毎月20日はレイリタの日(2022)

20歳差の20cm差という「20」に縁のある二人のまとめです。
2022年はたくさんSSを書きました。

1月 2月 3月 4月 5月 6月
7月 8月 9月 10月 11月 12月



2022-12-20
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1月

『ブランケット』


 たとえばリタの場合、寒さから身を守るものはたいていの場合本たちの外套になっている。せっかく買った毛足の長い上等のブランケットも、彼女の部屋の奥で身を寄せ合う本の山を覆っている。
 もったいないと何度か言ってみたことはあったが、あんたと違って寒さには強いから、とすげなく返された。とはいえ、夜はいつもそれなりに冷えるものだ。今日もそうっとリタの部屋の扉を開ける。机に突っ伏して眠る背に静かに近づく。
「仮眠じゃきかなそうなら、あとで運ぶかあ」
 持ってきた猫柄のブランケットを肩からかけてやる。あどけない寝顔を少しのぞいて、ふっと頬が緩んだ。




2月

『スイーツ』


 昔から、甘いものを食べるとよく頭が回る気がした。いつもより作業がはかどるような気がしていた。でもそれ以前に、ひとつ食べるとまたひとつ手が伸びるような不思議な力があった。
 仮眠のときに見る夢みたいな不確かさの向こうで、もうビスケットはおしまいよ、と誰かが言う。
「え、あれそんなに気に入っちゃったの?」
 レイヴンは空っぽの袋をたたみながら目を丸くする。
「材料切れたし買いにいかないとなあ」
「そんな今すぐにはいらないわよ」
 ここ数日、気がついたらレイヴンの作ったチョコビスケットばかり食べていた。休憩のおやつにと紙袋いっぱいにもらったのにあっという間になくなってしまった。
「でも、リタっちが食べたいときにいつでも食べれるようにしといたほうがいいかなって」
「また今度でいいわよ」
 レイヴンはリタのために甘い菓子をよく作ってくれるが、自分は食べない。食事もどちらかというと甘みの控えめな味付けを好む。以前はなんとも思わなかったが、最近は作ってくれたものをリタばかり食べているのがもどかしく思えるときがある。自然と手が伸びるあの不思議な力が、レイヴンには作用しないのだ。
「あんたにはないの、気がついたら食べたくなるものって」
 レイヴンはうーん、とちっとも悩んでいなさそうな顔で首を傾げた。
「食べ物じゃないけど、やっぱ酒?」
「……聞くんじゃなかった」
「えー、リタっちにスイーツ、おっさんに酒、はおんなじ意味でしょ」
「どういう意味よそれ」
「あると喜ぶ、的な?」
「バカっぽい……あ、部屋の瓶は回収しといたわよ」
 そんな! と慌てふためくレイヴンの手から紙袋を取る。開くと底に細かい粉が残っていて、ふわりと甘い匂いがする。
――もうしばらくは、おあずけよ。
 心の中でそっと呟いた。




3月

『花』


 テーブルの上に並べたいくつかの球根を見て、リタはこともなげに言った。
「全部植えたらいいじゃない」
「いや、誰が世話するのよ」
「あたしとあんたに決まってるでしょ」
 レイヴンは思わず頭を掻く。依頼でもらってしまったが、二人とも花の世話など慣れていないし、誰かに譲ろうと思っていたのだ。
「道具ならそのへんにいくらでも売ってるし」
「えっと……リタっち、花育てたことある?」
「ないけど」
 きっぱりと、何の問題があるのかというような顔で言われた。
「うん……そうね、おっさんも自分でやったことはほとんどないかな」
 ふうん、とリタは球根を手に取って興味深そうに眺めはじめる。研究対象をみつけたときのように。
「フリージア、ネリネ、グラジオラス」
「へ?」
「名前、合ってる?」
「いや、もらったとき聞かなかったから知らんけどさ……なんで分かるの」
「なんで聞いてこないのよ、単に本で見た覚えがあっただけ」
 言われて思い出す。エアルと生態系は深い関係にある。植物に関するリタの知識はレイヴンよりいくらか多いだろう。しかしリタの目に宿っているものはただの知的好奇心とは少し違うように思えた。もっと単純で混じりけのない色をしている。
(ただやってみたい……ってことか)
 不思議な気持ちになる。こんな風に研究以外のことでリタがそわつくのは珍しいことのような気がした。
「リタっち……わかってる? 魔導器とは違って、毎日お水とかあげないといけないのよ? 研究に没頭して忘れてた、とかやってたらすぐに枯れちゃうって」
 なぜかつい、捨て猫を拾ってきた子に言うような口ぶりになってしまった。
「何言ってんのよ、昔家に置いてた子だって毎日磨いてたわよ」
「へ? 全部?」
「そうよ、声をかけて手入れして正常かどうか確かめるのよ」
 忘れていた。彼女は生活のあらゆることを疎かにしがちだが、心を傾けたものに対しては人一倍熱心なのだ。
「それに、その子とおなじことでしょ」
 リタがぴっと指を伸ばす。視線を落として、レイヴンは笑う。
「おっさん、花とおんなじ?」
「生物って意味では同じなんじゃない」
 リタの手のひらが球根を包む。生きものを扱うやさしい手つきで。それは幾度も近くで見慣れたものだった。
(ああ、俺が怖かっただけか)
 足踏みする癖のせいで、無理だと思い込んでいた。何をおそれていたのか、もう分からなくなった。リタとならできないはずがないのに。
「んじゃ、やってみますか、せっかくもらったんだし」
「何から揃えたらいいの? 鉢と、土と用具と……」
「肥料とかも? うーんあとは……いや、店で聞いたほうが確実かもね」
 さっそく出かける準備をはじめるリタはどこか落ち着かない。ただ花を育てようというだけなのに、何かとても楽しいことが始まるような気がしてしまう。
 レイヴンはテーブルに置かれた球根のざらついた表面に触れてみる。二人で時間をかけて慈しめばこの小さな命がやがて美しい花々にかわる。それは確かにとても心おどる未来だと思えた。




4月

『休日』


 リタには休日というものは基本的にない。やるべきことはいつだって山積みだし、研究テーマは待ってくれない。
 それでも、休むことの重要性は昔より理解したつもりだ。だから今日はほどほどにゆっくりと過ごすつもりだった、のだが。
(ちっとも起きない……)
 ソファで寝こけている男――レイヴンの顔をのぞきこむ。検診のための約束の日を三日も過ぎていきなりやってくるなり、しばらく寝てないからちょっと寝かせて、とだけ言って倒れ込んでしまった。約束の日が守られないのはいつものことだが、こんな風に疲れきった様子を見るのはめずらしい。しばらく寝てないとはどういうことなのか、問いただすひまもなかった。
 レイヴンは静かな寝息をたてて眠っている。その顔はすこしあどけなくも見える。おっさんなのに、と思いながら、服越しの胸元をみつめる。いくらなんでも眠っているあいだに診るようなことはできないが、なんとなくゆらりと手をかざしてみた。もちろん何も起こらない。祈るだけでは、なにもできない。
 リタは手元の本を開き、レイヴンの寝顔が見えるところに座り込む。いつものように部屋はしずかで、けれどそこに自分とはちがう存在がいる。落ち着くようで落ち着かない。でも、悪い気分ではない。このあとの質問事項に考えをめぐらせながら、リタは本のページをめくった。つい、あくびがひとつ漏れた。




5月

『みどり』


「レイヴン殿、ありがとうございました!」
 訓練指導を無事に終え、騎士団員たちがめいめいに散っていったのを確かめてからうーんと伸びをする。身体を動かしたあとの程よい疲れは嫌いではない。しかし年のせいか、このところ節々が痛むような気もする。
「ここんとこ鈍ってるだけかも、うん」
 年のせいにしてしまいたい気持ちと、それを認めたくない気持ちがせめぎあう。複雑な心境を抱えながら、昼時の城の廊下を歩く。行き過ぎる窓に、翠の装束を着た男が映る。若葉にも似た色合いをまとっているのは枯れかけの中年、などと考え出すと悲哀がつのる。
 ため息をつきながら角を曲がると、向こうに見知った姿を見つけた。すたすたと足早に歩いていく背に大股で近づき、声をかける。
「わっ」
「んにゃあっ……!? って、おっさん!?」
「ハァイ、調べ物にでも来たの?」
「ハァイじゃないわよ、今日は会議よ」
 腕をぐりぐりつねられる。橙色の正装に身を包んだリタは、どうやら城の有識者会議に出席していたようだ。
「あんたこそ、なんでそんなカッコでうろついてんのよ」
「そんなって、これ一応帝国から贈られたもんなのよ? いちいち鎧着るのもねーってときに使わせてもらってんの」
 ふうん、とどうでもよさそうな返事をしながらも、リタはじいっとこちらを見つめてくる。何が気になるのやら、思わず後ずさりしそうになる。
「あれね、過去の功績を称えて……とか言われてたやつね」
「あちゃ、それ覚えてたの」
「たまたま思い出しただけよ」
 リタはくるりと背を向けて、また歩いていこうとする。そのあとをついていこうとして、ふと光景がよみがえる。この装束を受け取ったときのこと。シュヴァーン隊の前で装束姿を披露することになり、口々に仲間たちが感想を言い合っていた。てっきりリタにも似合わないとかなんとか言われるかと思っていたのに、彼女はあのとき、ずっと会話に加わらずに背を向けていた。
「過去の功績……なんてさ、誰の話してんだかって感じよね、受け取っといてなんだけど」
 かたくなに拒むほうが面倒なことになると思ったから受け取った。同じ理由で、今も指導役という分不相応な立場を受けいれている。ずっとそんなことばかりだ。
「……あんた、まだそんな風に話すのね」
 リタは前を向いたままぽつりと言う。
「そんな風って」
「いい加減、別人みたいに言うのやめたら?」
 思わず言葉を失う。胸から喉に小骨が刺さったような痛みが走る。リタははっと顔をあげ、言うんじゃなかったとでもいうように首を振った。
「ごめん、なんでもない、今の忘れて」
 そうして早足で歩いていってしまう。ほとんど走っているような速さで。廊下の奥に背中が遠ざかっていく。
(あんな顔、することないのに)
 リタにとっては“シュヴァーン”の存在そのものが苦い記憶なのだろうと思っていた。それはまだ確実に彼女の中に残っている。だからこそ、ずっと考えていたのだろう。あの日神殿の奥で裏切りの傷を与えた男が、生き埋めになることなくまだここにいるということを。
 ぐっと手足に力をこめる。まだじゅうぶんに動ける。節々の痛みなんてどうということはない。まだ枯れかけなんて言われるには早すぎる。自分で思っただけだけれど。
「リタっち!」
 もう遠く見えないほどの背を全力で追いかける。城の廊下を脇目もふらず疾走するなんてあとで誰かにお叱りを受けるのは確実だ。けれど何かと怒られたり当たられたりするのなんてもうとっくに慣れている。
 階段を駆け下りた踊り場のところでようやくリタに追いつき、その正面にまわる。彼女はわずかに肩で息をしながら、おどろいたように目を見開いた。
「ちょ、ちょっと、あんた……」
「ふー……あのさ、率直に言ってほしいんだけど」
「な、なに」
「これ、似合ってる?」
 装束の裾をぴっと引っ張って問いかけると、リタは怪訝そうに顔をしかめる。どたどたと追いかけられて、なんでそんなことを聞かれないといけないのかとでも言いたげだ。彼女の心中をいろいろと予想しながら、答えを待った。しばらくの間があいて、ようやくリタの口から出た答えは意外なものだった。
「いいんじゃない、おっさんらしくないけど、おっさんっぽいって感じで」
 リタはこれでいい? みたいに息をつき、でも、呆れたように少し口元をゆるめた。その表情が、どうしようもなく嬉しかった。
「んじゃさ……おっさんっぽい服ってどんな感じ? いつもよく着てる羽織とか?」
「知るか!」
 すげなく答えるリタのあとをついて、階段を下りていく。膝がほんの少し笑っていて、やっぱり鈍ってるなと反省するのだった。




6月

『夕立』


 予測を立てるのは慣れていても、天候だけはどうにもならない。少し先のことなら、エアルの流れを読み取れば案外簡単にできるのかもしれない、と庇の下で考える。
 空が水流を振り落としているような雨だ。帝都で降られるのはあまりないことだ。一歩踏み出せば呑まれてしまいそうだと思ってしまう。実際そんなことはないだろうが、足はためらって動かない。もう少し早く動いていれば足止めをくらうことなく今頃は市民街の宿に帰れていたかもしれないのに。
(そんなことばっかり)
 リタは一人の男の顔を思い浮かべる。何度も会う約束をすっぽかして、とっ捕まえようと思ってもいつも一瞬前にいなくなっている腹立たしいその姿を。
 あと少し早く走って来ていれば。
 あと少し早く気づいていれば。
 リタは時々恐れることがある。それを繰り返して、どんどん取り返しのつかない場所まで行ってしまったら?
――あと少し早く手を尽くしていたら。

 首を振って、嫌な想像を振り払う。考えるだけ無駄なのだ。自分の中で起こることは所詮ずっとここに留まるばかりで、何にもならない。
 リタは意を決して雨の中に駆け出した。空と地面が躍ってうねって体を呑み込もうとする。本当に呑み込まれるわけはない。これがただの雨だと知っている。いつか止むと知っている。だから平気だ。走れる。
「リタっち、ずぶ濡れじゃない」
 噴水広場のベンチにぼうっと座っている男が、こちらに駆け寄ってくる。一瞬目を疑う。煙った景色に見慣れた影のかたちが浮かぶ。なんでそんなとこにいるのよ、あんたも頭からずぶ濡れよ、いままでどこにいたの、そんな言葉がぜんぶ雨に打たれて流されて、わからなくなった。
「……おっさんの、ばか」
 その胸にぶつかって、しがみついて、顔を寄せた。今でよかった。頬に感じる熱に、リタは心からそう思った。




7月

『願いごと』


 いつものように家に帰ってくると、リタがソファで本を広げて唸っていた。レイヴンに気がつくとおかえり、とは言ってくれたものの、本の山の検分に夢中なようだ。
「どったの、それ、城から借りてきた本?」
「そう、有用なものをまとめて借りてきたんだけど」
 リタのそばには大量の本が積み上がっている。リタの雑然とした自室ではとても整理しきれない冊数だ。レイヴンは一人で納得した。
「なんか不備でもあった?」
「そうじゃないんだけど、借りた覚えのない本が紛れてたのよね、本の間に挟んじゃって気づかなかったのかも」
「ありゃ、次行ったとき一緒に返せばいいんじゃない? なんならおっさんが届けたげよっか?」
 リタはそうなんだけど、と言いながら、手にしたその一冊に目を落とした。題は『星座を紐解くために』と記されていた。どうやら星について解説した本のようだ。表紙の鮮やかな星空の絵画を、リタはただじっと見つめている。
「俺、読んでいい?」
 レイヴンが聞くと、リタは顔を上げて目を丸くした。好きにしたら、と渡されて、そのまま立ちあがろうとするので慌てて引きとめた。
「ちょい待って、おっさんこういう専門書慣れてないからさ、解説してよ」
「あたし……星のことなんてろくに知らないわよ」
「それでもたぶん俺よりは詳しいでしょ」
 リタは渋々といった様子で隣に座る。レイヴンは本を膝の上に乗せて、ぱらりとページをめくる。少し古いようだが、中身はやや色あせているくらいで綺麗なものだった。
「“星座は、古代の人々が星の並びの配置から連想した、さまざまな事物の名前で、星々を呼んだことから始まり──”……なるほど、うっすら知っちゃいたけど改めて知るとロマンじゃないの」
「そう? あたしは、こんなの考えた奴はよっぽど暇だったんじゃないかって思うけど」
「リタっちに比べたらみんなヒマに見えるでしょーよ」
「なによ、あたしがすごいせっかちみたいじゃない」
 腕を揺さぶってくるリタをなだめながら、少しずつ読み進めていく。そうしてさまざまな星座についての解説が載った章まで来た。それぞれ小さな絵がついている。
「こんないっぱいあんのねえ」
 感心しながら読むレイヴンの隣で、リタはじっとページに目を落としている。けっして興味がないわけではないのだろう。むしろ、逆──そう思っていると、ぽつりと口を開く。
「この、親まもの座ってやつ」
 リタがある星座の解説にぴっと指をさす。
「暇なのはわかるけど、わざわざ魔物の名前つけるのってどうなの」
「そりゃ、つけた奴が魔物のこと考えてたんじゃない」
「当たり前でしょ、そういうことじゃないのよ」
 リタは納得がいかなそうな表情でうつむく。今日の彼女の物言いはずっと歯切れが悪い。本当に言いたいことが分からなくて、でも遠回りをし続けているように見える。
「昔は……魔物ってやつが俺らの時代とは違う捉え方をされてたのかもだし、リタっちも昔と今じゃちょっと考え変わったんじゃないの?」
「まあ……そうかもしれないけど」
「何考えてたかなんてわかんないけどさ、そういう当時の思いとか願いとか諸々が込められてると思うと、おっさんでもいろいろ想像したくなっちゃうねえ」
「込められ、てる」
 レイヴンの言葉をくり返して、視線を宙にさまよわせる。何かを探すように。願いを唱えるように。
「……おなじ」
 リタは小さな声で、しかしはっきりと言った。レイヴンの首もとより少し下のほうを見つめて、あらゆる真実を噛みしめるように、唇を震わせた。
「……そんな、暇な奴が名前つけただけのものじゃないのよ、星座って」
「うん」
「空の地図を作るために、天上の住所を示したものなんだから」
「うん」
「だから……すごい発明なんだから」
 ふるえる手に手を重ねると、ややあって握りかえされた。その手のあたたかさに、心が満ちる思いがした。
「リタっちは物知りねえ」
「べつに、これくらい一般常識の範囲でしょ」
「じゃあさ、リタっちの星座作ってよ」
「……はあ?」
 とたんに怪訝そうな顔をされる。
「リタっちは絶対歴史に名を残す偉大な人物になるでしょ? んで、そんなリタっちが考えた星座が後世までずーっと残るのよ、
いいじゃない?」
「どっから突っ込んでいいのかわかんないんだけど」
「おっさんもさ、いろんな奴らに、あれリタっちっていうすんごい天才少女が考えたやつでさーって宣伝しとくからさ、それで星座見てリタっちのこと思い出しながら一攫千金! とかお願いするからさ」
「あんた、何年生きるつもりなの?」
「最初の突っ込みがそれかあ……」
 レイヴンががっくりとうなだれてみせると、リタの頭が近く寄せられる。わずかな重みが肩にかかる。
「そうね……ばかみたいだけど、いちおう、考えとくわ」
 おだやかな声で言って、リタは手を伸ばす。続きをめくらないままでいた本のページへと。レイヴンも同じように触れようとした。そっと破らないように、でも続きが気になって仕方がないとでもいうように、期待と願いをこめて、ふたつの指をかけた。




8月

『うみ』


 ため息が漏れる。息を吐いたぶん、むだに体温が上がって余計に暑くなった。パラソルの向こうでは目をそむけたくなるくらいの陽光がじりじりと砂浜を照りつけている。
「リタっちったら、こーんな青空の下しょぼくれた顔しちゃって」
「べつにしょぼくれてなんかないわよ」
 シートの上から動かないリタの横で、同じようにレイヴンは座り込んだままだ。向こうにはきらめく波しぶきと水平線と、海水浴を楽しむ人々が見える。帝都からほど近いこの海岸は、今の季節けっこうな賑わいを見せる。
「あんたが何か特殊な仕事だって言うから、どうしてもあたしの協力が必要だっていうから来たのに」
「それにはふかーい事情があってねえ」
「仕事なんてないってどういうことよ」
 レイヴンが「どーおしてもお願い!」なんてめずらしく必死に真剣に頼み込んでくるものだから、わざわざこんな騒がしい場所にまで来たのだ。言う通り水着にも着替えてしまった。途中でなにかおかしいと気づくべきだった。
「あたしは帰るから、あんたはそのへんの奴にでも声かけてきたら」
「いやいやいや、そういうわけにはいかないのよね」
 立ち上がったリタの腕をつかんで引き留めてくる。
「このへんはちょっとリタっちのお気に召さないみたいだから」
「なんなのよ、もう」
「あっちいこ、あっち」
 レイヴンに手を引かれて、パラソルの外に連れ出される。無理やり振りほどくわけにもいかず、そのままあとをついていくはめになる。
 歩いているうちに人影はだんだんまばらになっていき、楽しげな声が波の音の向こうに遠ざかっていった。レイヴンは岩場の陰に腰を下ろし、ちょいちょいと手まねきをしてみせた。
「ちょっと殺風景かもだけど、落ち着くっしょ」
 レイヴンの言う通り、そんなに歩いていないはずなのに、ここはさっきまでいた場所よりずいぶん静かだ。座りなさいな、とそばのつるりとした岩を示されるので、しぶしぶ腰をおろす。
「それで、いったい何を企んでるわけ」
「企みなんてめっそうもない、おっさんがリタっちと遊びたかっただけよ」
「そんなわけないでしょ! つくならもっとマシな嘘にしなさいよ」
「ほんとよ、リタっちと一緒に海、行きたかっただけ」
 やわく微笑みかけられて、リタは目を伏せる。めったに見せないような表情になぜか胸の奥が、顔の表面までほんのり熱くなる。さっきまで海辺にいた人間たちの騒ぐ声みたいな音が、内側でざわざわ、わあわあと鳴る。
(うそつき)
 ひとを騙すのが得意なこの男は、リタがどれだけ疑ってみせても、ふいに隙間に入り込むように信じさせようとする。ほんとうかもしれない、そんな風に根拠もなく思い込んでしまいたくなる。
 少しちがう、と思い直した。根拠はある。不確かだけれど、本当はそこにちゃんとある。
「……おおかた、エステルとかジュディスとかの差し金でしょ、あたしを休ませるために連れ出そうとかってとこじゃないの」
「おわ、リタっちするどいねえ、そこまで気づくとは」
「なんでそれがわざわざ海で、あんたと一緒なのかはさっぱりだけど」
 岩の表面を指でなぞるリタを見やりながら、レイヴンは岩陰から浜辺のほうへ歩いていく。まぶしく高い陽が長い影をすうっと伸ばしていく。
「せっかく来たんだし、ちょっとは泳いでかないとね」
「人の話聞いてるわけ」
「あれ、リタっち、もしかして泳げなかったっけ」
「泳げるわよ! そういうことじゃなくて」
 言葉の途中ですっと手を差し出される。じゃ、行こ、と言わんばかりに。リタはしばらくしかめ面のまま突っ立ったあと、やけになってレイヴンの手をぎゅうと掴んだ。
「ばか」
 さんさんと陽が照る海岸はいやになるほど暑くて、ほんとうにすべてがばからしくなる。もう問いただす気力もない。だから、今は仕方ない。これでいい、それでもいいということにしておく。
「うわ、つめたっ、リタっち、おっさんが漏電しておぼれたら助けてね」
「そのまま沈んでなさいよ」
 えぇ、と言いながらなぜか楽しげに笑うレイヴンを横目に、リタは足先を海にひたす。つめたくて、潮のにおいがして、なんとなく胸の奥がにぎやかなのは、確かにほんとうのことだった。




9月

『お月見』


「おっさん、ちょっとベランダに出なさい」
 レイヴンの前にいきなり立ちはだかったリタは、有無を言わせない勢いでそう言った。夕食を食べて、少しソファでぼうっとしていたのだが、何かやらかしてしまっただろうか。確か彼女は今日中にまとめたい結果があるから自室に引っ込んだはず、などと考えているあいだに、ぐいと腕を引っ張られる。
「ぼやぼやしてないで、早く」
 そうして階段のところまで連れて行かれる。わかったわかった、と大人しく後をついていくことにする。
「リタっち、おっさんなんかやっちゃった……?」
 ずんずんと廊下を進む背中におそるおそる聞くと、リタはわけがわからないというように顔をしかめた。
「なんかやったの?」
「いや、思い当たることは特に」
「じゃあいいじゃない」
 よく分からない返答を残し、リタは突き当たりの扉を開けて夜のベランダへと出て行く。ベランダには小さな二脚の椅子と丸いテーブルが置いてある。テーブルの上には皿がひとつ乗っている。
「お団子……?」
「それより、上、上見なさいよ」
 リタに言われて顔を上げると、団子の何倍も大きい立派な丸い月が煌々とかがやいていた。夜空にぽっかりと空いた光の空間のように。
「おお、お月さん、今日はいちだんと綺麗ね」
「暦の計算で、今日が一番あかるく見える日って決まってるの」
 リタは得意げに鼻を鳴らす。これを見せたかったのか、と思わず口元がゆるむ。
「じゃあ、このお団子は?」
「なんか、エステルが『お月見のときはお団子を食べるのが古くからの習わしなんです』とか言ってたから、用意してみたのよ、なんとなくね」
 そんな習わしなんてどうでもいいと興味を持たなそうな彼女が、親友の話を受けてわざわざ用意した光景を思い浮かべると、心が少しあたたまる。
「いいねえ、こういうの、風流っていうんだっけ」
「知らないけど、なんとなくよ、なんとなく」
 照れ隠しなのか、同じ言葉を繰り返すリタを見やりながら椅子に腰かける。団子をぱくりと口にすると、塩辛いタレが柔らかい生地の中に詰め込んでありなかなか美味しい。
「うーん、酒のつまみになりそう」
「さっきもうけっこう飲んだでしょ、今日はだめ」
「えーん、リタっちきびしい」
 泣く振りをしながら次の団子を口に運んでいると、隣のリタがぽつりと口を開く。
「……あんた、覚えてる? 満月の日に来るって約束したのに、ぜんぜん来なかったこと」
 少しさみしげな声色をしていた。定期的に心臓を診せる約束をしたのに、覚悟ができずにいっこうにリタの元へ行かなかったこと。
「うん……あんときは、ほんと、悪いことしたよね」
「ほんとよ」
 リタは足をぷらぷらと揺らしながら、月光を浴びるように上を向く。
「だから、丸い月がしばらく嫌いだった。来るのか来ないのか、見るたびやきもきするのが嫌だったから」
 夜のなかに、リタの横顔が白く照らされていた。今はその輪郭がすぐ手の届くところにある。ここに来るまでに、ずいぶん長い遠回りをした。月がのぼって沈んで、満ちて欠けるのを幾度も繰り返した。
「でも、最近あらためて見るとね、夜でもこんなに明るいなんて、画期的よねって思ったの。灯の少なくなった世界から見ると特に」
「そうね、昔よりずいぶん明るく見える気がするわ」
 この地上からどれくらい遠いのかわからないが、それでも遥か遠くからここまで光を届けている。近づけなくても、迷っていても、いつかその場所へたどり着けたらと願っていた自分のことを思い出した。
「リタっちがもうお月さん見るたび嫌になんなくていいように、目と心に焼き付けてよーく反省するわ」
「もう昔の話よ、まあ、反省してもらうに越したことはないけど」
「んじゃ、満月の日はこうしてお月見するっていうのはどう? 次からはおっさんもなんかやるし」
「毎月わざわざこんなことするの?」
「今日はリタっちがやってくれたじゃない、俺がお月さんの名誉挽回してくから」
「名誉が失墜したのはあんただけだけど」
 リタはふっと目を細めて、月に向かってまぶたを閉じる。光を受け止めるように。レイヴンも、この光を浴びているといろいろなものが流されて心の奥が澄んでいくような心地がした。
(覚悟、決めていけるかな)
 これから月を見るたび、何度も誓い直すのかもしれない。そうしたいと思った。リタの隣にいられる自分であるように、月がのぼるたび、ほんの少しずつでも強くなれるようにと。




10月

『コワイもの』


 ダングレストの路地は入り組んでいる。細いうえに見通しが悪く、曲がりくねっているところもあるので迷いやすい。
(大丈夫、こっちから来たから……)
 リタはおそるおそる歩を進める。ぽつぽつと並ぶ街灯を頼りに道を行く。方向感覚を見失うようなことはない。ただ、陽の沈みかけた路地は少し気味が悪い空気が漂っている。物陰から今にも何か得体の知れないものが現れそうな――。
「お嬢さん、こんなところに一人でいちゃアブナイよ……」
 そう、例えばこんな風におそろしく怪しい声が聞こえてくるとか。
「きゃあああああ!?」
 リタは飛び退いてとっさに戦闘の構えを取る。腰に装着したままの精霊術装置に手をかける。
「ちょ、ちょっと待ってって!」
 よく見ると、目の前にいたのは非科学的な存在ではなくただの怪しい男だった。黒いマントを羽織り変な飾りを背につけている。
「唸れ炎よ……」
「いやいや! そこは『なんだ、おっさんじゃない』って気がつくとこでしょ!? そのまま詠唱続けないで!?」
「誰よあんた、こんなわけわかんないカッコした奴知らないわ」
「いやあこれはねえ実は」
「もしおっさんだったとしたらムダに脅かされた怒りが5倍増しだから5倍の出力でぶっ飛ばす」
「ごめんなさいごめんなさいリタっち謝るからちょっと待ってぇー!!!!」


「仮装大会?」
「そうそう、なんか依頼の成り行きで手伝わされちゃってさあ。ガラじゃないって断ろうとしたんだけど、逃げそこねちまった」
 レイヴンは説明しながら、マントをわざとはためかせるようにパタパタと揺らす。
「んで終わったらサクッと着替えて帰ろうと思ったのに、会場のスペースの都合で着替えユニオン本部まで運んじまったって言うからさ、人通りのないとこから目立たないように行こうかと」
「その変な服、なんなの?」
「コウモリ男? だってさ、ちょっと怪しげな雰囲気で美女の視線もいただけちゃうかもと思ったけど……ハア」
「怪しすぎて、どこからどう見ても不審者よ」
「リタっちにもめちゃくちゃ怖がられちゃったもんねえ」
「あ、あたしは怖がってなんかないから」
 ぶんぶんと首を振って歩き出そうとする。と、マントがひらりと行く手を遮った。腕を掴まれる。
「なんでこんなとこ一人で歩いてんの」
 じっと顔をのぞき込まれる。よく見るとレイヴンの顔はいつもよりうっすらと白く、仮装のための化粧をしているのだと分かった。
「あんたと似たような理由よ、人に会わなくてすむし、家まで近道だから」
「人がいないってことは、危ない目にあっても誰も来てくれないってことよ」
「こんなとこで早々危ない目になんて遭わないわよ、それにあたしには精霊術もあるし」
 精霊術装置を見せようとしたリタの腕をレイヴンはすばやく取る。気がつけば塀に体を押さえつけられていた。痛くはないが、リタを見下ろすレイヴンの顔は少しだけいつもと違う。
「こんな風に襲われたら、どうすんの」
 低い声が間近で響く。リタの体がわずかに震えた。陰になったレイヴンの表情は見えにくく、暗闇が喋っているように思えた。
「こうやって押さえ込まれたら、術も唱えらんないでしょ」
 暗闇なんかじゃない。目を凝らす。惑わされてはいけない。リタの目の前にいるのはいったい誰なのか。
「ね、怖いでしょ、だから……」
「怖くなんかない」
 リタはレイヴンの目を暗闇の中から見つけ出そうと顔を近づけた。少し驚いたように丸くなったその形をとらえる。よく知っている鼻筋から唇の形もちゃんと見て取れる。その顔を確かめて、目を閉じる。
「あちっ……!」
 レイヴンは顎を押さえて後ずさる。ぱっと腕が解放された。
「ほんとなら髭ぜんぶ燃やしたかったけど、これくらいで勘弁してあげるわ」
「今の、どうやって」
「声に出して詠唱しなくても、このくらいの出力なら出せるのよ。科学の力をなめないでよね」
 はあ、と盛大にため息をつきレイヴンは肩を落とす。ついでにマントもばさりと垂れ下がる。
「脅かしたのは悪かったけどさ、でも本当に危ない奴がここに来てたらと思うと」
「それなら初手でぶっ飛ばせてたわ。あんただから油断してただけよ」
 そう言うとレイヴンは瞬きを繰り返したあと、戸惑ったような困ったような表情になる。
「ハア……リタっちってさ……」
「なによ」
「そういうとこが心配なのよ」
 どういう意味よ、と聞くと、うーとかあーとか唸りながら頭をばさばさと掻く。仮装で多少整えられていたらしい髪が乱れていくのを見ながら、リタは少し口元を緩める。
「もし、あんたみたいな危ない奴が街の中にうろうろしてたとして」
「ああ……うん、俺ね、危ない奴よね……」
「ギルドユニオン幹部としてはそんなの、放置しといていいわけ?」
「いやあ、よろしくないねえ」
「じゃあせいぜい頑張るのね」
 レイヴンは疲れたように笑いながらふうと長く息を吐く。へにゃりと細められた目のしわが、今はよく見える。
「リタっち、本部まで付き合ってくれたら何か買って帰ろ」
「ついでにユニオンに怪しい奴がいたって突き出せばいいのね」
「ごめん、ごめんってばあ」
 無駄に長いレイヴンの黒マントは、つかんでみると表面は案外さらりとしていた。歩きながら、布地をぎゅっと手のひらに握っておく。いつも着ている羽織とそんなに変わらない感触だと思いながら。




11月

『いいことさがし』


 リタっちってさ、おっさんのどこが好きなの――そんな滑稽な質問をしてみたらどうなるのか。考えてみるまでもない。眉をひそめて顔をしかめて、はあ? と一蹴されるのが目に浮かぶ。
 だからそんなばかげた問いは心の奥にしまっておくことにしていたのだが。
「ねえ、おっさんって、あたしのどこが好きなの?」
 ぶほぉっと飲んでいた珈琲で咽せそうになった。すこし震える手でカップを置く。休日、二人とも思い思いに過ごしていた昼下がりだった。自室にこもりがちな彼女がめずらしくソファで読書にふけっていると思ったら、突然そんな問いが飛んできた。
「え、急に、どしたの」
「なによその反応」
「いや、リタっちがそんなこと聞くなんて、なんか変なもんでも食べたかなと思って……」
「昼のスープに変なの入れたの?」
「覚えはないわね」
 わかりやすく眉をひそめられる。リタはレイヴンの困惑の反応にご不満なようだ。
「や、ね、リタっちがどうとかじゃなくてさ、もしおっさんが同じようなこと聞いたら、リタっち絶対『はあ? 何そのバカっぽい質問』とか言うだろうなーって思って」
「それあたしの真似?」
「似てなかった?」
「当たり前でしょ」
 これはいよいよ真剣に答えなければいけない流れだろうか、そう思って思考を巡らせていると、リタがふっと距離を詰めてくる。膝の上にあったはずの本はきちんと閉じられ、いったん脇に置かれている。
「あたしは答えられるわよ、あんたが言わないんだったら、あたしが言うから」
 まるで戦いを挑むような目で見つめられる。いったい突然何が始まっているのか。しかし急に詰められた距離に、胸の奥は勝手に騒ぎはじめている。変な汗まで出てきた。
「じゃあ、言うから」
 心臓のあたりがもどかしく震えてくる。このままここから転がるように逃げ出してしまいたくなる。耐えきれず胸に手をやり、はっと少し冷静になる。
(リタっちのことだから、まあ普通に考えたら……)
「これ」
「へ?」
 リタがいきなり指し示してきたのはローテーブルに置かれた皿だった。乾いた果物を混ぜ込んだクッキーが入っている。レイヴンが皿に盛って出したときからいつの間にか半分くらい減っている。
「何作ってもまあまあ美味しいとこ」
 まさかの食関係だった。
「い、いやーおっさんの腕なんて大したことないって、リタっちが食事とか料理に興味なさすぎるだけで」
「そういう、自分の力を正しく測らないとこはどうかと思うけど」
「ハ、ハイ……」
 ぴしゃりと告げられ、思わず身を縮めて姿勢を正してしまう。
「でも、あんたのおかげで食べ忘れるってことなくなったから、感謝してるのよ」
 かすかに表情を緩める。ほんのわずかに、柔らかく目元が綻ぶ。彼女がときどき見せる、穏やかな感情のあらわれだった。レイヴンは居たたまれなくなって、今度こそ本当に逃げ出したくなった。
「えーっと……クッキー、おかわりいる?」
「え、まだあるの?」
「いっぱい作ったからねえ、ちょっと待って」
 自然な流れでこの場を離れることに成功する。足早にキッチンへ向かい、ふうと深い息をついていると、いつの間にか横にリタが立っていた。
「おわっ」
「やっぱりクッキーはもういいわ、その代わり、はやく言いなさいよ」
「言うって」
「あたしが聞いたのに、なんであたしだけ答えることになってるのよ、おかしいでしょ」
 そんなことを言ったらもう始めから何もかもおかしい。謎の熱意を燃やすリタはレイヴンに詰め寄る勢いで近づいてくる。
「ちょ、ちょっと待って、なんでそんないきなり熱心に知りたがってるのか、教えてよ」
「あんたが答えるためにその理由が必要なの?」
「場合によっては……」
 動揺を抑えながら答える。いつの間にか壁際まで追い詰められている。何気なく過ごしていた昼下がりのはずが、一触即発の修羅場みたいになっている。
 リタは思案するような表情でしばしうつむく。さっきまでの強気がふいに息をひそめたように感じた。
「……単に、気になったから、理由」
 ぼそりとごく小さな声でつぶやく。
「あたしにはあんたと一緒にいる理由なんて山ほどあるけど、あんたはそういう、必然性みたいなのって、心臓のことくらいかもって」
 リタはゆらゆらと視線をさまよわせて、ふとレイヴンと目を合わせる。瞬きをくりかえす。自分の想いと相手の想いは違うかもしれない、そんな人と人のあいだにありふれたような悩みが、彼女の中にも湧き起こることがあるのだと、レイヴンは感慨をおぼえる。
「リタっち、急に、なんか……」
「……なによ」
「年頃の女の子みたい」
「はあ?」
 一転、怪訝そうな顔をされてちょっと安心する。しかし、これはなにかと逃げの手を打ち続けていた自分に原因があるだろう。一緒にいるとどこかで甘えてしまう。彼女は自分とは違ってささいなことになど揺らがないと思い込んでしまう。そんな日々のうちに漂う曖昧さを解き明かして定めるために、リタは理由を探求したのだ。
「おっさんにも、そりゃ当然いーっぱいあるよ、リタっちと一緒にいたい理由」
「それを教えなさいって、最初から言ってんのよ」
 彼女は問うことをあきらめない。自分の心が求めるものにかならず向かおうとする。そういうところが眩しくて苦しくて、見ていられなくて、嫌いで、好きになったのだ。
「うん、じゃあ……満を持して発表しちゃおっかな」
 なぜか一世一代の告白みたいな雰囲気になる。胸の奥はさっきからずっとくすぐったく、どたばたと騒がしい。とりあえず端から一つずつ外に出していかなければおさまらないかもしれない。どんなにみっともない理由か、いよいよ観念して見てもらうことにしよう。




12月

『記念日』


 グラスに入った深い紅色の液体は、いつもの部屋の灯りを映してきらめく。特別な輝きをたたえて揺らめく。
「かんぱーい」
 向かいで同じ色のグラスをかかげるレイヴンが、陽気な声をあげる。
「楽しそうね」
「そりゃリタっちの記念すべき日だもん、うーん美味い」
 レイヴンが用意してくれた酒を、リタも少し口にふくんでみる。ひろがる果実の風味のなかに、じわりとほのかな苦味を感じる。
「どう?」
「まあまあ、悪くないかもね」
 リタの言葉に、よかったわあ、と安心したように表情をくずす。
「リタっちも、大人になったよねえ」
「そんなしみじみーって言うのやめてくれない、昔はさんざんガキんちょガキんちょ言ってくれたくせに」
「いやー、だって感慨深くってさ、リタっちと出会ったころから考えると、あのときって……」
 しばらく思い出話を繰り広げる。レイヴンと出会ってからのさまざまな出来事、変化、互いに選んだことの話。あまりにも溢れすぎて簡単には言葉にできないけれど、ぽつぽつと話す。
「リタっちがこれからどんどん立派になってくの、見てたいなあ」
 はっはと笑いながら、なのに声の響きはなぜかさみしげに聞こえた。まるで、一億ガルドが空から降ってこないかなあ、なんて馬鹿げたことを言うときみたいに。
「……見ててよ、ちゃんと」
 リタが怒ったと思ったのか、レイヴンが慌てたように首を振る。
「あーいやいや……うん、リタっちがいいんならさ、喜んで見させてもらいますとも」
「その子といっしょにね」
「そうねえ、がんばって働いてもらわんとね」
「働かせすぎもダメよ。この子が気持ちよく適正に働けるように、あんたにはがんばってもらわなきゃ」
 レイヴンはぼんやりと宙を見上げる。どこかやわらかに微笑みながら。一億ガルドを探すように。
「うん、俺も……リタっちともっと美味い酒飲みたいもん」
「そんなたくさんは飲めないわよ」
「また良さそうなの探してくるからさ」
「ちょっとずつなら、べつに」
 そんな風に取り留めもない会話を交わしながら、リタは切ったチーズの欠片を口に放り込み、またほんのすこしだけグラスを傾ける。



 それからしばらくして。
「リタっちぃー……んー、リタっちってさあ……かわいいよねえ」
「うざい! 重い!」
 いつの間にかすっかり酔っ払ってしまったレイヴンは、ソファでリタのほうへもたれかかりながらひたすらうわごとを繰り返していた。
「ほっぺぷにぷにねえー、ちゅーしていい?」
「よくない!」
 だいたい、改めてその子をいたわるという話をさっきまでしていたのに、早々に酔っ払うなんてどういうことなのか。レイヴンをあしらいながら言ってみるもまったく通じている気配がない。
「うん、うん……リタっちぃ、すき~あいしてるぜぇ~」
「やっぱり聞いてないし」
 ため息をつきながら、にこにこと楽しそうに笑っていた顔を思い返す。今も同じような顔はしているが。どうしてそんな風に楽しくなれるのか。ぜんぜん理解はできないが、今日くらいは、という気持ちが芽生える。今日だけ。明日からはまた問答無用でベッドに叩き込むけれど。
「ねえ」
 へにゃへにゃと笑うレイヴンの鼻を人差し指でぐい、と押す。
「あたしのこと、好きなの?」
 レイヴンはすこしだけ目を丸くしていったん大人しくなる。こくこく、と頷く。
「この先もずっと、ずーっと一緒にいたいくらい?」
 そう言うと、泣きだしそうなこどものように目を細める。少し赤く潤んだ瞳はなんだかほんとうに涙をこぼしてしまいそうに見える。それでも、レイヴンはリタをじっとみつめて、はっきりと首を縦に振った。
「……うん」
 小さく、けれどたしかに口にした。リタは押さえていた鼻をつん、とつつくと、ぼんやりとしたままの顔にそっとほほえんでみせた。
「じゃあ、特別に、今日だけは……許してあげる」
 ほんのりと赤らんだ頬にふれて、漂う香りを吸い込む。これが大人のしるしなんて、笑ってしまうくらい不確かだ。それよりも、さっきもらった返事のほうが、リタにとってはずっとずっと確かな証拠だ。
 さっき飲んでいた酒よりも、ほんのすこしだけ甘い味が唇にふれた。







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