ふたりで夜を呑んで

野営中の夜、森で話すリタとレイヴンの話です。2019年12月に書いたものです。

この小説を元にした漫画です→ こちら


2023-07-01
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 指先がかすかに見えるくらいの暗闇を進む。木々のあいだから差す月明かりを頼りに、テントからの方角を判断する。変な夢を見て目が覚めて、じっとしていられず、勢いで寝床を飛び出してきた。姿のない怪物に食われそうになる夢だった。揺らめいた影が大きな口を開けて、いまにも呑み込まれそうだったのを鮮明に思い出せる。
――あのまま二度寝してればよかったのに、なんで……。
 リタは自分の行動を後悔していた。足を進めるたび、食われそうになったときと同じくらいの恐怖がじわじわと体を蝕んでいくようだった。けれど、何もあてがないわけではなかった。このまま進めば、夕方に水浴びをした川縁にたどり着くはずだった。
 夜闇の向こうで、かすかに何か動く気配がした。体がこわばる。目の前にあった木の幹に身を隠し、そっとその方向をうかがい、目を凝らす。
「天上にましますあなたは……」
 低い声が聞こえた。言葉に節がついていて、どこか歌のようにも聞こえた。
「二重の悲しみを持つものに……」
 リタは息をひそめて、その歌をじっと聞いていた。なぜかそうしていなければならない気がした。川のせせらぎと響いて、どこか神々しさをはらんでさえいた。
「……どーう? おっさんの美声」
 歌が途切れ、調子の変わった声が空気を破る。
「あ、あんた……気づいてたの」
「途中から、なんとなく」
「気づいてたなら、なんか言いなさいよ……!」
 川のそばの大きな石に腰かけていたレイヴンに、ずんずんと歩み寄る。さっきまで近寄りがたい雰囲気をまとっていた男は、へらっとこちらに笑いかける。
「こんな夜に、散歩? よくここまで来れたねえ」
「べつに、そういう気分だっただけ……おっさんこそ、こんなとこまでフラフラ、何しにきたのよ」
「いや、ちょっとね」
 レイヴンはそこでしばらく黙りこんだ。不自然に訪れた沈黙のあいだに、リタも石の上に腰かける。暗く青い光を含んだ水がさらさらと流れていた。そっと、隣に座る男の顔を見やる。かすかな月光に、静かな表情が浮かび上がる。どこか遠くに投げかけられた視線。どうしてか、胸が苦しくなって、目をそむけた。締めつけられた胸のうちが、震えて暴れだす。
「リタっちも、なんか良くない夢でも見たんでしょ」
「……も?」
「そーそー、“も”」
 いつものような軽い口調なのに、響きが違っていた。
「あたしは……別にそんなんじゃない、ちょっと……じっとしてられなくなっただけ」
「リタっち怖がりだからなあ」
「だ、誰が怖がりよ! そんなんじゃ……」
「あ、リタっちの後ろにゆらっと亡霊……」
「きゃあああああ!?」
 思わず目をつむって身をすくめる。脳裏に夢に見た光景が過ぎる。けれど、何も起きなかった。いや、何かが起きていた。いつのまにか、二本の腕に、胸の中に、抱きとめられていた。
「え……」
「ごめん、嘘」
 状況をのみこむうちに、顔に熱が集まり、体全体が心臓になり代わったかのようにどくどくと脈打つ。
「俺が、もし霊だったら、どうする?」
 突然の問いかけの意味がわからなかった。ばくばくと鳴る鼓動がおさまらない。
「燃やして、退治して、成仏させてくれる?」
 さっきは遠くに投げかけられていた視線が、まっすぐにリタを貫いていた。それは問いかけではないのだと気づいた。けれどささいなことだった。頬につめたい指が這って、深い水の底のような瞳が迫り、切なげに細められる。リタも手を伸ばした。その頬に触れて、指先で撫ぜた。じわりと温もりが宿る。
「……そんなこと、してやらない」
 さらに手を伸ばして、髪に触れた。ひんやりとかたく、力をこめればかすかに温かい。つめたい指が髪に差し入れられ、わずかな震えが伝わる。そっと目を閉じた。鼓動で騒がしい夜の闇に、ひとつの熱が灯った。
――よかった。
 熱が流れ込むたび、夜は鳴った。何もこわくなかった。驚くほどに心が凪いでいた。もう、帰りはまたあの暗闇を、一人で通らなくていいのだと。




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