覚めない夢は測れない

CoC『辜月のN』自陣小説

エンディング後の後日譚です。


2026-07-31
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「じゃあお嬢、おやすみ」
「うん、ほんまありがとう、リック」
「ん」
 理玖は片手を軽く上げて、襖をぱたりと閉めた。
 和室の隅に腰を下ろし、寿々は長い息をつく。入院時に使っていた鞄を開き、床に出して整理を始めた。
 何もかも、いまだに現実味がなかった。けれど、目を開いた先の現実は止まることなく進んでいく。

 封鎖された京都から生き延びた自分たちのことは、一時期ニュースでも取り上げられたらしい。あの後はしばらく入院したり、さまざまな人と話したりしてとても目まぐるしかった。
 退院後、寿々は神戸にある理玖の実家に身を寄せることになった。約2年間行方不明だった理玖が帰ってきたことに、理玖の家族は本当に驚いたようだ。
 一緒に逃げ延びた寿々のことを、理玖は家族にいろいろと説明してくれたらしく、すんなりとその話は決まった。
 寿々も「そんなん悪いわ」と初めは拒んでいたのだが、理玖が「お嬢のこと、ほっとけないから」と譲らなかった。最後までこれでいいのかという思いはあったが、行く当てもなく先立つものもない寿々にとっては、この上なくありがたい提案でもあった。

 この和室が、当面の寿々の部屋となるようだ。ごく一般的な広さだが、綺麗に整えられている。きっと、自分のために理玖たちが改めて掃除してくれたのではと思った。
 あらかじめ敷かれていた布団にもぐりこみ、明かりを消して目をつむる。静かな夜だ。布団から香る匂いも、感触もなにもかも違うのに、あのとき理玖と眠った自宅の客間を思い出した。
 衝立の向こうから微かに聞こえる寝息に安堵して、明日への希望をたぐり寄せるように自分の体を抱きしめた。そこに理玖がいるのだから、何があっても大丈夫だと言い聞かせた。
 あの理玖との日々が、ここまで寿々の命をつないだ。今ここで自分の心臓が脈を打っていることが、いまだに現実なのか夢なのかわからなくなる。明日目が覚めたら自室にいて、大学に行く用意をして、講義棟に行ったら理玖と二条が座っていて――
 ふと、一人で眠っていることがさみしい、と感じた。実家暮らしだったとはいえ、部屋で一人で眠ることなんて慣れっこのはずなのに。
(ものさしが、ゆがんでいる)
 あのときの理玖の言葉が、薄闇の中に浮かぶ。眠りに落ちるまで、そのままずっと佇んでいた。




 目が覚めたら、誰もいなかった。
 瓦礫の中にうずくまっていた。ここがどこかかも分からない。
 たぶん、家に帰ろうとしていた。けれど、建物はどこもかしこも崩れていて、方角を見出すのも一苦労だった。
 走って、走って、足がもつれて、地面に放り出されるように転んだ。指先がぬるりとしたものに触れた。赤く、鮮やかなもの。
――ごめんな。
 ポケットからこぼれ落ちた端末に、メッセージが表示される。ただ謝罪の言葉だけが画面を埋め尽くしていく。
 瓦礫は足を捕らえ、もはや一歩も動けそうになかった。手足をばたばたと動かし、何かを叫んだ。誰かの名前に似た声が喉から迸った。
 道の先に、動く影が見えた。その影はゆっくりと近づき、こちらを捉えると目を丸くした。
「――――」




 見知らぬ部屋で、寿々はゆっくりと目を開ける。
 朝のうっすらとした光が障子の向こうから漏れ出ていた。起き上がり、光のほうに近づくと窓の外には当然のことながら見知らぬ街並みが広がっている。
「……ごめんな」
 気付けばそう口からこぼれていた。どうしようもなく泣きたくなった。けれどじわりと滲んだ涙がそれ以上零れることはなかった。とても穏やかな朝だけが、ここにあった。

 理玖の母が作ってくれた朝食は、目の覚めるような美味しさだった。寿々は張り切って食べようとしたのだが、全部を平らげることはできなかった。途中で理玖が止めたからだ。
「お嬢、もうお腹いっぱいでしょ」
「いや、そんなことないで? せっかくのこんな美味しいご飯……」
「あとでまた食べればいいよ」
 理玖の言葉に、食べかけの皿はさっと片付けられてしまった。美味しすぎてびっくりして、と言い訳のように謝る寿々に、理玖の母は微笑みを見せてくれた。


「リックのお母さまって、優しいな」
 隣を歩く理玖は首をかしげる。理玖の母に頼まれて、二人で買い物に来ていた。
「普通だと思うけど」
「朝も、うちがご飯残したのに気にせんといてって笑ってくれたし」
「無理に食べさせるほうが気悪いでしょ」
 寿々はばつの悪そうな顔でうつむく。
「美味しすぎて、胃がびっくりしたんかも。リックもお母さまに似て料理上手なんやな」
「そうでもないけどな……」
 話しながら、理玖は目当てのスーパーを寿々に向かって指し示す。こうして買い出しを寿々にも任せてくれるのも、理玖たちの気遣いだと分かっていた。
 カゴに次々と食材などを入れていく。理玖にとってはよく知っているスーパーのようで、先を進む理玖に寿々はカートを引いてついていく。
「お嬢、何が食べたい?」
 生鮮食品の棚の前で、理玖は振り返る。
「退院祝いで、好きなもの選んで」
「退院したんはリックも一緒やろ」
「俺はもうやったから」
 本当なのかよく分からない調子で淡々と言われる。
「お嬢、まだそんなに食べられないなら、なおさら食べられるもんじゃないとだし」
「いや、なんでも食べるで? 好き嫌いとか特にないし、そんな気遣わんでも大丈夫やって」
 顔の前で手を振って、理玖に笑いかける。けれど理玖はじっと寿々の顔を見るばかりだった。時折こうして、理玖は見定めるような眼差しを向けてくる。対象をつぶさに検めるように。
「……お嬢が、俺に言ったでしょ。ちゃんとしたもん食べんとあかん、って」
 それは、確かにかつて寿々が理玖に向けて言ったものだった。明らかにふらついている理玖を見て、お弁当の差し入れを提案したときのことだ。
「あんときのリック、今にも死にそうやった」
「お嬢のおかげで美味しいもの食べられて、元気になった」
 だから、と理玖は続ける。
「今度は、俺がお嬢にちゃんとしたもの食べさせる番」
 こちらの反応を待つように、理玖はひとときも目を逸らさない。寿々は唇をぎゅっと引き結んで、こぼれそうになった何かを呑み込んだ。
「うん……ありがとうな、リック」
「ん、で、何がいい?」
 寿々は少し悩んだあと、精肉売り場にカートごと移動する。
「あったかいお肉、食べたいかも」
「ちょっといいお肉な」
 予算と照らし合わせながら、目の前のパックを吟味する。理玖とあれこれ話しながら、カゴはみるみるうちにいっぱいになる。それはがらんどうのスーパーで、二人で買い物をしたあの日を思い起こさせた。
 こんな風に、二人で過ごせることがとても楽しかった。あのとき、すがるように願ったことは確かに正夢になったのだ。いま二人で過ごしている時間は、今度こそ夢幻でもなんでもない。
 それなのに、寿々にはどうしてか、今のほうがずっと夢の中のように感じられた。今見えているものが、瞬きひとつでぱっと消えてしまいそうな気がして、たまらなく怖くなった。
「お嬢? どうした?」
 気がつけば、買い物袋を持ったリックが顔を覗きこんでいた。
「……ううん、大丈夫! めっちゃ買ったなあー、お母さまびっくりしはらへんやろか」
「買い出し担当したのは俺たちなんだし、大丈夫でしょ」
 昼の街路を歩きながら、寿々は本当に心から楽しいというように笑った。いま感じている楽しさだとか嬉しさだとか、幸福の色をしているあたたかなものを体の外に出すように、めいっぱい明るい声で話した。
(ごめんな)
 心のどこかで誰かが言う。端末が震えるように、鼓動が脈打つように、誰も気に留めない石ころが転がるように。
(うちのものさしも、ゆがんでしもたんや)




 それから、穏やかな日々が続いた。厄介になってる分、と申し出てできる範囲で家事の手伝いもしながら、理玖と過ごす毎日が過ぎていった。まるでよくできた夢のように。
 そうして数週間が経った。

 部屋で荷物の整理をしていると、引き戸がトントン、と鳴る。返事をすると、盆を持った理玖が現れる。
「これ、差し入れ」
 湯呑みを机の上に置いてくれる。中身は温かいお茶のようで、ほかほかと湯気が立っている。
「ありがとう、お母さまが?」
 理玖はうなずいて、部屋の中に視線をやる。
「お嬢の部屋、片付いてるね」
 当たり前のように“お嬢の”と言われたことに、さまざまな思いが胸に込み上げる。
「いや、さっきまでけっこう散らかしてたんやけど、ちゃんと整理しなと思って」
「さすがお嬢」
「さすがって……」
 笑って、何か返そうとしたのに、あとの言葉がぷつりと途絶えてしまった。それでも、笑みは浮かべたままでいようとした。
「そろそろ……な、仕事とか住むとことか探そうと思うねん。このままいつまでも甘えるわけにいかへんし」
 寿々は湯呑みの中で揺れる茶に目を落としたまま、ひと息で言った。
「こんなに、めちゃめちゃお世話になってるぶん、早く、ちゃんと一人でなんとかできるように頑張るわ」
 湯呑みの中の薄茶色に、まるい電球の光と自分の笑顔が映る。そのまま、少しの沈黙が訪れた。
 なんだか気まずくなって顔を上げると、わずかに眉をひそめた理玖がこちらを見ていた。
「焦っても、いいことないよ」
「べつに、焦ってるわけちゃうけど……」
「この前退院したばっかりでしょ」
「この前って、もう何週間も経ったって」
「まだ本調子じゃない」
 寿々のことなのに、理玖はきっぱりと言い切ってくる。なぜか自分が我儘を言っているような気分にさせられて、居たたまれなくなる。
「なあ、リックはこれからどうするん? なんか考えてるん?」
 息を吸って、話題を変えようと切り出す。寿々の問いに、理玖はぱちりと瞬きをした。
「んー……、もともと考古学やれそうってあの大学選んだから、ちょっと考え中」
「他にもそういう大学あるかもやで」
「まあ、でもそういうのより、適当に働いてもいいかなって」
 理玖の声色には諦めが混じっていた。ずっと学ぶことにひたむきだった彼が、割り切るようにそう話すことに胸が詰まった。
 寿々だけでなく、理玖も多くのものを失った。むしろ寿々よりもずっと前から、得たかったものを失い続けていた。そしてそれはもう取り返しがつかない。
「リックには……考古学、諦めてほしくないな」
 気がつけば、そう口からこぼれていた。
「リックは、もう自由や。どこにでも行けるし、好きな人と話せるし、なんだってできる。あんな環境でもめっちゃ頑張ってたんやもん。絶対、すごい立派なひとになる」
 長い間、苦しんでいたことに気付けなかった。彼が何を考えて過ごしていたのか、すべてを知ることなどできないだろう。だから、せめて願いたかった。そんなことしかできなくても。
「そんな大したもんじゃない」
 いつか聞いた言葉と同じ響きで、理玖は首を横に振った。そして、けど、と続けた。
「お嬢も、自由やろ」
 ほとんどの荷物をまとめた寿々の鞄に目をやり、また視線を戻す。
「もしここに居づらいんなら、駅近くに二人用のアパートあったと思う」
「……二人用?」
 こともなげに、理玖はうなずく。
「こんなお嬢のこと、ほっとけないし」
 ここに住むことが決まったときと同じように、理玖はまっすぐに告げてくる。
「……なんで? うち、もう元気やで? ご飯かっていっぱい食べてるし、大丈夫やで」
 寿々が笑うと、理玖はまたあの見定めるような目で見つめてくる。今度は少し迷うように、悩むように揺れている。何を言うか言わまいか、考えているときの顔だ。
「親友を心配するのって、おかしいこと?」
 そうして、軽く首を傾ける。いつもの調子とほとんど変わりなく、理玖の表情は凪いだ水面のようだ。
(リックは、いつも)
 もどかしい思いが、次から次へと喉にこみ上げて苦しくなる。同時に、腹の底がじわりと温かくなる。寿々は口を開きかけては閉じ、膝の上でぎゅうと拳を作った。
「ううん……ありがとう、リック。今すぐってわけやなくて、もうちょっと、一つずつ考えるから……リックが親友で、ほんまよかったわ」
 寿々が微笑むと、理玖はほんの少し表情を緩めた。ん、とわずかに頷いて、空の湯呑みを回収する。
「じゃあ、おやすみお嬢」
「うん、おやすみ、リック」
 ぱたりと襖が閉まり、部屋にひとりになる。
 寿々は鞄の陰に隠していた書きかけの手紙を取り出し、手のひらの中でくしゃくしゃに丸めた。
(なあ、リックのものさしは、どうなった?)
 畳の目を指でなぞりながら、聞けなかった問いを繰り返す。
(夢から覚めて、目盛りは正しくなった?)
 答えを聞きたいのに、聞きたくない。ずっと我儘ばかり願っている。
 丸めた皺の寄った紙を広げる。一度歪んだらもう元には戻らないのかもしれない。歪んで壊れかけたものを紡ぎ合わせて、この覚めない夢を生きていかなければならない。
「ごめんな」
 膝を抱えて、顔を埋めた。そうして、堰を切ったように涙があふれた。あとからあとから溢れて止まらなかった。
 嗚咽を漏らしながら、母の、父の、弟の、親類の、友人たちの、二条の顔が目蓋の裏に浮かんでは消える。理玖の冷たくなった姿が、困ったような表情が、こちらを見つめる眼差しが、渦を巻いて闇に溶ける。
「ごめんな」
 京都を離れて、こんなに泣いたのは初めてのことだった。




「えーっと、履歴書と、ハンカチと……」
 寿々は鞄の中を探り、必要なものが揃っていることを確認する。今日は仕事の面接を受けにいく日だ。
「お嬢、これ」
 玄関先で靴を履いていると、後ろからにゅっと理玖の手が伸びてきた。
「これ、カイロ?」
「今日冷えるから、持ってったほうがいいよ」
「ん、ありがとう」
 受け取って鞄の中にしまっていると、なぜか理玖も靴を履こうとする。
「あれ、リックも出かけるん?」
「散歩と、買い出し」
 そうして一緒に家を出る。スーパーは確か逆方向のはずなのに、理玖は寿々と同じ方向についてくる。
「あれ、今日はこっちに用事あるん?」
「うん、こっちに用事」
 話していると、寿々の面接先に着いてしまった。少し困惑していると、理玖は立ち止まってひらりと手を振る。
「がんばって、お嬢。お嬢はおもしれー奴だから、一発採用されるよ」
 淡々とそう言うので、思わず笑い出してしまう。深呼吸をひとつして、こくりと頷く。
「面白い奴って思ってもらえるように、がんばるわ」
 寿々も手を振って、建物に入ろうとする。理玖はそのまま動かず、まだ同じところに立っている。
「リック」
 少し離れた場所から呼びかけると、ちょこんと首を傾ける。
「いってくるわ!」
 にっこりと笑ってみせる。自信に満ちあふれた笑顔を、理玖に見せたかった。
「いってらっしゃい、お嬢」
 理玖はやわらかな笑みで見送ってくれる。朝の陽射しが二人のあいだに眩しく降っていた。
(うちは、大丈夫)
 冬の風が吹き抜けていき、寿々は歩き出す。鞄の中のカイロを握りしめ、背筋を伸ばした。上手に歩けると示すように、大切な親友に恥じない自分であれるように。






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