「祈ちゃん、もしかして寝ちゃった?」
心配そうな声が耳に届いてハッと体を起こす。手に持ったままだったジョッキがごとりと大きく揺れて、中身が少しこぼれてしまう。
「ああー……ごめん」
「大丈夫だよ、私がやるから」
慌てて机の上を拭こうとするが、ヒナノに制される。いつから古鳥軒で飲み続けていたのか、頭がふわふわとしてヒナノの顔も時折ぼやける。
「祈ちゃん大丈夫? 今日いくらなんでも飲みすぎだよ……もうこんな時間だし」
ヒナノは祈の顔をのぞき込み、不安そうに聞いてくる。壁にかかった時計を見ると、もうすぐ十時になろうというところだった。
「もうこんな時間かあ……ごめんね、ヒナノちゃん」
「私はいいんだよ、でも祈ちゃんがこんなに飲むなんて珍しい気がして……何かあったの?」
祈は年下の心優しい友人の顔を見つめる。健気で、可愛らしく、大切な家族のために頑張り続ける彼女は、確かに祈の憧れでかけがえのない友人だった。
「なんにもないよ、明日から新しい班に配属だからちょっと緊張しちゃってさ。飲まずにいられなくなっちゃっただけ」
「そうなの? でもそれならもう帰らないと……明日に備えて、今日はゆっくり寝てほしいな」
ヒナノは上着を取ったり鞄を持ったりと、祈の帰り支度を手伝ってくれる。そろそろ店も閉めなければならない時間だ。これ以上長居はできない。
「んー、どうしよっかな……まだちょっと飲み足りない気分なんだよねえ……新宿あたりで飲み直そっかなあ」
「まだ飲むの!? ホントに大丈夫なの……?」
眉を下げておろおろし始めるヒナノを安心させるように、祈はにっこりと精一杯の笑顔を浮かべてみせた。
「大丈夫大丈夫! ちょこっと飲んだらすぐに帰るからさ、ヒナノちゃん、こんな時間まで面倒見てくれてありがとね」
「それならいいんだけど……本当に気をつけてね……!」
店の扉を出ても、ずっと心配そうに祈を見送ってくれる。角を曲がるまで、祈はひらひらとヒナノに手を振り続けた。やや覚束ない足取りで。
道を曲がり、古鳥軒が見えなくなったところでふうと息をつく。頬を撫でる夜風はひやりと冷たく、明日から十二月だということをその温度で告げてくる。
「……満月だ」
人気のない静けさばかりが満ちた道で、ぼんやりと夜空を見上げる。吸い込まれそうなほど大きな月だ。見つめていると自分と世界との境目が分からなくなりそうになる。
――死のう。
ふわりとその思いが浮かぶ。そうするのが自然で正しいことだと、疑いもなく思うことができた。
祈は月に惹かれるようにして踏み出した。ふとヒナノの心配そうな顔がよぎり、ふと後ろを振り返ってみた。そこには誰もおらず、色あせて崩れそうな葉が暗い夜道にどこまでも散らばっていた。
「ごめんね」
誰にも聞こえない言葉を残して、祈は歩き出した。
酒に酔った頭でも、廃ビルの場所は思い出せた。以前、もし死ぬならと思って下見に来たことがあったのだ。そのときはまだ明るい時間帯だった。こんな夜に来たのは初めてだ。
屋上の柵を越え、ヘリに立ってみる。下を見下ろすとくらりと一瞬頭が揺らぐ。足元がふらついたらいつでも落ちてしまえそうだ。片手で柵を握りながら、祈は煌々と光る満月を見上げた。
「綺麗だなあ」
そう呟いて、泣きそうになった。綺麗なものでありたかった。正しい存在でいたかった。何も傷つけることのない優しい人間になりたかった。
新宿の街を彩るまばゆい灯りを眺めて、唇がひとりでに動く。嘘だ。
あの灯りがいっぺんに消えてしまえば、自分のこんな苦しみも嘘のように消えてしまうのだろうか。なぜ苦しいのか、なぜ生きているのか、そんな問いを繰り返すことももう疲れた。問いかけて答えてくれる存在なんてこの世のどこにもいるはずもない。灯りをすべて消したいのなら、目を閉じるしかないのだ。
祈は柵を握っていた手をぱっと開き、ふたたびこちらを見下ろす月を視界に入れた。足を一歩踏み出そうとした、そのときだった。
「ちょっと待て……!」
背後から声がした。とっさに振り返ると、男らしき影がこちらに向かってものすごい勢いで走ってきた。
「そんなところにいたら危ないだろ、ほら」
男は祈の腕を無理やり取ると、柵の内側に引き込もうとしてくる。見慣れない顔だ。ややくたびれたスーツを着ており、祈よりもいくらか年上のように見える。
「ちょっと、なんなんですか」
祈はつかまれた腕を引きはがそうと抵抗する。突然見知らぬ人間がやってきて、自分を止めようとしている事態に頭が混乱していた。ビルの下をたまたま通りがかって、屋上に立つ姿でも見たのだろうか。
「誰ですか、あなた」
そう聞くと、男はハッと目を見開く。まるで祈の問いで傷ついたかのような顔を一瞬浮かべた。しかしすぐに唇を引き結び、答えた。
「俺はお前の上司だ」
「上司って……警察の人ですか?」
「ああ、そうだ。お前が明日から配属される先のな」
そう言われて戸惑うが、なおも抵抗を続けていると今度は柵から身を乗り出してきて再度腕を掴まれた。
「お前、やっぱり力強いな……ほら、いつまでそんなとこにいるつもりだ」
「ちょっと待ってください、私のこと知ってるんですか」
「おいおい、警察舐めんなよ。警察の一員で、ましてや新しい部下のことなんだから知ってるに決まってるだろ」
呆れたように首を振り、片手で胸ポケットから警察手帳を出す。どうやら本物のようだ。
「だとしてもなんで、こんなところにいるんですか」
「部下を迎えにくるのは、上司の仕事だろ」
男は祈を今にも柵の上に引き上げようとしている。抵抗する力が弱まった隙に、体をぐいと持ち上げられた。一瞬担ぎ上げられたと思うと、ふっと地面の上に下ろされた。
「今のはセクハラとか言わないでくれよな、人命救助ってことで」
男は初対面のはずなのに、いやに気安く話しかけてくる。上司だ部下だと言って、こんな場所に現れた。まるで祈がここにいるのを知っていたかのように。不思議な気持ちになって、座り込んだままぼうっと男の顔を見上げた。
「私……あなたと、どこかで会ったことありますか」
男はじっと祈の顔を見つめたかと思うと、ふっと口元を緩めた。
「さあな。もしかしたら、そういうこともあるかもしんねえな」
よく分からないことを口にし、男は再び祈に向かって手を差し伸べた。
「班長の足沢夏也だ。改めてお前の名前も教えてくれるか」
班長、と聞いて頭がピリ、と痛む。それは一瞬のことで、懐かしい感覚を思い起こさせた。目の前に差し出された手を、自分は取らねばならない。何かに突き動かされるようにそう思った。
「潮見、祈です……足沢、さん?」
「あー……班長でいいぞ。他の班員もそう呼んでるからな」
「あ、はい……班長」
祈がおずおずと差し出した手を、足沢はぐっと掴み、そのまま握り込まれた。
「じゃ、潮見。こんなところで油売ってないで、さっさと行くぞ」
「えっと、行くって、どこに?」
「あー、とりあえず、飯でも食いに行くか。手始めに歓迎会だ」
「いや、もうこんな時間ですけど、開いてる店ないですよ」
「はあ、お前がこんな時間まで外にいるからだ、まったく」
「あ、なんか、すみません……」
「いいよ、ひとまずお前の新しい職場でも見とくか。夜食付きだ」
足沢はふっと笑うと、祈をともなって歩き出した。その後をついていきながら、肩越しに月明かりがちらと目に入る。目で追っていると、足沢の背中に思わず顔をぶつけてしまった。
「わぶっ」
「おいおい、前見て歩けよ。ドジっ子か?」
心底おかしそうに笑うので、なんだか納得のいかない気持ちが湧いてくる。
「ドジっ子とかじゃないです、失礼ですよ」
「ぶつかっといてなんだその物言いは」
「ぶつかったのは私が悪かったですけど」
「あーわかったわかった、落ち着け」
足沢は祈をなだめるようにひらひらと手を振る。この不思議な班長と話していると、なぜか今までにない感情が湧いてくるのを感じた。それはくすぐったく、怖くて悲しくて、失くしたくないものだと思えた。理由もなく、そう感じた。
夜更けの街はどこまでも続く。二人がゆっくりと歩く先に、眠らない灯りがいくつも瞬いている。夜空に浮かぶ月は、きらめく街明かりに霞んでもう見つけることはできなかった。