久しぶりに開けた自宅の扉の向こうには、どこか重たく知らない匂いの空気がこもっていた。しばらくぼうっと立ち尽くしたあと、ようやく祈はそっと足を踏み入れた。
あの死闘からしばらくの入院期間を経て、ようやくの帰宅許可が下りた。2019年に時間転移をしてから、自宅に帰るのは初めてのことだった。
部屋には衣服や小物が雑然と散らばっており、家主がしばらく家を空けることなど少しも想定していなかったことが見てとれた。2021年にはもう破れて捨ててしまっていたシャツが、まだ綺麗なままで床に放られている。
(これは、触手でうっかり裂いちゃったやつかな)
衣服を手に取り、畳むことから始めた。つい先日まで2021年にいたのが夢のようで、けれどこちらが夢なのかもしれないとも思えた。
目が覚めたら、まだあの荒廃した世界にいるかもしれない。班長が自分の目覚めを心配そうに待っているかもしれない。
バタン、とクローゼットの扉を勢いよく閉めて、思考を打ち切った。息を深く吸って、吐いて、他の散らかった物たちの整理に取りかかる。
2年前の自分がどのように過ごしていたのか、おぼろげな記憶を辿ってみる。捜査一課に配属されるなど夢にも思っていなかった頃、惰性で仕事を続けていたようなところもあった。
遠くの物を取ろうとしたとき、棚の上に置いてあった籠に手が当たる。中身がバサバサと音を立てて床に落ちる。透明な袋に入った数々の薬のようだった。睡眠薬と精神安定剤だ。
処方された日付は、2019年9月と記されていた。それにしては袋の中身が多い、と感じたところでふと思い出す。少しずつ薬を余らせて、いざというときに大量に服用できるようにしていたのだ。
祈は袋をしばらく見つめたあと、ゴミ袋を取り出し乱雑に放り込んだ。すべて投げ込みきってから、それぞれの袋から一錠ずつ切り取って、引き出しの奥にしまい込んだ。
「……もしもし、私、いる?」
部屋の中央に腰を下ろし、どこともなく呼びかけてみる。静寂に満たされた室内に、外から低く遠いバイクの音が唸るように届く。
精神転移をすれば、元の肉体に宿っていた精神は基本的に消えてしまうらしい。ホワイトのときのような例外を除いては。
「ごめんね。突然、引っ越してきちゃって」
2019年の祈は、突然肉体を奪い取った自分のことをどう思っているだろう。戸惑っているか、追い出したがっているか、それとも諦めているだろうか。
耳をすませても、誰の声も聞こえることはない。けれどホワイトと一緒にいられたのなら、過去の自分もまだどこかにいるのでは、と思ってしまう。
「いきなり体ボロボロにしちゃったね、これからは気をつけるから」
一人で宙に語りかけながら、まだ節々の痛む手足をだらりと床に投げ出す。退院はしたものの、しばらくは安静を言い渡されていた。仕事に復帰し、新たな職場に足を運べるのはまだ少し先になるようだ。
祈は鞄からスマートフォンを取り出し、連絡先の欄をたどる。登録されている数はさほど多くない。その中から、よく見知った名前を見つける。この端末から連絡を取った形跡はさほどないようだった。
気がつくと、祈はその名前に指を触れさせていた。
「おう、祈……! ほんとに祈じゃねえか!」
「久しぶり辰巳くん。ほんとにって、違う奴来るって思ってたの?」
待ち合わせに現れた蛇原辰巳は、祈のよく知る辰巳とは多少異なる雰囲気をまとっていた。体感時間、先日顔を合わせた彼よりも、警察学校にいた頃の彼を彷彿とさせた。
「いやいや、突然連絡来たからマジびっくりして。なんで急に?」
「そうだね、なんか……昔を懐かしんでたら、辰巳くんのこと思い出してさ。会いたいなって」
「そりゃ嬉しいな! 俺もさ、警察学校いたときはヤなこともけっこうあったけどさ、過ぎ去ってみればいい思い出だったなーって感じだよな」
そうして警察学校の思い出話でひとしきり盛り上がる。食事をとる店に向かい、席についたところで辰巳がふと祈の顔をまじまじと見てきた。
「なんか……祈、前会ったときと雰囲気変わったな?」
不思議そうに首を傾げたり縦に振ったりする辰巳を見て、祈は微笑む。
「しばらく会ってないうちに、いろいろあってさ。辰巳くんもいろいろあったんじゃない?」
「俺はそんな特になんもねぇ毎日だよ。んー、しいて言えば、妹が最近ちょっと冷たくなったくらいだな……」
眉を下げて笑いながら、彼は嬉しそうに妹の話を始める。一瞬祈の表情から笑みが引っこみ、ああそうか、とまた口元を緩める。
「妹さん、元気そうでよかった」
「いやもう元気元気! 祈のほうこそ、いろいろってなんだよ? 聞かせろよ」
辰巳は興味津々というようにテーブルの向こうから身を乗り出してくる。
「実は……捜査一課に引き抜かれることになっちゃってさ」
「えええええ!? マジで!?」
店じゅうに響くような大声を出すので、一瞬周囲の視線を集めてしまう。二人がぺこぺこと頭を下げると、すぐに元の喧騒が戻る。
「悪い悪い……いやでもなんでそんなことに?」
「何をどっから話せばいいかわかんないんだけど……」
祈は、連続刺殺事件の犯人確保に協力したこと、しばらく入院していたこと、そこで捜査一課所属の足沢班の面々に会ったことなどをかいつまんで話した。
「すげー……すげーじゃん……いつの間にそんな大物になってたんだよ」
「大物って、まあ、たまたまその辺にいただけだよ……でも、なんとか確保できてよかった」
「いや俺もうかうかしてらんねえな……最近腑抜けてたけど、俺も昇進目指していっちょ気合い入れるか」
「辰巳くんも捜査一課来る?」
「来る? っつってそんな簡単に行けねえだろ! いや、俺がめちゃくちゃ頑張ってすぐに行ってやるからな」
悔しそうで、けれど楽しそうな辰巳を見て、祈は安心する。彼に会いたいと思ったのは、かつての祈にとって近しい人間の一人だったからだ。辰巳があの滅びた世界で最後に何をしていたのかは定かでない。けれど、祈が旅立つと知ったならきっと班長と同じように「会いに来い」と言う気がする、と思った。
「一人で犯人確保とかさ、会ってない間にすげー訓練とかしてた? 俺も鍛え直したいからさ、なんか秘訣とか教えてくれよ」
秘訣なんて、と言いかけたところで、祈は一度口を閉ざす。グラスの中身をあおり、ぐにゃりと曲がった机の模様を見つめる。
「すごく……尊敬できる人に出会えたんだ」
脳裏にその姿が鮮やかに描かれる。ずっと見つめていた背中も横顔も煙草の匂いも、まだはっきりと思い出せる。
「私が失敗しても、とんでもないことやらかしても、優しく見守ってくれた。何があっても逃げずに、ずっと立ち続けてた、ヒーローみたいな人」
胸が焼け焦げそうなほどに願った。彼の隣に立ち続けていられたらと。
「その人みたいになれたらって、その人を助けられるようになりたいってずっと思ってたから……ちょっとは変われた、のかな」
「そんなすげー奴いるんだな……目標とか憧れがあるとさ、よけいに頑張れる気するよな」
目を輝かせた辰巳はさらに尋ねてくる。
「それって同じ警察の奴? 祈の知り合いってことだよな、俺も気になるし会いたいな」
祈は言葉を返そうとして、詰まった。この時代で出会えた足沢夏也は、まもなく上司になるであろう彼は、部下思いで皆に慕われる素敵な班長だ。祈が辰巳を紹介したとしても、ひとまず邪険にされるようなことはないだろう。
けれど、祈と辰巳のいたあの足沢班はもう存在しない。足沢班で一緒に過ごした“足沢夏也”も“蛇原辰巳”もここにはいない。一緒に乗り越えた事件も、取り返しのつかない傷も、今は祈の記憶の中だけにある。
部下を亡くし人を手にかけ苦悩していた班長も、妹を亡くして復讐を誓った辰巳も、運命が変わったこの時間には存在しない。大切な人が何も憂いなく笑って生きている。それは嬉しくて、とても幸せなことだ。
それなのに、祈は唐突に寂しさが心の奥底から押し寄せてくるのを感じた。喉が詰まって、どうしようもなく悲しくて、苦しくなる。
――寂しいな。
最後に時空の彼方から届いた班長の声が、耳に蘇る。
「祈!? お、おいどうした!?」
焦る辰巳の声にはっとして、うつむいていた顔を上げる。頬を伝う涙の感触に、慌てて手の甲を当てる。
「あー……ごめん、飲みすぎちゃったかなあ……いろいろ思い出して感極まっちゃってさ、ごめんね、大丈夫だから」
「急にぼろぼろ泣き出すからさ、ビビったわ……祈って突然そういうビックリさせるとこあるよな、ある意味そこは変わってなくて安心した」
辰巳は励ますように声をかけながら、心配そうに席に備え付けられたペーパーナプキンを渡してくる。
「まあ、無理すんな、なんかあったら言えよ? 友達だろ」
辰巳は力強くそう言うと、祈の肩を叩く。受け取ったペーパーナプキンで涙を拭い、辰巳に向かって頷いた。
「うん、いい友達がいて……私、幸せ者だ」
そうだろ? と得意げに笑ってみせる辰巳につられ、祈もまた笑い出す。久しぶりの辰巳との時間は楽しく、瞬く間に過ぎていった。
辰巳と別れ、帰路についた祈は夜道をぼんやりと歩いていた。お酒や食事をこんな風に楽しんだのは、本当に久しぶりのことだった。少しふわふわとした気分と、さまざまな思いが頭をめぐる。
辰巳に会えてよかったと、安堵が胸を満たす。この世界でも、辰巳は祈のことを友達と呼んでくれた。それだけで嬉しかった。
(私は、この時間の新しい私として生きていくんだ)
あの頃の祈は、辰巳と積極的に連絡を取ろうとはしなかった。彼はいつも明るく接してくれたが、祈のほうはどこかで無理をしているところがあった。友達と呼ばれることが少し怖かった。
今の祈は、心から辰巳と友達でいたいと思っている。過去に傷つけ、一緒に事件に立ち向かったからこそ、これからも縁を繋いでいたかった。こうやって、元の自分はだんだんと薄れていくのかもしれないと思った。
立ち寄ったコンビニエンスストアで、入り用のものをカゴに入れる。レジに向かったとき、店員の背後にある煙草の銘柄一覧が目に入った。見慣れた一つの銘柄に目が吸い寄せられる。
祈はとっさに、その銘柄を店員に告げていた。班長が好んでいたものと、同じ銘柄だった。
家に帰りつき、買ってきたものを片付ける。ひと段落つき、祈は煙草の箱をつかんでベランダへ向かった。
煙草はほとんど吸ったことがなかったが、一度死んで体が変異してから吸い始めた。味覚を失った体でも、味がなんとなく分かる気がしたからだ。
ライターで火をつけ、いつもしていたように吸い込むと、途端に咳き込んでしまう。何度も咳を繰り返して、思わず顔をしかめてしまう。
(そういえば、ご飯食べられるようになってから吸ってなかったな……)
人間の祈の体には、やはり合わないということなのだろうか。なんだか悔しくてもう一度口をつけてみるが、同じことの繰り返しだった。
ただ煙が立ちのぼるだけの煙草を夜風にかざし、祈は欄干に腕を乗せてもたれた。
風に吹かれていく煙に、班長の横顔が重なる。いつもそばで見ていた、どこか遠くて、届きたかったもの。祈を見て優しげにふっと笑う表情が、好きだった。
班長との記憶が、いくつもいくつも夜の中に浮かんで折り重なっていく。一緒にいた時間は一年足らずだったのに、祈の記憶の多くにその姿がある。他愛もない会話も、一緒に見たものもすべてが大事だと思えた。
もしかすると、ホワイト――班長が時間を遡っていたことで、祈が認識しているより多くの時間を一緒に過ごしているのかもしれない。いったい何度、祈の死を見せたのだろう。何度、途方もない時間を彷徨ったのだろう。
祈はかたく握った拳を胸に当て、息を長く長く吐いた。胸にわき起こる痛みは、煙のように風にさらわれてはくれない。
(班長も、こんな気持ちでいますか?)
荒れた世界を一人歩く班長の姿を思い浮かべる。誰もいなくなった世界で、祈に希望を託した彼のことを覚えているのは、もう自分しかいない。祈が忘れてしまったら、あの世界の班長は本当に一人きりになってしまう。そう思えた。
祈は燃え尽きかけた煙草を空き缶に入れると、部屋に戻り引き出しを漁り始めた。くしゃりと端の折れたチラシやレシートの奥から、未使用のノートが出てきた。自分でいつか買ったのか、貰い物だったのか、よく覚えていない。
夢中でノートを開いて、紙にペンを走らせる。忘れたくない。覚えている。その思いだけで、祈は言葉を書き連ねた。
書けば書くほどに、班長の姿が鮮明になっていく気がした。目の前に、班長の歩く影が浮かぶようだった。同時に、その姿をもうこの目で見ることはないのだと思い知らされていく気がした。
ペン先に、雫がぽたりと落ちた。じわりと滲んだ文字を、あわててティッシュで押さえる。
「寂しいですね、班長」
それでも、祈はここに至る決意をした。守るべき約束を交わした。だから、最後までできることをしたかった。それがただの自己満足で、馬鹿げた祈りの言葉や仕草のようでも。
亡くなった兄に宛てた手紙を書いていた紫音は、自分の手紙は届かないと言っていた。でも紫音の手紙は、宛先こそ違ったかもしれないが祈に届いた。だから、いつか、どこかにこの思いが伝わるかもしれない。
祈はペンを置いて、書いた手紙に微笑みかけてみせた。遥か彼方の世界でこれを読む班長の姿を思い描いた。きっと班長も、笑ってくれるような気がした。
班長、そちらの世界はどうですか?
寒かったり、どこか痛かったりしませんか?
私は怪我もだいぶ良くなって、なんだか捜査一課への配属が決まってしまいました。近いうちに、こちらの世界の班長と働けることになりそうです。ちゃんと会いに行くって約束は果たしたので、安心してくださいね。
辰巳くんとも会いました。とても元気そうでした。班長の部下のみんなも、みんな幸せに笑っています。班長と守った世界は、これからも私が守ります。
班長は、何をしていますか?
言っていた通り、世界を眺めて過ごしていますか?
何か、暇をつぶせるものは見つかりましたか?
せめて、班長の好きな煙草が残っていたらいいなと思います。
班長、一人にしてしまってごめんなさい。
班長は「何言ってんだ」ってきっと言うと思うけれど、本当はそんな場所に一人置いていきたくなかったです。
できるならば、私も班長と一緒に世界の最後を見届けたかったです。班長が寂しくないように、話し相手になりたかったです。
私がもうひとりいたら、残していけたのに。悔しいです。
班長のこと、私はずっと覚えています。
今そこで世界を見つめている班長が、歩き続けていることを、私だけはずっと知っています。
だから、班長はひとりじゃないです。
この手紙が届いて、ちょっとした暇つぶしになればいいなと思います。
班長、私は、
班長、
班長、
また、書きますね。
射しこむ朝の光に、目を覚ます。
祈はゆっくりと頭を持ち上げる。硬い机に突っ伏していたようで、少し首が痛む。どうやら、昨日手紙を書いたあとそのまま眠ってしまっていたようだった。
腕の下敷きになっていたノートはじわりとあたたかい。かろうじて閉じてから眠りに落ちたらしい。
開くと、祈が昨日書き連ねた文字が並んでいる。時間を置いて読み返すと少し気恥ずかしい。
「こんなんじゃ、暇つぶしにもならないかなあ……」
ふっと笑って、祈はノートを机の上に置いて立ち上がる。今日は紫音が家に来てくれるらしい。会いに行くと言ったのだが、まだ安静中なのでダメ、と彼女は断固譲らなかった。
一応見舞いということらしいが、何かこちらも茶菓子でも用意しておくべきだろうか。もう少し部屋を掃除しておいたほうがいいだろうか。
悩みながら祈はカーテンを開き、窓を開ける。ぶわりと吹き込んだ風が、祈の髪を巻き上げ、部屋の中に流れ込む。
風が机の上のノートを開き、ばらばらとページをひとりでにめくっていく。紙の擦れる音が響き、ぱたりとノートはあるページで開かれたまま床に落ちた。
祈はそれを拾い上げ、胸にぎゅうと抱きしめた。その背を、秋晴れのやさしい陽射しがあたたかく照らしていた。