんなところに、と問おうとしてやめた。この男にそんなことを聞くのは、いつだって無意味なのだろう。
「そうだ、お前さんに聞きたいことがあったんだった」
このまま黙っているとさっさと立ち去られそうだったので、次の言葉を繰り出す。
「なんで、アレクセイを助けた?」
デュークは闇の中で、わずかに眉をひそめる。
「助けたのはクロームだ。私はかの者を運んだにすぎない」
「術が消えるまで放っておけばよかったのに、そうせずに、わざわざ帝都まで運んだ。お前さんらしからぬ行動だと思っただけだ」
レイヴンは話しながら、なぜこんなことを聞こうと思ったのか、よく分からなくなっていた。ただ、デュークはアレクセイの生存を以前から知っていたのだ。クロームを除けば、誰よりも早く。
「……私の答えによって、お前は何を得る? 私がかの者を打ち捨てておけば、今のような惨状にならずに済んだと、そう言いたいのか」
「惨状って、いや、何よ」
デュークは重い息を吐き出す。彼にしては、程度の大きい感情表現だ。
「かの者が、再び世界の災厄の引き金となるやもしれん」
「災厄、って……どういう」
「人々によれば、かの者に再び野望を遂げんとする言動が見られるという。あれほどの損傷を負ったのだ、多少認識が混濁している面もあろうが、危険な兆候は確実に見られるといっていいだろう」
レイヴンは困惑する。最後に見たアレクセイの様子から、いくらか状況は変化しているらしい。
「野望って、記憶がちょっとごっちゃになってるだけでしょ? あの人はもう今更何かできるような状態じゃない。そんな、災厄の引き金なんて」
「先日、側仕えの者が危うく害されかけたとも聞いた」
背筋に戦慄が走る。そこまでの事態になっているとは思わなかった。ダングレストにいる間、そうした知らせは一切なかった。いったいアレクセイに何があったというのか。
「あの人は……まだ意識が混乱して……精神が」
「このままではいずれ混沌がもたらされるだろう。かの者を万一自由にでもさせれば、変化を遂げた世界の理をねじ曲げることもあるやもしれん」
デュークは未来の危険性を繰り返すばかりだ。聞いているとだんだん動揺が苛立ちに置き換わり、ふつふつと腹の底が熱くなっていく。
「何? お前さんは、アレクセイをどうしたいの? このままさっさと処刑されてほしいの?」
「人間たちの判断に介入することはない。今しばらくは静観していよう。だが、私は今も昔も、この世界を守りたいだけだ」
そう言って、デュークはいずこかへと去っていく。影の去っていった方向を追うことはしなかった。ただその場で、レイヴンは立ち尽くしていた。
アレクセイが、再び世界を脅かす存在となる。果たしてそんなことがあり得るものか。
レイヴンが少し帝都を離れている間に、あまりにも多くのことが起こりすぎている。濁った暗闇に沈んでいた瞳が、今は野望の炎を宿しているというのか。
――まさか、あの人は。
一つの可能性に思い当たる。その気付きが、じわじわと確からしさをもって思考の隅々に浸みる。
レイヴンが望みを聞き届けないというのなら、彼は次の手段を考えるのではないか。自らの生を再び終わらせるために、もっとも現実的な手段のことを。
アレクセイは、自ら死罪の裁きを受けようとしているのではないか。
レイヴンは橋のたもとに崩れ落ちる。だらりと首を傾けると、曇った夜空が頭上を覆っている。
彼がもう一度今の世界を目にするまで、できることをしようと思っていた。けれど、アレクセイが今の世界を歩く未来は果たしてあるのだろうか。このまま城から出されないままに、再び命を終える可能性のほうが高い。正式な裁きが下されても、デュークから聞いた現在の状態で、死罪を免れることはあるのだろうか。ヨーデルならあるいはと思うが、それを知ったアレクセイはいよいよ自ら命を絶とうとするかもしれない。
――できることなんて、何があるんだ?
終わりたがっている人間に生きろと言うことが、どれほど酷なことかレイヴンは知っている。それでも、言わねばならないときがあることも知っている。
けれど、言えなかった。あの瞳を前にして、どうか生きてほしいと伝えることなど、とてもできなかった。
――終わらせなきゃ、いけないのか。
いくつもの迷いが、決意になって絡まっていく。誰かに幕を引かれるくらいなら、と静かな衝動に駆り立てられる。
アレクセイの望みを叶えて、自分の手にその罪を引き受ける。自分にしかできない、自分に似合いの役だと思えた。
あのとき、叶えられなかった望みを、自分の手で叶える。
そうしてすべてを手放して、楽になりたかった。
夜が明けるとレイヴンは帝都行きの馬車に飛び乗った。誰にも言付けはしてこなかった。
シュヴァーンとして呼び戻されたときの旅路を思い出す。仮面を付け替えるまでの、緩やかな猶予を馬車の振動とともに過ごしていた。
今の自分はレイヴンでもシュヴァーンでもないのだろう。アレクセイのそばにいた、ただの罪深き人間の一人だ。
いくつかの夜を越え、帝都に着いたのは夜更けだった。そのまままっすぐ城へ向かう。人気の少ない城の闇に紛れて、あの塔を目指した。
塔の監視を眠らせ、中へと入る。自由に出入りできる身分だというのに、そうしてしまったのは思考が〝任務〟のときと同じになっているからなのか。
隠された区画に入り、一番奥を目指して歩く。何度も訪れたこの長い廊下も、こんな風に歩くのは今夜が最後なのだろうか。
ノックはせずに、部屋に入る。変わらず白い部屋は、壁の燭台のみに照らされて薄暗い。
部屋には、誰もいなかった。
「アレクセイ……!?」
まさか、一歩遅かったのか。しばらく離れていたが、レイヴンが最後に見たときと部屋の様子はほぼ変わりないように見える。寝台に近づき、シーツに触れる。まだ温かい。先ほどまでアレクセイはここにいた。
脱走。その文字が脳裏に浮かび、レイヴンは部屋を出る。廊下に出たところで、違和感をおぼえた。どこかから、物音が聞こえた気がした。わずかな人の気配も感じる。
レイヴンは耳をすませて気配を辿る。壁伝いに一歩ずつ進むと、少しずつ気配は近くなる。ほんのかすかな人の声が耳に届く。
壁に触れると、そこだけ質感が違うように思えた。その壁を丹念に調べると、床との境目のごく近くに小さな突起のようなものがあった。それを押し込むと、壁は扉のようにゆっくりと奥に向かって開く。
「なんだ、この空間……」
扉の向こうにはさらに暗い廊下が伸びていたが、その先に薄明かりが漏れているのが分かった。レイヴンはその光に向かって進む。辿り着いた、わずかに開いた扉の向こうに、明かりの元はあるらしい。ゆっくりと、扉を押し開ける。
中は小さな書庫のようだった。本だけでなく、用途の分からない器具なども納められている。
その部屋の奥に、アレクセイが立っていた。
「……お前か」
アレクセイはレイヴンを見て、そう呟く。どこか安堵したような響きにも聞こえた。部屋にはほかに誰もいない。アレクセイひとりが片手に杖を持ち、ただそこに立ったままでいる。部屋に来る人間を待ち構えていたかのように。
「歩けるように……なったんですか……」
「つい先日からな、これがなくてはまともに体を支えることもできないが」
そう言って杖を見やる。アレクセイと、久方ぶりにまともな会話を交わしていることに、レイヴンの頭は困惑する。
「なんですか、ここ……なんで、こんな時間にこんなとこにいるんですか」
恐々と問いかけるも、アレクセイは答えない。その表情は落ち着いたもので、最後に見た虚ろさの影は見られない。ただ、薄暗い部屋のなかでしっかりとその姿を目に入れていないと、ふとした瞬間に影に溶けてしまいそうに思えた。
「お前こそ、なぜここにいる。しばらく離れるのではなかったのか」
レイヴンはやはりと確信する。この人は、すべてを正しく認識している。レイヴンのことも、今の状況のことも。
言いたいことが山のようにあった。実質、アレクセイが謀反を起こして以来の会話といってもよかった。それならば、伝えなければならないことが数えきれないほどあるはずなのに、レイヴンの喉は詰まり、何も音を紡ぎ出してはくれない。
「そうか」
アレクセイは一人、得心したとでもいうように息をつく。
「私を、殺しにきたのか」
レイヴンの体がこわばる。当然のように見通された。殺しに、そのために来た。すべてを終わらせようと思って来た。
なのに、なぜそんな目を向けるのか。
アレクセイはゆっくりと歩を進め、レイヴンの脇を通り過ぎようとする。
「私の望みを叶えるのは、今少し待ってくれ」
そして、振り返って手を伸ばし、レイヴンの背後から何かを取り上げる。小さな模型のように見えた。
「約束があるのだ」
何かを堪えるような眼差しで、アレクセイはレイヴンを見つめた。