ついてないな――呟いた声が路地に浮いて消える。陽の暮れかけたファリハイドの街は、まばらに灯りはじめる明かりとともに少しずつ人通りが減っていく。
令嬢との約束があちらの都合で取り消され、ダミュロンは大人しく屋敷に帰る気にもなれず、ふらふらと夕闇の街を歩いていた。広場や中央通りのほうならまだしも、このあたりまで来ると人影はまばらだ。貴族による秩序と安寧が保たれている街らしく、夜の穏やかな静けさがたちこめる。街の暗がりではまた違う秩序があちこちで顔を出す。けれど今日は、そんな風に誰かとつるんで夜をやり過ごす気にもなれなかった。
(なんだか、どうにも嫌な気分だ)
ダミュロンは小さな看板の前で立ち止まる。裏通りのあまり目立たない小規模な酒場だ。喧騒から遠ざかり一人落ち着きたいときに、時々足が向く場所だった。
扉を開けると、何人かの客が入っていた。とりあえずカウンターの適当な席に座ろうとすると、端のほうに先客がいるのに気付く。小柄な女のようだった。うす暗い店内の影にひそむようにたたずむその姿は、なぜかダミュロンの目を引いた。一見、背格好はほんの年若い少女に見えて、こんな場所で一人飲んでいるのは似つかわしくないように思えた。
「お嬢さん、一人?」
変装用の帽子を取り、気まぐれに声をかけてみる。肩の上ほどの髪をさらりと揺らして、彼女はこちらに顔を向けた。大きな瞳が瞬いて、店内の灯をたたえてきらめく。
彼女は、ダミュロンを見て少し驚いたような表情をした。だいたいどんな女も、急に話しかけるとこんな風に戸惑うものだ。しかし見開かれた目は何かそれだけではない色をしているように感じた。
やや首を傾げながらそのまま隣に座る。近くで見ると、全体的な顔立ちはあどけなさを残しており、やはりダミュロンよりもずいぶん年下の少女に見えた。
「や、よく見ると……こんな店に来るのはまだ早いんじゃないの、お嬢ちゃん」
思わずぽろりとそう言ってしまう。呆けたようにダミュロンを見ていた少女の目が途端すっと細められ、鋭くにらまれる。
「……急になんなの? 失礼な奴ね」
「いや、ずいぶん可愛らしいお客さんがいるなあってさ」
微笑みかけてみるも、少女の目つきは完全に不審な人間に対するものになっていた。
「あいにく、もう一人で飲んでたって咎められるような歳じゃないの」
「え、じゃあ俺とそこまで変わんないってこと?」
「知らないわよ」
不機嫌そうに言って、薄紫色のグラスを少し傾ける。彼女と同じものを、と店主に注文すると、横から怪訝そうな視線を向けられた。
顔立ちは幼く見えるが、どうやら同年代のようだ。言われてみると、洋燈ランプの光の当たり方によっては年相応の落ち着いた美しさを見てとれるような気がする。
「名前は?」
「はあ?」
「いや、君の名前、知りたいなって」
「なんでいきなり会ったばっかのあんたに教えなきゃいけないのよ」
初手を間違えてしまったからか、すっぱりと素っ気なく言われてしまう。
「この辺に住んでるの?」
彼女は軽く首を横に振る。
「じゃあ、何か用があってこの街に?」
「……べつに用があったわけじゃないけど、旅の途中で偶然ここに着いたの」
彼女の言葉はあいまいで、釈然としなかった。
「予定外に立ち寄ったってこと? どこから来たの?」
「質問ばっかりね」
呆れたような目をされる。
「ここからだと、ずいぶん遠いところ」
それでも、とりあえず質問には答えてくれた。相変わらず答えはあいまいだが。遠いところ、と口にした彼女の声は、わずかに震えていたように思えた。
「旅かあ、自由でいいねえ。俺はほとんどこの街しか知らないから」
「ほかの街に行ったこと、ないの?」
「記憶にあるかぎりは、ほとんど」
時々考える。ここではないどこかに行き、違う日々を送る自分の姿。けれどいつも上手く想像はできなかった。なにより魔物のうろつく結界の外へはそう簡単に出られるものではない。
「自由にふらっと遠くまで行ってみたいけど、そうもいかないのが困るね」
「どうして」
「肝心なときは何かと不自由な身の上でね、今日も忍んでここに来てる」
「あんたこそ、一人で酒を飲んでたらだめな奴なんじゃない」
「おっと、そういうことになっちゃうなあ」
「どこかの貴族なの? そんなに身動き取れないなんて」
彼女は短く、淡々と問いかけた。軽く首を傾けて、ただ純粋に気になるだけとでもいうように。
ダミュロンはカウンターの下でぐっと拳をつくった。ひとときの楽しい会話を交わすだけなら適当な偽名を使えばいい。この街でダミュロンという名は、貴族の名門アトマイス家の次男、それ以外の意味をほとんど持たない。ほかに付いてくるのは、いつの間にやらどこかで買った恨みやおかしな噂くらいのものだ。
なのに、なぜか彼女に本当の名前を告げたいと思ってしまった。今夜くらい自分の名の持つ枷から自由になりたい気分なのに。顔は晒してしまっているが、どうやら彼女は見ただけでどこの誰とは判別していないらしい。しかし、名を告げればもしやということもあるかもしれない。
そんな逡巡をよそに、もうダミュロンの口はひとりでに動いてしまっていた。
「ダミュロン……ダミュロン・アトマイス」
気がつけばするりとすべり出ていた。自分から名を告げたのに、ダミュロンのほうが彼女の顔を驚いたように見つめてしまう。
「それが、あんたの名前?」
彼女はひとつ瞬きをして、ダミュロン、と口にした。彼女の声で発されたその名前は、冴え冴えとしているのにやわらかく、くすぐったかった。小さな声で何度かくり返されて、ダミュロンはなぜかどうにも落ち着かない気分になった。彼女の口にしたその名前は、ただの音の集まりでしかない。ほかになんの意味もない。そのことにただ、新鮮な気持ちがした。
「この街に住んでる貴族ってこと?」
言われて、彼女がとくに名前を尋ねてきたわけではなかったことに気づいた。貴族かどうか聞かれただけなのに、そのまま名を口にしてしまった。
「あ、ああ……そう、一応ね……」
返答もおぼつかなくなりながら、ダミュロンはしばし心の中で頭を抱える。そうしていると、彼女がふと口を開いた。
「リタ・モルディオ、あたしは貴族じゃないわ。ただの研究家」
それは彼女の名前だった。身分まで明かされた。いつの間にか彼女の警戒心は少し薄れていたようだ。過程はどうあれ、結果的に彼女が心を開いてくれたのだとすればそれでいい、とダミュロンは気を取り直す。
彼女と同じように、名前を口に出してみる。リタ、口の中でころりと転がるような不思議な響きの名前だと感じた。
「リタ……研究家か、確かに横顔が知的で魅力的だって思ったよ」
「あんた、息を吐くように嘘つくのね」
「嘘だなんて、思ったことを素直に口にしただけさ」
リタは呆れ顔でため息をつく。けれど本気でいやがられているわけではないのが、柔らかな目元から感じ取れる。彼女とのやり取りは簡単に先が読めず、危うい賭け勝負に臨んでいるときのように心がひりついて熱くなる。すんなりと一筋縄ではいかない応酬が、ダミュロンには逆に面白く感じられた。強い酒をあおったときのように、体のうちに熱が巡り揺らぐ。
「研究家ってことはさ、この街にも研究のために来たの?」
「……そんなところね。探し物の途中で、ほんとに予想外の、寄り道だったけど」
リタはグラスを傾けて、半分くらい残っていた中身を飲みほす。手を挙げて、同じカクテルを注文する。ダミュロンもちょうど残り少ないグラスを空にして、今度は違うものを注文した。リタの飲んでいたカクテルは、ダミュロンには少し甘かった。
「すごいねえ、リタは俺とそんなに変わんないってのに、研究家であちこち旅してるってさ」
「逆に、あんたは何してるの? 貴族には貴族のやることがあるんでしょ?」
ダミュロンは新しいグラスを持ち上げた手を止めた。まっすぐ問われて、じわじわと説明のつかない感覚が足元からのぼってくる。さっきまで体を満たしていた高揚感がゆっくりと温度を下げていく。
「やること……ね、そっちは、もう山ほどあるって感じだ」
「当然よ、あたしには立ち止まってるひまなんて、ないんだから」
決意と強い意思を示す表情に、腹の奥がふつふつと唸った。落ち着かない。いますぐ彼女の前から立ち去りたくなる。同時に、その薄明かりに照らされた横顔に手を伸ばして、引き結ばれた唇をひらきたいという衝動に駆られる。けれどその手をあっさりと拒まれる想像が浮かび、ダミュロンは自分の浅ましさがますます呪わしくなった。
いつも楽しいひとときをくれた令嬢たちは、どこかダミュロンに似ていた。意思を持たない器であることを求められる彼女たちはやさしく滑らかで美しく、哀れだった。ダミュロンを受け入れることは、彼女たちのせめてもの抵抗にも見えた。自らの不自由とやがて課せられた役割への。
ダミュロンにはある程度の自由があった。彼女たちと違い、役割が与えられることはない。しかし、その代わりに誰からも何も求められることはない。空っぽの家名が、重りのように垂れ下がっているだけだ。
けれど、リタは自らの意思で役割を選ぶことができる。どこにでも行かれるのだ。偶然ひとときこの街に立ち寄って、やるべきことのために、またどこかへと旅立つという。そんな生き方が許される人間もいるのだ。知っていたはずなのに、なぜかこの上なく惨めな気分になっていた。今夜は楽しく酒を飲みに来たはずなのに、なぜこんな気分にならなければいけないのか。
「ダミュロン」
ふいに、名前を呼ばれた。リタはじっとこちらを見て、寂しげに少し目を細めた。なぜそんな表情をするのかわからなかった。酔っているのかと思ったが、彼女の二杯目のグラスはほとんど減っていなかった。
「どうした、飲まないの?」
「……そろそろ、行かなきゃ」
リタは首を振って、しばらくテーブルに目を落としていたかと思えば、いきなりグラスに手を伸ばした。そうして中身をすべて飲み干してしまう。小さい喉がこくりこくりと鳴った。
「ちょっと、いきなりどうした……」
「苦い、辛い、でも、甘い」
何かを思い出すようにつぶやく。遠くどこかを見ているような瞳が、洋燈の火を灯して揺れる。
「この複雑な味を感じとれるのが、大人だって、言われたわ」
誰に――そう問おうとすれば、彼女はカウンターに代金を置き、ひらりと椅子から降りた。そのまますたすたと足早に店を出ていこうとする。
「お、おい」
「ありがと、楽しかったわ」
それだけ言い残して背を向けられてしまう。ダミュロンもカウンターに数枚の金貨を残し、慌ててそのあとを追う。
「待って、待てってば」
路地を曲がって歩いていこうとするリタの腕をぱっと取る。彼女は抵抗せずそのまま立ち止まりはしたが、振り向いてはくれなかった。
「まだ別れの言葉も満足に交わしてないってのに、せっかちすぎないか?」
リタは動かない。何も答えない。握った腕から微かな震えを感じた。
「俺がなんか気を悪くさせるようなこと言った? それなら謝るよ。俺はもう少し君と話したいけど、それが叶わないなら、せめて帰り道くらい送らせてくれよ」
ダミュロンは焦って喋りながら、同時に疑問に思った。なぜこんなに必死になっているのか。出会ったばかりの彼女に惹かれ、妬み、執着する心が生まれている。頭の奥がちりちりと焦げるように痛む。彼女に置いていかれたくない、そう思った。やがてどこか遠くへ行ってしまうのだとしても、今はもう少しここに留まっていてほしかった。
「……いらない、一人で帰れるから」
「夜道は危ないぜ、ファリハイドは治安のいい街って言っても、少し道を外れたらこの可愛らしい顔に傷がつくことだってあるかもしれない」
「変な奴に会っても、ぜんぜんなんともない」
「そりゃ君は強いんだろうけど、でも」
「どうして」
リタは泣いていた。うつむいた頬から落ちた涙が、街灯に一瞬光る。
「なんで、あたしの前に現れたの」
質問の意味をはかりかねて、ダミュロンは答えられなかった。
「会いたかった、でも、会いたくなかった……」
悲痛な声の響きに戸惑う。
「もしかして……俺たち、どこかで会ったことあった?」
リタは首を横に振った。
「違う、ちがう……あんたは……あんたなんて、知らない、会ったことなんて、ない……だから、違う……」
肩を震わせる彼女を腕の中に抱きしめる。何も浮かばない。何を言えばいいのか分からない。ただ、こうすればどこにも行かずに留めておける。彼女の温かい背を抱き寄せ、そんなことを思った。
「変なの……なんで、同じ……ばかみたい」
こわばっていたリタの体がだんだん力を失い、ダミュロンの胸にしがみつくように重さを預けてくる。髪を撫でてやると、ほんの少しほどけたような息が漏れる。
リタがゆっくりと顔をあげた。理由は分からないが、彼女はなにかに傷つきひどく疲れているように見えた。涙の残る頬をそっと指で拭うと、くすぐったそうに目を細めるのが可愛らしいと思った。
そのまま、気がつけば唇を合わせていた。リタの手が、そっとダミュロンの首元を撫ぜる。細い指先はわずかに震えていた。彼女の耳から髪に触れ、背中を強く抱き寄せ、唇を求めた。くり返すくちづけの合間に、ささやくように小さく、たしかに呼ばれた。
「ダミュロン……」
彼女は、愛しい者の名を歌うかのように、その音をつむいだ。
結局、彼女の滞在場所は教えてもらえなかったので、店からほど近い宿に二人で入った。リタはずっとダミュロンの服を掴んで離さなかった。さきほどまで灯りのなかにあった少し大人びた顔が、幼いこどものようにうつむいていた。いじらしく思ったダミュロンが時折抱き寄せ頭を撫でてやると、リタは目をつむりふるふると震えた。庭に住んでいる猫に似ているな、などと思っていた。
暗い部屋に足を踏み入れ、なぜかしばらく立ち尽くした。腕をつかむリタの手の感触が刺さるように浮かび上がり、鼓動がいやに高鳴る。
今日知り合ったばかりの女と宿にいる。なんら珍しい状況でもない。なのに、ダミュロンはこれまでになく体がこわばるのを感じていた。いますぐ彼女に触れて組み敷いて、すべてを貪りたい思いと、彼女に触れるのがおそろしいと感じる思いがせめぎ合う。
(なんで、恐れる必要があるんだ)
警戒をくぐり抜け令嬢の家に忍び込むほうが余程恐れを抱く場面だろうに、と不思議に思う。そっと隣を見ると、リタは部屋の向こうをじっと見つめている。
「なあ」
声をかけると、そっとダミュロンのほうを見上げる。
「男とこういうとこ来るの、初めて?」
リタはふたつ瞬きをしたあと、視線をはずす。答えてはくれなかった。
「あんたは……初めてじゃないんでしょ」
「まあ……そうだな」
「誰とでも、こういうことしてるの」
「違う」
思わず、リタに詰め寄るように近づいてしまう。仰け反ったリタの体を閉じこめるように壁に手をつく。
「違う、俺は……」
何が違うんだ、と頭の中の自分が言う。夜をやり過ごせるのなら誰でもいいと思っていた。今日だってそう思っていた。誰でもいいからそばにいてほしかった。なのに彼女の言葉をどうにか否定したくなった。否定するならもっと上手くやればよかったのに、これでは何の格好もつかず惨めなだけだ。
「あたしは」
リタが口を開く。
「本当は……初めてに、なりたいって、思ってた」
絞り出すような声に、ダミュロンはリタの体を引き寄せる。熱い背をたどって、唇を深く合わせる。やわく赤い唇は、合わせるたび熱をもって、湿っていく。舌先で触れると甘い味がした。口内にすべりこんで、彼女の舌をとらえて、つついて巻きついて味わう。
「初めてだ、今日が」
口づけながらリタの体を寝台に横たえる。靴を脱がせ、服の合わせ目を解き、足から腹、胸に手をすべらせる。
「こんなに、馬鹿みたいに取り乱してるのは」
リタの手を取って、自分の胸のあたりに触れさせた。すると、リタは目を見開いて、くしゃりと顔を歪ませた。そうして、ぽろぽろと涙をこぼした。
「どうした……」
問うより早く、リタは飛びつくようにダミュロンの服の留め具を外そうとした。いきなり脱がせようとするリタの行いに驚くも、やりやすいように隣に身を横たえてやる。上着を脱ぎ捨て、肌着をひらき、あらわになった胸元にリタは顔を寄せる。
「……あったかい」
またこぼれた涙が、胸元を伝うのを感じた。頬を擦りつけ、唇で触れ、たしかめるように口づけをくり返す。くすぐったい感覚に少し体の奥が疼き、もどかしくなる。けれどそれ以上に、満たされるような思いを感じる自分がいた。まるで、存在ごと愛されるような、すべてを肯定されたような気持ちになる。リタがくちづけるたび、ここから何もかも生まれ直して、誰でもない何かになっていくような心地がした。
胸元に顔を埋めたままのリタに腕を回し、服を脱がせていく。なめらかな背中を指先でたどると、吐息が漏れる。髪をかき分け耳から首筋にかけて口づけをくり返し、時折舌でなぞるように触れる。大きく息をついたリタの体を転がせて、組み敷く。濡れた瞳を見つめて、唇を合わせながら肌に触れていく。手のひらにおさまるほどのささやかな膨らみを覆うと、リタは顔をそむける。
「いや?」
リタはかすかに首を横に振る。
「ちがう、けど……」
「じゃあ、たくさん触れてもらったぶん、俺も」
薄い胸にはうっすらと肋骨が透けて見える。浮き出た骨をなぞり、頬を押し当てる。鼓動が響く。速い間隔に彼女も高ぶっているのだと息を吐く。指先で胸の先端を摘みながら、リタの表情を見つめる。
「あ、あっ……」
ダミュロンがひとつ触れるたび、頬を上気させて目を潤ませて感覚に震える。そんな姿を目にして、心の内に情欲と薄暗い興奮が湧き上がる。この顔を自分のほかに見た者はいるのだろうか。あどけない顔をして、もしかするとダミュロン以外の男もこんな風に誘い込んでいるのだろうか。もっと乱れて、暴かれて、どこにも行けなくなってしまえばいい。
(知りたい、全部)
なぜ泣いたのか。なぜ会いたくなかったと去ろうとしたのか。それなのに、なぜこうして体を許したのか。“初めて”になりたかったとあんな声で言ったのか。
(教えてくれよ、なあ)
それを口に出して問うことはできなかった。リタの肌に触れ、リタが声をあげるたび、少しでもそこに答えを見出そうとダミュロンは強く掻き抱き、唇を這わせた。
「熱いな、どこも」
「は……っ」
「ちゃんと、良くなってる」
「ああっ……!」
指を差し入れれば、つぷりと音が鳴る。ダミュロンは夢中で奥を探る。胸の先端を吸い上げ、唇を求め、頬にこぼれた涙を舐めとる。リタは身をよじりながら、時折熱に浮かされた瞳でダミュロンを見つめる。その眼差しが、甘い声が、自分に惚れているせいだと思い込めたらどんなに良いか。腕がするりと回されるたび、思い違いをしそうになる。この一夜に互いの運命と引き合ったという、甘美な虚構の物語に溺れたくなる。
(運命だなんて、安っぽい口説き文句みたいじゃないか)
分かっている。ダミュロンたちは持ち寄った嘘のなかに沈みながら体を重ねているだけだ。グラスに浮いた泡みたいなものだ。やがて弾けて消えてしまう。これまでもそうだった。夜をともに過ごす相手を求めてきたのはそういうことだ。
それなのに、ダミュロンはどうしようもなく貪欲になっていた。ただ横顔が凜として綺麗だと思ったくらいで、特別好みだと思ったわけでもないのに、湧き上がるこの衝動は酒のせいだろうか。それとも、彼女がこの街の人間ではなく、ダミュロン・アトマイスを知らない、何のしがらみもない女だからだろうか。
彼女のすべてが欲しい。唇も肌も吐息も声も眼差しも、心さえ。
「リタ、好きだ」
何のひねりもない、そんな言葉が口から飛び出るほどに。
「本当に、君が、好きなんだ」
勝手に口が動くのを止められない。ばかげた告白のような台詞ばかり出てくる。もっとほかに何か言いようはなかったのか。それすら考える余裕がなくなっていた。目の前の、リタの指先の一片までも自分のものにしたい。離したくない。帰したくない。こっちを見て、どこにもいない“俺”を求めてくれ――。
リタは、目を丸くしたあと、泣き出しそうに眉を下げる。そうして、ひとつ目尻から涙をこぼして、薄闇の中で開いた瞳が、ダミュロンを見つめた。わずかに幼さを残した丸く大きな瞳はすべてを見透かされそうな深みをたたえていて、ダミュロンは少しの畏れを抱いた。
するりと首に腕が回され、髪をくしゃりとかき乱された。まるで猫を撫でるような仕草だった。指に力がこもり、鼻先がふれそうなほど間近でダミュロンたちは見つめあった。
リタは、ふっとやわらかく微笑んで、
「ありがとう……ダミュロン」
そう言った。
なにもかも弾け飛んだように、体じゅうが満たされていくのを感じた。リタの体を力任せに掻き抱き、揺さぶりながら、唇を求めあう。足が腰に絡みついて、爪が背に立てられ、ダミュロンをさらなる深い熱へと誘い込んでいく。こんなに無我夢中で、溶けあうように抱きあったことなど今までになかった。何度誰の温もりを求めても、ほんの一瞬の甘美な快楽以外に、得られるものなどなかったのに。
(君は、誰なんだ)
こんなに深く繋がっているのに、彼女のことをダミュロンはまだ何も知らない。もっと教えてほしい、少しでも知りたいという思いのままに腰を打ちつける。どうか、彼女がこんなに乱れたさまを見せるのは、俺が初めてであってほしい――そんな浅ましい欲とともに体じゅうへ唇を落とす。
けれど、口づけの合間にリタが名を呼ぶたびに、ダミュロンの胸のうちはこれ以上なく満ちた。彼女が誰で自分が誰かもどうだってよくなる。もう何もいらないとさえ思えた。
不思議な感覚に体が震えた。ただの張りぼてのようだった自分の名が、初めて息をした気がした。脈をうち始め、産声をあげて、自分が紛れもない“ダミュロン”という生物であると信じられる気がした。
「リタ、リタ……好きだ……っ」
「ダミュロン……ダミュロン……」
リタは、ダミュロンと同じ言葉を返してはくれなかった。けれど、ダミュロンの名を呼ぶリタの声は、唇は、ダミュロンだけのものだ。それだけでいい。それだけで、みっともなく、泣きそうになる。
「なあ、リタ……俺を……」
その続きを口にすることはできなかった。困ったような顔をするリタの頬に触れ、声にならなかった言葉を流し込むように、唇をふさいだ。
そうして、深く果てる瞬間、互いの鼓動がひときわ大きく響いたような気がした。リタの指が、ダミュロンの汗ばんだ背をそっとなぞるのを感じた。その感触を、死ぬまで繰り返していたいと思った。
ダミュロンは、微睡みの中でかすかな声を聞いた。薄闇のなかで意識がゆっくりと引かれていく。
「……の修復は目処が立ったから……と思う」
リタの声だった。すぐ隣ではなく、寝台から少し離れた窓辺からごくわずかに聞こえる。
「……地点でマナの軌跡を辿れば……るわ」
全身が心地よい気怠さに包まれていて、まだ夢のうちにいるのかもしれないと思わされる。
「召喚の不手際で……のイレギュラーを……暴走の結果飛ばされ……と思う」
リタの話すことは専門用語らしきものが多く、ダミュロンには理解が難しかった。思考を整理するために独り言を呟いているのだろうか。
「大丈夫……ちゃんと、帰れるわ」
はっきりと聞こえたその言葉に、ダミュロンは身をこわばらせた。息を詰め、耳をそば立てる。
「帰って、今度こそ……見つけないと……手遅れになる前に……」
悲痛な、それでいて覚悟を込めた響きだった。ダミュロンは温い手のひらを強く握りこんで、窓とは反対側の闇に沈んだ壁を見つめた。腕の中にあったやわらかな熱の感触がまだ残っている。彼女がすがりつくように呼んだ名前の響きが胸のうちにからからと巡る。この一瞬が続けばどんなに良いだろうと思った。
誰かと夜を過ごすのは一時の快楽のためで、毎夜見てはすぐに忘れてしまう夢のようなものだ。それなのに、夢の淵でもうじき覚めつつあることに抗いたくなっている。彼女が愛おしくてここから帰したくなくて、胸が焼け焦げるようなこの思いは、ただの深い快楽の余韻なのだろうか。
(君はどこに帰って、何を探すんだ)
ダミュロンは目をつむって、ゆっくりと窓の側へ寝返りを打った。んん、と眠そうな声を出してみて、そっと目を開ける。窓辺にいたリタがこちらを振り向く。
「なんだ、もう起きてたのか……」
声をかけてみると、リタは手元に持っていた何かを懐にしまい込み寝台のほうに近寄ってきた。もうきちんと衣服を身につけている。
「ごめん、あたし、もう行かないといけない」
そう告げられて、ダミュロンは順当に寂しさを表情にあらわす。狭まった喉の苦しみをこらえながら。
「まだ夜も明けてないのに、送っていくよ」
「大丈夫、道はちゃんと分かってるから」
リタの言い方はけして冷たくはなかったが、こちらが何を言おうと無駄なのだろうと思わされる潔さがあった。それでもダミュロンは、言わずにはいられなかった。
「なあ、君のやること……探してるものがあるんだっけ? 何か少しでも手伝えないか? わりと暇を持て余してるし、この街ならそこそこ人脈も情報の伝もあるからさ」
ダミュロンは、善意の協力者の顔で言う。そんなものになりきれてはいないことを、彼女なら見抜くだろうと思いながら。
「ありがたい申し出だけど、この街は寄っただけで、また遠くまで行かなきゃいけないから。あんたは家のこともあるし、そんなに遠くまでは行けないんでしょ」
リタはダミュロンを諭すように話す。自分がただ駄々をこねているだけのような気持ちにさせられる。事実そうなのだろう。どこにでも行かれる彼女と共に行けるような存在ではないのだ。初めから分かっていた。
「どうとでもなるさ、それくらい……」
「いつか、もしかしたら、あんたも遠くに行くときが来るのかもしれないけど……それはあたしの役目じゃない」
ゆるく首を振って、リタはよく分からないことを口にする。
「でも俺は……もう、これで、会えないのか?」
もはやただの面倒な男だと気付きながらも、彼女がこのまま行ってしまうと思うとどうしても止められなかった。いつもなら、もっと長くいてと請われるのを上手くなだめる側なのに。
「……全部、これも、収束して消えてしまうのかもしれないけど……でも、もし、あたしにまた会いたいって思ってくれるなら」
リタは寝台に膝を乗せて、さらに近く寄ってくる。呆けたようにシーツの上で身を起こしたままのダミュロンに手を伸ばし、頬に触れる。
「生きて。何があっても、生きてて」
切実な願いを口にするかのように、リタはまっすぐにダミュロンを見つめる。
「その命をあきらめないで、ずっと持ってて、そしたら……また、きっと会えるわ」
なぜそんなことを言うのか理解できなかったが、この場をやり過ごすための言葉ではないと、どうしてかそう思わされた。彼女の表情は張りつめて、やさしく、真剣だった。
ダミュロンはゆっくりと頷いて、頬に触れる彼女の手に自分の手を重ねた。リタは口元を緩め、少し泣きそうに目を細めて、ダミュロンの背に腕を回した。髪から背を温かい手がそっと撫でていく。まるで、心から慈しむように、ダミュロン、と名を呼ぶ。一夜を過ごした、ただの行きずりの男に与える抱擁ではなかった。そんなものはすべて、自分の都合のよい思い込みであるほうがずっと幸せだと思った。
リタの体を抱き返しながら、ダミュロンはこのままみっともなく彼女の胸で泣いてしまいたいような気持ちに襲われた。これ以上見るに堪えない姿を見せることになろうとも、この体を離したくなかった。けれど、心地よい温もりに押し当てたダミュロンのまぶたから、涙の一滴も出ることはなかった。
風が吹き去るように、リタはダミュロンから離れ、静かに部屋をあとにした。気の利いた別れの言葉ひとつも言えなかった。ダミュロンの肌に触れるシーツはひやりと冷たく、もう彼女の温度を覚えてはいなかった。こうして、部屋に一人残される側になるのは初めてかもしれないと思った。
(こんな気持ちになるもんなんだな……)
重怠い体で脱ぎ捨てた衣服を拾い上げ、のろのろと身につける。肌着の合わせ目を留めようとして、胸元に指が当たる。リタに口付けられたあの感触と沸き立つような幸福の鮮烈さがよみがえる。
ダミュロンは自分の手のひらを当てて、まだ留まったままの熱を閉じこめるように呼吸した。少し速く、規則正しい鼓動を感じながら、彼女の唇が幾度もつむいだ声を胸のうちで繰り返した。それらは少しずつ、ただの音の連なりになっていく。
空が白もうとしていた。早く屋敷に帰らなければならない。ダミュロンは慌てて足早に部屋を出ていく。明け方の人気のない街路を駆けるころには、もう彼女の声がどんな色だったのか、上手く思い出せなくなっていた。