極彩色の雨が体を穿つ。自分の体が、もともとその雨垂れの一部だったとでもいうように、どろりと溶け落ちて同化していく。同じ存在になって、とけあっていく。
雨音が自分の鼓動のように響く。もはや指の形もない手のひらに、赤い血の記憶を見る。
泣いて、泣いて、ようやく引きずり出された世界は空っぽだった。がらんどうのアトリエに、雨が降っていた。この体ひとつ以外、何も残ってはいなかった。
(全部、雨にとけてしまった)
この雨は悲しみに満ちている。痛みが共鳴するようにぽとりぽとりと響き合う。それに引きずり込まれるように心と体がほどけていく。
自分の輪郭が、もはやどこにあるのか分からない。自分が誰で、何をしていたのかもぼやけていく。ただ悲しくて、悔しくて涙がこぼれた、ような気がした。もう体がないのだから、これはただの雨雫なのかもしれない。
(私が、空っぽになる)
この感覚には覚えがある。自分がなぜ生きているのかわからずに、終着点を探していたときのこと。何をしたいのか、何を知りたいのか、それすらぼやけていたときのこと。道端の小さな水溜まりのように、意味も、理由も、なにもない。いつか雨が止めば消えていく。
初めから、ここにはなにもなかったかのように。
「調ちゃん!」
何かが体の端をつかんだ。そのままぐいと引き上げられる。掴まれているのは手だった。自分の体から腕が伸びていて、その手をあたたかなもうひとつの手がしっかりと握っていた。
手足がずきりと痛む。ひんやりとした空気が肌に触れる。先ほどまでとけ合っていた液体の上に、自分の体がたしかに存在することに調は気がついた。
ゆっくりと顔を上げると、今にも泣きそうな表情が目に入る。イチが小さな包帯を手におろおろと慌てている。あまり見たことのない顔だ。イチの姿を目にして、調の体は反射的に動いていた。
「しらべ、ちゃ」
目の前の体に近づいて、抱きつく。あたたかい胸が冷えた頬を包む。力をこめて、その温もりを確かめる。確かに生きているいのちの温度が調の体を縁取り、形づくっていく。
溶け落ちた調の体を、イチが見つけてくれたのだ。だからこうして手足があり、意識があり、イチの存在を確かめられる。
「……終わった?」
部屋は静かで、降りしきっていた雨もやんでいた。イチが、すべて終わらせてくれたのだろう。
「うん……ぜんぶ、終わったよ」
イチはぽんぽん、と調の頭を撫でる。そうされると、自分が幼いこどもに戻ったような気持ちになる。どこまでも安堵してしまうような、父の手の温もりにそれはひどく似ていた。
「私、あなたに全部やらせちゃった、復讐も……できなかった」
「まあ……復讐なんてね、やってもスッとしたかどうかわかんないよ」
銃を抜いたのに、引き金を引けなかった。全部終わらせようと思っていたのに、できなかった。そうして震える調の前にイチは進み出て、ナイフを投げた。
「あなたに、やらせたくなかった」
「まあ、弟の不始末は兄の仕事だからさ、いいんじゃないの?」
よく分からないことを言って笑う。どういうわけか父に話を聞いたとは言っていたが、まるで自分が父そのものであるかのような言い方に聞こえた。
「あなた、お兄さんなの?」
「あー……まあ、それは、調ちゃんが元気になってからね?」
「話して」
「こんなに怪我してるし、早く病院行かなきゃ」
「あなたこそ、怪我してる。腕もなんか、溶けてたし」
調がそう言ってイチの腕に目をやると、ぼたり、と音が響いた。
さっきまで調の頭を撫でていた手が、ほどける。液体にかわって地面に溶け落ちていく。
「時間切れかあ……でも、間に合ってよかった」
「なに、これ……どういうこと?」
戦いの前、イチの腕から液体が染み出していた。レプリカントの体に異常が起きているのだろうということは気付いていた。異常があったらすぐに教えて、と言ったのに、何も気付けなかった。イチは安らかな顔で微笑む。
「あのね、俺ちゃんは調ちゃんを守るために、シロのコピーとして描かれたレプリカントだったの。いやー、何とかギリギリ間に合って良かった」
告げられた言葉を理解できない。イチが父の思いを託されたレプリカント。あのアトリエで描かれたという彼がそんな思いを背負っていたなんて、ひとつも知らなかった。
いつ思い出したの、お父さんといったいどんな話をしたの、そんな問いは、今はどうだっていい。
「……よくないよ」
「調ちゃんが生きてて、仇も倒して、これからもう、調ちゃんは何の心配もなく生きていける。これぞハッピーエンドってワケ」
ハッピーエンド、幸せな結末、終着点。ここが? この場所が? こんな終わりが?
イチがいなければ、ここまで来られなかった。すべてから目を逸らして、どこにも辿り着くことができないままに終わっていただろう。イチが調を導き、守ってくれたから、最後まで自分の過去と真実を知り、決着をつけることができた。
(あなたが、私を見つけてくれたから)
幼い頃にスケッチブックに描いた、憧れのひと。すべて失ったと思っていたのに、イチは調に会いにきた。手を差し出し、調を目まぐるしい日々に引き込んだ。たくさんの時間を一緒に過ごした。いつか壊れるのを恐れてしまうほどに。
失くしたものを届けにきてくれた。命のかたちを見つけてくれた。
(私の探していたもの、ぜんぶあなたが持ってた)
嫌だ。強い感情に体がくずれおちそうなほど熱くなり、涙があふれだす。
「よくない……あなたがいないと、ハッピーになるわけないじゃない!」
イチは目をやわらかく細め、調の頭をそっと撫でる。そんな風に安心させないでほしい。今欲しいものは、そんなものじゃない。
「俺なんかのことは忘れて、調ちゃんはこの先楽しく過ごしてほしいって、シロも天国から見守ってるはずだよ?」
全部、ぜんぶ忘れていて、やっと思い出して見つけられたのに、忘れるなんてできるはずがない。父の思い、イチの笑顔、なにもかも調の一部で切り離すことなどできない。
ずっとひとりだった。スケッチブックの端に滲んだ染みのように、いつかは忘れられ、くしゃりとふやけて破れおちて消える。名前も影も、世界のどこにも残ることなく。
――調ちゃんは、どうしたい?
何度も問われた。突然日常に現れた非日常の象徴のような彼は、嵐のように調の手を引いて、見たこともない景色へ連れて行った。
――大事な大事な調ちゃんだから。
自分が望まれて生まれたことを知った。生きてほしいと願われていたことを知った。だからもう何も失いたくない。もう空っぽの、ひとりではないから。
「やだ……いや……もう、ひとりにしないで……」
ずっと目を逸らし続けていたからなのか。神様の奇跡は、自分の生から目を背けた調を許してはくれないのだろうか。
その代償に、またすべて失うのだろうか?
「いやー困ったな……調ちゃんに泣かれちゃうと、俺ちゃん弱いんだよなあ……」
嫌だ、嫌だ、涙と一緒にそんな言葉しかもう出てこない。どうにかならないのか。イチが調を見つけてくれたように、助けられないのか。
――いやだ。どうして。へんじして。
あの日、何度も父と母を呼んだ。泣いて泣いて、血の雨に打たれながら必死に扉を開けようとした。泣いても泣いても声は返らず、暗闇の中に閉じ込められて姿を見ることさえできなかった。
涙でぼやけた視界のなか、必死にイチの形を探す。まだ間に合うかもしれない。イチはここにいる。調にまだ触れている。見たこともないような優しい笑みを向けている。
イチの腕が、足が、体が、輪郭を徐々に失っていき、かき集めた水溜まりがどこまでイチだったのかもう分からない。それでもおぼろげな形を懸命に掻き抱く。
イチがそんな調の涙を拭うように、頬に触れた気がした。
「楽しかったよ、バイバイ」
そうして、腕のなかの温もりはあっさりと跡形もなく溶け落ちた。
調は自分の膝の上に、指先に、触れる液体を探るように寄せ集める。さっきまで笑っていた顔を、触れてくれた手を、なんとかたぐり寄せようとする。
やがて、ばたばたと足音が響いて部屋に誰かが入ってきた。調が顔を上げると、息を切らした黄杜が立っていた。
「ハア、ハア……イチは⁉」
調はなにも言えず、すぐそばにある水溜まりと黄杜の顔を交互に見る。
こうしている間にもイチの形を見失ってしまうかもしれない。調はまた、極彩色の水溜まりに手を浸す。
すると黄杜が駆け寄ってきて、ひとつの瓶を調に渡す。液体に塗れた手ごと包んで、しっかりと両手に握らせた。
「まだ……まだ間に合うよ」
瓶には灰色の液体が入っていて、手の中でとぷりと音をたてる。
「それを使って、君がイチを描いて。使い方は分かるね? 絵の具と、その水と、それから本人の血……いや、君の血でも大丈夫なはず。君の中の白鳥の血、それからイチとの記憶があれば、イチはまた戻ってこられる」
調は瓶の中で揺れる水を見つめた。この水から自分は生まれてきた。たくさんのレプリカントたちも、この水から描かれて誕生した。父が見つけた、アトリエの奥にあった命の湖の一部がここにある。
「だから、君が描いて。君ならもう描けるはずだよ」
黄杜は調に懇願するように、ぎゅうと両手に力をこめた。
失くしたものは元に戻らない。失われた命は取り戻せない。死んだ人間は生き返らない。そう思っていた。出会ったレプリカントたちに、そう言いもした。なのに、これがあれば取り戻せるという。
――人が生き返るって、そんなにおかしなことなの?
――僕は一度死んでいます。ここにいること自体がきっと間違いなんです。
血まみれの部屋に折り重なるように集まった軟泥が、指先で砕けた冷たいチョーカーの破片が、透き通った瓶の向こうに映る。
(一度だけ、この一度きりだけ)
調は、命を再現する力によって生まれた。父は、その力で多くの命を蘇らせた。あるはずのない、あってはならない奇跡だ。けれどそのひとつひとつの奇跡も、覆すことのできないたった一度の生なのだ。
(奇跡を願っても、許してもらえる?)
一度だけ、イカサマのような奇跡を使う。それを許してほしいと誰にともなく祈った。
調が、白鳥暁音が生まれてきたこと、父と母とイチに守られたこの命を、心から愛するために。生まれてきてよかったと、描いてくれてありがとうと伝えるために。
「分かった……私が描く」
顔を上げて、黄杜にうなずいて見せた。彼は満足そうに微笑んで、調からそっと離れる。その手がぽたり、と溶ける。
「それが最後の一人ぶんだから、大事に使っておくれ。ああ……見たかったなあ、君のオリジナルの絵……それだけが、それだけが心残りだ……」
ぐしゃりと顔を歪めながらも笑ってみせる。その顔も端から溶け落ちて霧のように消えていく。
「それじゃあ、バイバイ。またどこかで会えたらいいね。ああ、本当に楽しい人生だったよ、イチ、調ちゃん……シロ」
そうして彼の体はふっと溶け消える。この部屋に、また調ひとりになる。誰もいなくなった部屋で、調は瓶を抱えてうずくまる。
「黄杜さん、お父さん……イチ……」
イチも黄杜も、楽しかったとすがすがしい顔で言う。最後まで満足そうに笑って消えていく。
(私も、あなたたちといられて、楽しかった……)
目を閉じて、思い出を描く。全部、ぜんぶ覚えている。もうここにいなくても、形が分からなくなっても、どんな日々を過ごしたか、どんな顔で笑っていたか、はっきりと思い描くことができる。
(描きたい、この気持ちを)
調はその衝動に突き動かされるように立ち上がった。ぼろぼろの服も構わずに、瓶ひとつをしっかりと抱きしめて駆け出す。
描きたい。いますぐに描きたい。どんなに自分が過ごした日々が愛おしかったか。かけてくれた言葉に救われてきたか。
そうしてイチに会いたい。会って、たくさん伝えたい。知らなかったこと、聞きたいことがまだたくさんある。
まだなにも終わるわけにはいかない。探している終着点は、もうひとりでは辿り着けないものなのだから。
アジトに帰ってきたのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。もう誰もいない。静かな部屋に調の立てる音だけが響く。
服の汚れだけはたき落とし、まっすぐに画材のもとへ向かった。使い慣れた道具たちは、いつもの場所に鎮座して調を待ってくれていた。
イーゼルを立て、キャンバスを置く。こんなに澄んだ気持ちでキャンバスに向かうのは初めてのような気がした。水と混ぜた絵具に、ナイフで切った指先から血を落とす。筆先につけて、キャンバスに走らせる。
――調ちゃん。
いつもうるさいくらいに声をかけてきた彼が、調の記憶のなかで陽気に騒ぎはじめる。面倒だとか、うるさいと思ったこともあった。一人の生活を乱されることを煩わしく思いもした。うっかり怪盗業に加わってしまったことを後悔した日もあった。
けれど、それはいつしか日常になった。目覚めれば彼の気配があることが当たり前になった。自分の力が役に立つことをほんの少し嬉しく思いもした。誰もいない静かな部屋を心細く思うようになった。イチと一緒にいられれば、それだけでよかった。
――俺ちゃんがいるから大丈夫。
どんな顔をしていたか、どんな風に笑ってくれたか。一緒に過ごした日々を、こんなにも鮮やかに思い出すことができる。今も、これからも、どうかここに在るようにと。
(私、こんなにあなたのこと、覚えてる)
たくさんのものをもらった。この身にあふれるくらいにもらったものを、全部筆先に乗せる。描きたい思いがあとからあとから湧き出して、あふれ出して止まらない。
この思いで、返したい。どれだけ大きなものをくれたか、伝えたい。
何度か夜と朝がめぐったころ、イチの絵はようやく完成した。とびきりの笑顔で調を見ている。こちらが思わず笑い出してしまいそうなほどに、満面のまぶしい笑みだ。
「イチ」
名前を呼ぶと、輪郭が揺れて身じろぎする。命をもって、動き出す。
「はあい」
返事が聞こえた気がした。壁がぱりんと割れたような音とともに、キャンバスからイチの姿が抜け出る。
光のなかに、調のよく知るイチが降り立った。イチは自分の手足を伸ばしたり曲げたりしながら、起きたことを確かめるようにきょろきょろと辺りを見回している。
調は、目の前の彼の胸にたまらず飛び込んだ。どこも溶けていない手足がある。ひとの温かさをしている。生きている温度がここにある。
ただそれを確かめるように、目いっぱい抱きしめた。大事な大事な、命の証を。
「ああ……すごいな」
イチは溜め息を漏らす。
「ハッピーエンドだね、これ」
嬉しそうに笑いながら、あたたかな手で調の頭をそっと包んだ。