フォークに乗った欠片を口に含む。甘い風味が口いっぱいに広がる。思わず表情が動いてしまいそうになるのを押しとどめて、冷静に味わおうとする。
「これ、とっても美味しい! ガイアはどう?」
ガイアの逡巡をよそに、リーンは屈託なく楽しそうに話しかけてくる。こんな風に、ちゃんと美味しいものは美味しいって言えたらいいのに、とちょっとほろ苦い気分になる。
「まあ……美味しい、んじゃない」
「よかった、ガイアも好きみたいで」
べつに好きとは言ってない、なんて口にしかけて、黙りこむ。こういうところがいけないのだ。リーンと一緒ならちょっとは何か変われるかもしれないと思ったのに、肝心の自分ときたら相変わらずこんな感じだ。なんとなく目を逸らし、店内に目をやる。
クリスタリウムの一角にある小さな店だ。穴場でまだ注目されていないけれど一部で評判らしいと、リーンに連れてこられた。他の客はまばらだが、店内には落ち着いた雰囲気が流れている。いつも張りつめているようだった気持ちも、ほどけていくような感覚がする。
ふと、ガイアたちが座っている席のほど近く、壁沿いに目を引く置物が飾ってあるのに気がつく。可愛らしい家の形をした模型だ。よく見ると、家のパーツはそれぞれが菓子でできていて、家自体が一つの菓子になっているのだとわかる。
「お菓子の家……ね」
「わあ、素敵……それも注文すれば食べられるのかな?」
お菓子の家の脇には『ご予約の四名様~』と書いてある。
「でも、とても二人じゃ食べきれないし、予約が必要みたいよ」
「じゃあ今度、サンクレッドやみんなを誘って来ましょう!」
にこにこと笑うリーンに、ガイアは曖昧に頷く。よくできた菓子細工の家にふたたび目をやる。飾ってあるもの自体はあくまでサンプルで、本当に菓子でできているわけではないようだが、手を伸ばせばまるで本当に食べられそうだ。そばには色とりどりの人型のクッキーが並べてある。立派な家を取り囲むように。
「あのクッキーは……」
大きなクッキーがふたつと、ひと回り小さなクッキーがふたつ。“普通の家族”は、あたたかい家によく似合う。
「……いいわね、まさに家って感じで」
「うん、ちょっと憧れるかも」
リーンは眩しそうに目を細めて家をながめている。
「アンタには……いるじゃない、ちゃんと」
頬杖をつきながら言うと、リーンは目を丸くする。いつもあたたかな眼差しに守られ信頼を預けあっているさまは、こちらが見ているだけで肩をすくめたくなる。
「いるって、何のこと?」
どうやら本当に分かっていなさそうに首をかしげる。
「だから……あんたの家族のことよ、ほんと、あんたが可愛くてしょうがないって感じじゃない」
「ああ、サンクレッドのこと? うーん……そういうのとは違うと思うんだけど……ガイアにはそう見えるの?」
「見えすぎて、こっちが居たたまれなくなるくらいよ」
初めて会ったときから、リーンは大切に守られた女の子だった。それは、光の巫女としての辛い経験を経てのことだとは知っている。けれど、リーンは愛されるべき存在だと、一緒にいるたびに思わされた。リーンの持つほかならない輝きがそうさせているのだと、ガイアには感じられた。ひどく眩しく、心地よくいとおしく、焼けつくように染みる。
「そっか……少し前までは、ぜんぜん今みたいな感じじゃなかったんだけど」
リーンはフォークを置いて、ほんのすこし目を伏せる。
「いつも怯えてた。私はいつ置いていかれるかわからない、足手まといな存在で、ここにいちゃいけない……ここにいるべきなのは、私じゃないって」
「アンタも、そんな陰気なことばっかり考えてたころがあったのね」
「ちょっと前のガイアだって、人生最後の食事がいつになるかわからない、とか、私の時間はずっと止まったまま、とか言ってたじゃない」
「そ、それは」
そんなに前の話ではない。今だって同じようなことを考えるときがある。その時間が前より少なくなったのは、間違いなくリーンのおかげだと分かっている。
「ふふ、でも……サンクレッドは、私を信じてくれたから。どんな場所から来て、何を見てきて、そういうこと、ぜんぶ知ってるわけじゃないけど、でも私も、私のぜんぶで、信じたいし、信じてるから」
そう話すリーンの表情はとても美しく、ガイアの目には映った。胸の奥がチリリと痛む。そんな風に心から誰かを信じていると言い切ることができたなら、どんなに良いだろう。
「同じ屋根の下にいられなくても、いつか別々の場所へ帰ることになっても……私の、家族のもとに帰りたい気持ちは、この先もずっと持って行ける。いまはそう思ってる」
ガイアは皿の端にわたされたフォークの柄を、指先でそっとなぞった。冷たくて硬く、鈍い光を反射している。リーンは言っていた。彼女の世話を焼くあのひとたちは、もうすぐ遠くへ旅立つのだと。
(私は、どうしたかったんだろう?)
明日なんて来なければいいと思っていた。今日と同じ一日がずっと繰り返し続けばいいと思っていた。雨が降ろうが陽が沈もうがどうだっていいと思っていた。
(それは、本当に私の思い?)
遠ざかっていく両親の背に、自分が何を思ったのか。欠片も思い出すことはできない。ただ、そばにいた人は、いつかいなくなるという事実だけをはっきりと覚えている。
「私は、リーンみたいに思えない……一緒にいたくても、いられないかもしれないなら……信じてるなんて、簡単に言えない」
信じるには覚悟が必要だ。自分を預けるために差し出し、相手を自分の中に受けいれる覚悟を持たなければいけない。
こうしてリーンと一緒の時間を過ごせるようになっても、ガイアはずっと戸惑っている。素敵な店で同じテーブルを囲んで同じケーキを頼んでみても、これがリーンと食べる最後の食事になるんじゃないかと、どこかでそう思いつづけている。
「話したかもしれないけど、私も、ガイアと同じ、ユールモアにいたの」
ガイアのほうに少し身を乗り出して、リーンは真剣なまなざしを向ける。
「ずっと自由もない、暗い場所に閉じ込められてた。でも、それが私の運命なんだって思ってた。それからサンクレッドに連れ出されて、いろんなことがあって……ここまで来た」
光の巫女としての重責、長い旅、それらを経て、リーンは今、目の前で穏やかに座っている。ガイアの向かいの席で、同じ茶と菓子を口にしている。
「ガイアの抱えてるものだって、ぜんぶわからない私が、軽いこと言えないけど……ここまで来られてよかったって、思える日が絶対来るから。それだけでも、ガイアには信じてほしい」
リーンはそうでも、自分は違う。きっとそのはずなのに、もしかしたら、と胸の奥で期待が身じろぎする。リーンと一緒にいれば、いたいと心から願うのなら、彼女が思い描くものをいつか真実にできるだろうか。
「リーンって、いちいち言うことが甘いわよね。メープルシロップみたいな甘さ」
「ご、ごめんなさい、軽々しく……」
「軽いとは言ってないでしょ」
ガイアはわずかに冷めた茶をすする。すこし苦く、ほのかに甘い。
「……私も、リーンの家族になれたらいいのに」
リーンは急にはじかれたように顔を上げる。
「か、家族?」
「あ……な、なんでもないから! べつに何も言ってないから!」
「嬉しい、嬉しいよ、ガイア」
顔が熱い。花が咲いたようによろこぶリーンから目を背ける。
「違う、家族っていうのは、そんな深い意味じゃなくって……たとえば、アンタがただいまって言いたくなったら、おかえりくらい言ってあげるわよって、そういう意味で」
うまく言葉が出ない。いくら茶で喉を潤してみても、胸につかえたものは滑らかに出てこない。
「ありがとう、うん……そうだよね。私たち、どこに行ったっていいし、どんな風に暮らすかだって、好きなように決めていいんだよね」
「フツーの女の子は、好きに生きるものでしょ」
「ふふ、ガイアがまだ行ったことないところにも、一緒に行きたいな。妖精の住む花畑とか、大森林の奥にある遺跡とか」
リーンは夢見る少女の顔でガイアに話す。
「砂漠に伸びる線路を辿ったり、この先、無の大地がほんとうに蘇ったら、そこに暮らしたっていいし、考えるだけで楽しくなっちゃうね」
どこにだって行ける、ガイアにとっては信じられないくらい途方もない話だ。不確かな自分の中にかたく閉じ込められていたような気がしていたのに。
「いいわね、それも」
心からそう思えた。憧れて、願った。どこにも行かれないと思っていた自分も、いつかそんな遠くまで行くようなことがあるのだろうか。
「あ、お喋りしてたら、ケーキぜんぜん食べてなかった!」
「クリーム溶けるわよ」
リーンと一緒に、いそいそと頬張る。自然と笑みがこみあげてくる。なにもないのに、むだに笑いだしてしまう。
(私も、いつか、一緒に見られるのかな)
リーンがその目で見てきたものなら、きっといつか、この目にも映せるだろうか。今ここでばかみたいな話をしているみたいに、なんでもないことのように、森や砂や海が、ガイアの目の前に広がるのだろうか?
そんな夢のなかで、リーンが振り返る。ガイアに向かって、笑いかける。ガイアは息を吸い込んで、そのひとことを口にする。実際にうまく言えるかは、わからないけれど。