レイニー・ダンス

CoC『レプリカントの葬列』の自陣小説



2024-09-06
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 雨の日、イチはそわそわとどこか落ち着きがなくなる。落ち着きがないのはいつものことだが、掃除でもするみたいに部屋の中をうろうろとせわしなく行き来し始める。
 彼が雨の日を嫌っていることを調が知ったのは、つい最近の話だった。

「なにしてるの」
 深夜、物音で目を覚ます。起き出した調が声をかけると、イチはぎくりと肩を揺らす。
「あ、調ちゃん、えーっと……ここにガンコなホコリが……油汚れが……」
「見せて」
「いやいや、俺ちゃんが今からピカピカにするからさ、調ちゃんは寝といてよ」
 明かりもつけずに掃除を始めると言うイチを、調はじっと見つめる。
「明日一緒にやろう」
「やー、調ちゃんが起きたらもうなくなってるかもなあ」
「眠れないなら、ほかのことすればいい」
 調はキッチンに向かい、湯を沸かし始めた。この前、近所のカフェからもらった特製ココアの粉をカップに入れる。
「なんか飲むの? 俺ちゃんがやるよ」
「すぐできるから、そこにいて」
 調はやかんの口を見つめながら、背後のイチの気配にそっと息をつく。雨音が遠く近くざあざあと響く。
 彼は、うるさいくらいに口が回るのに肝心なことは何も話さない。雨が嫌いというのも、隠し事はないかと詰め寄った調にうっかりといった様子でこぼしたものだ。
 イチが自分を心配させないために、そうしているのは分かっている。けれど調は時々、今もこうして一緒に暮らしているのに、イチがとても遠くにいるような気がしてしまう。自分ばかり助けられて、彼に何もできていない、そんな焦燥感に駆られる。
「できた」
「あれ、俺ちゃんのぶんも用意してくれたの? 調ちゃんやっさしー! 泣いちゃうよ~」
 調はカップを持ったまま、窓際に歩み寄りぺたりと座り込んだ。雨に煙った、ぼんやりとした薄明るさが上方に浮かんでいる。イチは調の渡したカップを持ってしばらくうろうろとしていたが、迷ったように調の近くまでやってきた。
「そんなとこにいたら、お腹冷えちゃわない?」
「ココア飲んでるから大丈夫」
 心配そうなイチの顔を見上げる。心配しているのはこっちなのに、いつも先に心配されるのは調なのだ。
「イチ」
 名前を呼んで、じっと見つめたままでいると、イチは一瞬困ったような顔をして調の隣にしゃがみ込む。
「調ちゃんが眠れるまで、昔話でも披露しようか」
「どんな話なの」
「えーっと、あー……あるところに、おじいさんが……」
 焦った様子でしどろもどろになる。てっきり自分の話でも聞かせてくれるかと思ったのだが、期待して損をした。調は大きくため息をつく。
「……雨の日が嫌いな、元怪盗の話が聞きたい」
 沈黙が走る。静けさを雨の音だけが埋めていく。
「んー……その話は、レパートリーにないなあ」
「じゃあ、仕入れてきて」
「仕入れるって」
「聞きたいの」
 調が何を聞いても、答えが返らないときは返らない。だから、せめて知りたいと言い続けることしかできない。
「私も雨の日は好きじゃなかった」
 ココアをひと口飲んで、ヒビの入った窓枠の向こうを見ようとした。
「雨が降るたびに思い出した。なのに、だから……贋作師の名前を決めるとき、これしか思いつかなかったんだと思う」
「好きじゃないのに、名前にしたんだね」
「それ以外、なにもなかったから」
 空っぽの遠い雨の日、一人でうずくまって聞いた雨音、それらがこの薄暗い部屋にやってきて、湿った影のなかに溶け落ちていく。
「イチは、名前どうやって決めたの。記憶なかったんでしょう」
 視線をやると、目を見開いたあといつものウィンクを寄越してきた。
「カッコいいかなーと思ってさ、どう? 調ちゃんの名前のカワイさには負けるけど」
「そう、まあまあだと思う」
「うーん、想像通りクールな感想!」
 調は、すぐ隣にいるイチの気配と、壁向こうの雨音を重ね合わせる。知らないのなら、教えてもらえないのなら、想像することしかできない。
 思い立ち、テーブルの上のランプとスケッチブックを取って、調は鉛筆を走らせた。雨の中、きっと彷徨ってどことも知れない場所を歩いていた彼。調の手の代わりに雨垂れで穿たれた瞳で世界を見ていた彼。雨がすべてを覆い隠す中で、自分の空虚を埋めるものを探していた彼。
「調ちゃん、何描くの?」
 イチがわくわくといった様子でスケッチブックを覗きこんでくる。その瞳を間近でとらえる。今度こそ、調が描いた瞳がくるりとふたつ開かれている。何度ももらったウィンクも、太陽のようにまぶしくあたたかな笑顔も、願ったとおりにそこにある。夢の続きのように、この命がまだ生きていることを知らせるように。
「できた」
 鉛筆をすっと紙から離す。降りしきる雨の中でイチが楽しげに笑いながら踊っている、そんな絵だった。
「これ、俺ちゃん? すごいキレキレに踊ってるけど」
「そう、なんとなく」
「水も滴るいい男になっちゃうなあ、こういう俺ちゃんが好みなの? そっかあ~」
 なんだか納得したように頷いている。調は首をかしげながら、スケッチブックの絵を掲げ持つ。
「今は、私、自分の名前が好きだと思う。だから、イチにもそう思ってほしい」
「俺ちゃんは、自分の名前気に入ってるよ?」
「……名前の話じゃない」
「え、なんの話?」
 きょとんとした顔をするイチに、調はまた大きくため息をつく。けれど少しだけおかしな気持ちがこみ上げてきて、そっと笑みをこぼした。
「あ、そうだ、この絵ちょっと足りないものあると思うんだけど」
「なに?」
「俺ちゃん描いてみても……あ、でも調ちゃんの作品汚しちゃうし、やっぱりナシで」
「いいから、描いて」
 ずいとスケッチブックと鉛筆を眼前に差し出すと、イチはしぶしぶといった様子でそれらを手に取る。慣れない動作で、彼は絵の中で踊る自分のそばに何かを描き足していった。
「調ちゃんが描くの見てたら俺ちゃんにも! って思ったけど、やっぱりムズカシイね……調ちゃんはすごいねえ」
 調がスケッチブックをのぞくと、雨の中にはふたりがいた。イチの隣で、拙い線で描かれた調らしき人がぎこちなく手を上げている。
「俺ちゃんだけだと寂しいなーって思ってさ、あ、でも調ちゃんまでずぶ濡れになっちゃうなこれじゃ……いや~つい思いつきでやっちゃった」
 調はイチの描いた自分の絵を、輪郭を形取る線を指でなぞる。表情も動作もよくわからないが、絵の中の自分はなんだか楽しそうに見えた。こんなに楽しそうなイチの隣にいるのだから、きっと楽しいのだろう。
「これでいい。描いてくれて、ありがと」
 そう言うと、イチは居たたまれなさそうにそわそわとし始める。また落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「あー……急に夜釣りに行きたくなっちゃったなあ、ちょっと行って……」
「雨降ってるけど」
「雨の日しか釣れない魚もいるしさ!」
「じゃあ、私も行く」
 調は立ち上がり、上着を羽織る。イチは困惑したように首を振る。
「いやいや、こんな降ってんのに調ちゃん濡れちゃうよ?」
「あなたが釣ってるあいだ、私が傘をさせばいい」
「ナイスアイデア! さっすが調ちゃん! ……じゃなくってさあ」
「出かけるの? 出かけないの? どっち?」
 問いかけると、イチはむうとたっぷり悩んだあと観念したように頷いた。
「調ちゃんが出かけたいって言うなら」
「じゃ、行こ」
 イチの手を取って、扉へ向かう。何も持たずに、静かな夜へと足を踏み出す。
 雨の匂いが流れ込んでくる。雨が地面を打つ音が全身に響く。握ったイチの手がかすかに震えたような気がした。調はそれをしっかりと握りなおす。
「いくよ」
 それは曲のはじまりだ。楽器も歌もない中で、この身ふたつで演奏をはじめる。紡いだ音が遥か彼方まで響いて、自分たちは確かにここにいるとどこかに知らせられるように。







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