体が二つに裂かれるような痛みのなかで、最初に浮かんだのはあのひとの顔だった。どんな表情をしているのか、目をこらして見ようとした。けれど視界はかすんでいて、はっきりとしない。ただそこにいることは分かった。
(なにか言いにきたの)
表情のわからないままただそこに立っているさまは、あたしに何かを伝えようとしているようにも見えた。そう思うと、微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも思えた。空気がゆらめくたびに、表情もくるくると変わる。
(そんな顔もできたんだ)
もっと近くで見たかった。言いたいことがたくさんあった。けれど体に力が入らない。あともう少し時間が動けば、地面か何かに叩きつけられてあたしの意識は終わるのだろう。全身に走る痛みにすべて呑み込まれてしまったらどうなるのだろう。どうして数瞬がこんなに長く感じられるのだろう。いろいろなことを考えながら、目だけはしっかり見開こうと歯を食いしばった。
「……り」
唇が動いたような気がした。誰かの名前に似ていた。誰かの名前を呼んだのか。それとも全然ちがう言葉だったのか。知らなければいけないような気がした。
「小鳥」
はっきりと聞こえた。聞き間違いかと思った。自分が都合よく解釈したのかとも思った。けれど確かに聞こえた。それはあたしの名前だった。
全身が熱くて痛かった。もうなにも見えなかった。灰色の絵の具で塗りつぶされたかのように、そこにいた姿はかき消えていた。動かない手足を必死に伸ばそうとした。もがいて暴れる力もないのに、がむしゃらに目の前のもやを払おうとした。無我夢中でそうした。
(待って、まだ)
いろいろなあのひとの顔が浮かんで消えていく。いつか見たもの、見たかどうかわからないもの、見覚えのないはずのものまで、すべてかき集めようと手足をばたつかせた。ひとつひとつ手に取って確かめたかった。その手触りや温度や色を知りたかった。知りたい、触れたい、考えるよりも先に願いは内からあふれ出て灰色の世界を突き破っていく。けれどあのひとの姿は影すら少しも見えない。
まぶしい光を見た。色のわからない光はなにを意味しているのかも分からず、ただ辺りに満ちていく。目がくらんで思わずまぶたを閉じそうになってしまう。閉じてしまったらそこで終わりだと思った。もう二度とあのひとを見つけることはできないと思った。指先すらもう動かなくなって、意識が溶けそうで、それでもあたしは必死に叫んだ。全身の力を振りしぼって声にした。
呼んだ。
あのひとの名前を。
1
とつぜん耳元で電子音が鳴り響いて、跳ねるように起き上がる。普段はなんてことのない気の抜けるような音なのに、寝起きに鳴らされるとオーバーに驚いてしまうことがある。頭がぼんやりとしていた。夢を見ていた途中で起こされたようなもどかしい感覚があった。よろよろと手に取った携帯電話の画面には『瑚太朗くん』の文字がある。
「ふぁい、もしもし……」
「もしもし小鳥? まさか今起きた?」
スピーカーから明るい声が飛び込んでくる。
「まさかもなにも……瑚太朗くんが起こした」
「おお、小鳥よ……残酷な真実を告げることを許しておくれ……」
「そ、それは……いったい」
「登校時刻まであと三十分だ」
「おわーっ」
ベッドから飛び出して、時計を確かめる。本当だった。携帯電話の日付も平日だった。
「瑚太朗くん先行ってていいよ、あたし今から準備するから」
「いや、待ってるよ」
「でも……」
「俺が先に行ったら小鳥さん安心してゆっくりして遅刻コースの未来が見える。待ってたら焦って準備できてちゃんと間に合う」
「うむむ、一理ある」
「なんなら準備終わるまで電話つないどいても」
ハンガーにかけられた制服に伸ばした手がぴたりと止まる。
「……おぬし、まさか着替えを」
「の、のぞくなどそのようなことは! これ音声通話! 物理的に不可能!」
「しかし音はばっちり聞こえる」
「いやいや音だけなんてそんな確かに衣擦れの音っていったらちょっとハワワって心をくすぐるものがあるけど俺は断じてそのような……おーい、もしもし? 小鳥さーん?」
電話を切って、机のそばにあった鞄の中に入れる。手早く制服に着替えて、鞄と一緒に階段を駆け下りる。洗面所でつめたい水をすくって顔を洗いながら、鏡に映った自分をぼうっと見た。まだ寝起きの顔をしている。しゃっきりしない。
瑚太朗くんは家が隣で、小さい頃からの幼なじみだ。お互いの両親も仲がよい。あたしと瑚太朗くんは昔から仲良く遊んでいたわけではなかった。さっきの電話みたいな会話をするようになったのもつい最近だった。昔はあんなに明るい声なんて絶対に出さなかった。
「いってきまーす」
扉を開けると、瑚太朗くんは律儀に家の前でぴしっと立っていた。
「おまたせ、出迎えご苦労である」
「はっ、神戸隊長のお戻りをお待ちしておりました」
「んじゃ、ダッシュだね」
「あと十五分!」
朝の住宅街を抜けて街路を駆けていく。まだしゃっきりとしない頭も、風に吹かれているうちにだんだんと晴れてくる。
「小鳥、宿題やったか?」
「たぶん」
「たぶんって」
「もらったプリントはやったと思うよ」
「では折り入ってお願いが」
「ことわる」
「なんと」
「おのれでせいいっぱい努力する、だいじ」
起こしてやったのに、とちょっと泣きそうな声が聞こえるが、そのまま先に横断歩道をわたりはじめる。他にも早足で歩く学生が次々とあたしたちを追い抜かしていく。
「でもなんかお礼とかあるなら、考えてもいい」
瑚太朗くんの顔がみるみる明るくなる。たたっと走ってきて隣に並ぶ。
「小鳥さんのご命令ならなんなりと、あ、小遣いの残りはそんなにない」
「金品の要求はならぬと申すか」
「そこはご容赦!」
そんな風になんでもないことを話しながら、また走り出す。校門まであと少し、ぎりぎりチャイムが鳴るまでには間に合いそうだった。そびえ立つ大きな校舎を見上げる。瑚太朗くんと風祭学院に通い始めて、もう二年と少しになる。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、一気に教室の空気はほどける。机の上のものを鞄にいろいろ詰めていると、後ろから声をかけられる。
「小鳥、部活行こうぜ」
「おっけーだよ」
あたしは瑚太朗くんと同じ部活に入っている。たいてい放課後はいつも一緒に部室へ行く。部室は校舎の端にあるので教室からは少し遠いのだが、階段をのぼるたび喧噪から遠ざかっていくのはちょっとだけ非日常のはじまりという感じがして好きだった。といっても、非日常らしい特別な活動があるわけでもない。休日に時々みんなで少し遠くに出かけるくらいだ。
「ちわーっす」
「こんにちはー」
扉を開けると、いち学校の部室とは思えぬ快適空間が広がっている。壁一面の本棚、立派なソファ、変わった形の機械もいくつか置いてあるが、それには触ったことはない。そして奥の大きな机の向こうで、長い髪の女子がカップアイスを食べている。
「あわわ、もうおやつタイムが始まってる……」
「会長、机に足乗せんのはやめたほうが」
あたしたちの言葉にハッとばつの悪そうな顔をして、椅子ごとくるりと後ろを向く。朱音さんはこの部活――オカルト研究会の会長だ。会長だけあっていつも部室にいる。どうやら学校にいるときは隙を見てこの部屋に入り浸っているようだ。
「い、いいじゃない、誰にも迷惑かけてるわけじゃないのだし」
「ま、それはそうなんですけど……」
「あなたたちが来たせいで、バニラの味が変質してしまったわ」
ぶつぶつと言いながら椅子の陰に隠れてまた食べ始める。そんなとこにいないで出てきてくださいよー、とふたりで声をかけていると、複数人の気配が扉の向こうからやってくる。
「はー、掃除当番のせいで遅くなっちゃいましたー」
「私が手伝いにいけばもっと早く来られた」
「静流も当番だったんじゃないのか?」
三人の女子がバタバタと部室に入ってくる。ちーちゃんと、それからルチア――クラスでのまじめな働きぶりに最近は委員長と呼んでいる――はあたしや瑚太朗くんのクラスメイトで、しーちゃんは一つ年下の後輩だ。めいめいに荷物を置いてソファに腰を下ろす。背の高めなちーちゃんと委員長に挟まれるとひときわ小さく見えるしーちゃんが、鼻をすんすんと鳴らす。
「なんか、甘いにおいがする」
「あ、ほんとですねー」
「会長がアイス食ってるから」
瑚太朗くんを一発叩いて、朱音さんが慌ててごそごそと食べかけのアイスを小さな冷凍庫に放り込む。そしてなにごともなかったかのようにくるりと椅子ごと向き直る。
「あら、みんな来ていたのね」
「そんな平然と……」
「わたしもおやつ食べたいですー」
「同感だ」
「わ、私は……」
「ルチアもさっきお腹が鳴っていた」
「ちょ、ちょっと静流!」
部室にはいろいろなお菓子のストックがある。みんなで持ち寄ったものや貰い物が中心だが、たまに朱音さんが仕入れてくる見たことのない変わったお菓子も混じっている。それからポットやら茶葉やらもあるので、いっしょにお茶も淹れられる。
「はい、みんなのぶんできたよ」
一番ポットの近くに座っていたあたしがなんとなく淹れることになった。
「小鳥、ありがとうございますーいい香りですねえ」
「あれ? 俺のぶんは?」
「ごめんよ、トレイに乗らなかったからまだポットのとこに置いてる」
「おお……いやいいよ、自分で運ぶよ」
「瑚太朗も働いてください」
「お前らだって座ってるだけだろー!」
皿にクッキーを開けると、さっそくみんな手を伸ばしてぱくつく。授業に出るのはたくさんエネルギーを使うしお腹は減るというものだ。
「みんな、菓子食ってばっかじゃなくてそろそろネタ探ししないと、ブログが更新できない」
瑚太朗くんがノートパソコンを膝の上に乗せて開く。
「ブログ更新しないと活動履歴も認められないし、部員勧誘もできないしねえ」
「そう、その通りだ小鳥……これは我が部にとって重要な問題だ」
「何かアテはあるのかしら?」
朱音さんはどこからか別の菓子袋を持ってきて開けている。
「やっぱり、ここは風祭七不思議を取り上げるべきだと思うんですよ」
「なんだそれは……風祭にそんなものがあったのか?」
「委員長はあんまネットとか見ないかもだが、けっこうちょくちょく話題になってるし、これらを少しずつでも調査してブログに上げていけば知名度アップにつながる。そして勧誘もできる」
「あたしゃ今の感じの部活が好きだけどねえ」
ここにいきなり新しい人が来るとなると、ちょっと身構えてしまう。
「まあ俺もそれは同感だけど、次世代につなげていくには必要なことだと思うんだ、俺らの代で終わるのはちょい悲しい」
「次世代につなぐ……胸にしみる言葉だ」
「わかってくれるか静流」
「それに、七不思議もちょっとおもしろそうだ」
「でも天王寺、どこから手をつけるんだ?」
「そこは、ちゃんと調べをつけてる」
委員長の言葉を受けて、瑚太朗くんがパソコンにカタカタと何か打ち込む。画面に映し出された資料をもとに調査計画をみんなに話しはじめる。成り行きで入った部活だったが、瑚太朗くんはとても精力的にいろいろとやっている。
「前みたいに、お菓子持っていってもいいんですよね?」
「もちろん、食糧は重要だ」
「わーい」
「会長はどう思います? こんな感じで進めても」
「べつにいいんじゃない」
「適当!」
わいわいと、ネタの調査について話し合う。次の休日はみんなで出かけることになった。各自持ち物をそれぞれメモ帳に書き込む。きっとみんな一行目にそれぞれ持っていきたいお菓子を書いているに違いなかった。
夕方、宿題のお礼ということで瑚太朗くんに買い物へ付き合ってもらった。日用品や前から欲しかった小物などを予算の範囲内で買った。
「俺、ついてってるだけじゃん」
「それがお礼」
「なさけねえ……せめてあの鉢植えくらいプレゼント……」
「今月ピンチなんでしょ? 無理しちゃいけないよ」
「でもなんか……」
「じゃあ、お家まで荷物持ってくれる?」
瑚太朗くんに袋をふたつ渡す。どちらも小さく軽いものしか入っていないので、瑚太朗くんはなおも不満そうだ。店をでて、夕陽のさしはじめた帰り道を歩く。途中で公園のそばを通ったとき、めずらしい色の車が停まっているのが見えた。
「あれ、クレープ屋さんだよ」
「寄ってく?」
「わわ、足が勝手に~」
ふらふらと歩き出す後ろを瑚太朗くんが笑いながらついてくる。移動型のクレープ屋はときどきこの公園にやってくる。瑚太朗くんはいきいきと財布を出してきたがことわって各自で払った。あたしはストロベリークリームを、瑚太朗くんはチョコバナナを選んだ。
「あまーい、至福の味がするよー」
「脳がとろける……」
公園のベンチに腰かけてクレープにかじりつく。部室で食べたお菓子と合わせるとカロリーなるものの存在が頭をよぎるが、この至福の前ではすべてどうでもよくなる。
「クレープ自体もうまいが、こうやって広々とした場所でのんびり食べてるという相乗効果もある気がする」
「わかる気がする」
「どこで誰と食べるかって大事だよな」
涼しい風がふわりと吹き抜ける。ふいに、足元にボールがコロコロと転がってきた。向こうのほうから小さな男の子が走ってくる。三人でボール遊びをしていたみたいだ。
「投げるから、受け取れよー」
瑚太朗くんが大きな声で呼びかけて、片手でぽーんとボールを男の子たちのほうへ投げる。わーっと声があがり、みんなでボールを追いかけていく。
「元気だなー」
「よきことだ」
遊ぶ子どもたちを眺めながら、クレープの包み紙をピリピリとやぶいた。芝生に落ちたボールを拾って、投げて受け取って、追いかけて、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。夕陽のなかで、その光景はとてもきらきらと輝いて見えた。
夕食のあと、ちょっとだけ宿題をやって、部屋でぼんやりと過ごしていた。放課後いろいろ食べてしまったせいでお腹が苦しかった。うーんと伸びをして、机のそばにある本棚に目をやる。瑚太朗くんから借りた漫画が端に立てかけてある。先週なんとなく借りてみたのだが、何かと忙しくて読んでいなかった。
手に取って、ベッドにうつ伏せになる。ストーリーは主人公が行く先々で困難に出会いながら強くなっていく、王道のバトルものだった。そうした戦いの中で仲間の一人と惹かれあっていく恋愛要素もところどころにあって、なかなか想いを口にできない二人がもどかしく面白く描かれている。
(世界がすごいことになってて生命の危機なのに、余裕あるなあ)
二人の恋愛がメインで描かれた回を読むと、そんな感想を抱いてしまう。もたもたしている間に世界が滅びないかちょっと心配になってくる。けれどどうしようもない状況にあって、切羽詰まっているからこそ一緒にいたいと思うのかもしれない。誰かがそばにいることはそれだけで心強い。淋しくない。
携帯電話を取って、なんとなく瑚太朗くんにかけてみる。数回のコール音のあと、陽気な声が話し始める。
「もしもし小鳥? こんな時間にどうした?」
時計は九時を回っていた。
「あ、瑚太朗くん、えっとね、何か用ってわけじゃないんだけど……えっとあれだ、借りてた漫画読んでて、おもしろかったから、いち早く伝えよっかなって」
「お、小鳥が読んでも面白かったか? いやーあれ、他のバトル漫画とは一風違って奥深くて、特にあのシーンは……」
どの話が好きとか、好きなキャラクターとか、漫画の感想大会で盛り上がる。あたしの好みとは少し違ったが、瑚太朗くん一押しのシーンの話を聞くのは面白かった。あたしが印象に残ったシーンを話すと、そこか! とちょっと意外そうだった。
「はー、よかったよ、小鳥に気に入ってもらえて」
漫画の中でも特に思い入れがあるもののようで、ちょっとほっとした声で息をつく。
「そいえば、オカ研の調査行くのっていつだっけ」
「あさっての予定だけど、明日のうちにもっかい計画見直しとかないとな」
カレンダーを見る。明後日は土曜日だ。
「瑚太朗くん、いきいきしてる」
「そうかな」
電話の向こうで照れくさそうに笑った。
「いろんなもの、見たくてさ」
そう話す瑚太朗くんの声が、急に大人びて聞こえた。
「見聞を広めるっていうか、視野を広げるっていうか、自分の知らない世界を知りたいって思うのは人間の性だろ? そんで、知るためには行動しなくちゃなって思って」
恥ずかしさをごまかすように、終わりのほうは少しだけ早口になっていた。
「瑚太朗くん、すごいよ」
「いや、なんとなくやってるだけだし、すごかないって」
あたしが同じところで立ち止まっているうちに、瑚太朗くんはいつの間にかどんどん先へ歩き出している。
「あたしも見聞、広めたいねえ」
「広めようぜ、そのためにまず、あさっての調査で何か成果が得られればいいんだが」
「がんばろ、できる範囲で」
それからまた少しだけ他愛ない話をして、電話は終わった。ずっと携帯電話を握りしめていた手が少しだけ熱かった。
いろいろあった一日を振り返りながら、その夜は妙にふわふわとした気分で眠りについた。すぐに眠れそうなのに、なんだかそわそわとしてしまってなかなか眠れなかった。
土曜日は朝から薄曇りだった。完璧な調査日和とはいかなかったが、学院前にメンバーが集まったところでさっそく今日の段取りを話し合った。段取りとは言っても、ただちょっと遠くまで歩いていくだけだ。瑚太朗くんが今回目星をつけたのは、街はずれにある廃墟らしい。
「幽霊を見たっていう根強い噂があるんですよ」
「天王寺……そんなものを本気で狙いにいくつもりなの?」
「いや俺もホントに幽霊に会えるとは思ってないですけど、噂の出所くらいは確かめられるんじゃないかって」
廃墟はずいぶん昔に放置された由緒ある屋敷のようで、今は風祭市の管轄になっている。瑚太朗くんは調査のためにわざわざ役所まで行ってきたらしい。屋敷はじきに取り壊される予定だったそうで、熱心な交渉のもと、課外活動のためならと特例で許可が下りたらしい。
「俺、ちょっと大人になれた気がするよ……」
「すごい、コタロー」
「はっはっは」
はりきる瑚太朗くんを先頭に、あたしたちは廃墟までの道をてくてく歩いた。休憩のときに食べる予定のお菓子を見せ合ったり、はたして幽霊は本当にいるのか各自の適当な考えを話したり、そんなことをしているうちに目的地に到着した。
「まさか、ここ……?」
高い木と塀の向こうに、大きな屋敷が見えた。薄曇りということもあって、とても不気味な雰囲気を漂わせている。
「こんなところにぞろぞろ入っちゃってもいいんですか?」
「そのための許可だ」
「許可を取っているならひとまずのところ安心だが、少しためらわれるな」
普段はそれぞれ度胸のすわっているオカ研のメンバーも、少し怖気付くような不思議な威容が屋敷にはあった。荒れた庭を進むたび、だんだん空が暗くなっていくような気がする。おそらく気のせいだけれど。
「よ、いしょっと」
瑚太朗くんが懐から鍵を取り出し、見るからに重たそうな扉をゆっくり開ける。ぎぃっと開いた扉からひんやりした空気を感じる。
「中はけっこう綺麗ですねえ」
ちーちゃんがのんびりと辺りを見回す。確かに、入ってみるとちょっと古びたおしゃれな洋館といった感じだ。玄関扉から正面を見上げたところに大きな窓があり、そこへ階段が左右からつながってさらに上へ行けるようになっている。曇っているとはいえ外の光がぼんやりと入ってきて、少しだけ幻想的な光景に見えた。ところどころホコリは溜まっているが、外観ほどボロボロに朽ち果てているというわけではない。
「さて、どこから始めるの?」
「そっすね、幽霊の目撃情報はもっぱら庭と二階か三階が多いみたいです、茂みのところに座り込んでたとか、窓のところにぼんやりと誰か立ってたとか」
「市の職員さんとかそういう可能性もあるよね」
「ああ、小鳥の言う通り、それは俺も考えた……けど庭ならまだしも、窓からの目撃情報もけっこうあるのが気になる。役所で話聞いた限り、職員が中に入ったのは最近らしいし、しかも二回だけ」
「その二回をたまたま複数の人が目撃した、というほうが現実的じゃないか?」
「いや、ネットを辿ったところ幽霊の噂の初出は五年前なんだ」
「私たちが入学するずっと前だ」
「なるほどー」
「ということで整合性が取れない。なのでわざわざこうして来たってわけだ……ってさっそく菓子ぱりぽり食うな! 行くぞ!」
ちーちゃんとしーちゃんは残念そうにそれぞれクッキーとせんべいをしまう。目撃情報を確かめに、まず二階へ向かう。こんなに広い踊り場のある階段が家の中にあることに驚きながら、一段一段のぼっていく。階段をのぼりきると長い廊下が左右に伸びていて、たくさんの扉が並んでいた。
「さすがに広いねえ……」
「一個一個手分けして部屋を見ていく……のもありだが、万が一何かに遭遇したときに危険だな」
「何に遭遇するというの」
「いや、幽霊とか」
「そうなったときは、私がみんなを守る」
えっへんと頼もしく胸を反らすしーちゃんに、眉をひそめていた朱音さんが首を振る。
「二手に分かれるくらいなら平気じゃないか?」
「そうだな、組分けはどうする?」
戦力バランスの考慮から、瑚太朗くん、ちーちゃん、委員長の組と、朱音さん、しーちゃん、あたしの組に分かれることになった。なんの戦力なのかは分からないが。
「とりあえず、近くの部屋から順番に見ていって、突き当たりまで行ったら戻ってきてここで再集合しよう。何かお宝を見つけた場合はよほどのものじゃない限り持って帰って大丈夫だ」
「りょうかいだ」
「こんな屋敷に宝なんてあるのかしら」
「何かあった場合は携帯で、そうもいかない場合は廊下で大声出したらさすがに聞こえると思うし」
「瑚太朗くん、気をつけてね」
「ああ、小鳥のほうもな」
三人は右側の廊下を歩いていく。あたしたちは左側の担当だ。
「えっと……じゃああの部屋から見ていこっか」
「らじゃー」
「ふう、わかったわ」
なぜかあたしが二人を先導して、まず一つ目の部屋に向かう。部屋の中はがらんとしていて何も置かれていなかった。中に入ってみても、とくに変わったところは見られない。
「人がいなくなったときに、中のものも運び出したってことかな」
「そう考えるのが自然ね、とすると他の部屋も同じようなものかもしれないわ」
朱音さんの言う通り、二つ目に見た部屋も、三つ目の部屋も、その次の部屋も、何もない部屋だった。物も隠れる場所も、ましてや何かの気配なんてどこにもない。
「見てくれ、これ」
しーちゃんが何かを発見したらしく、緊迫した面持ちでクローゼットのほうへ呼ばれる。
「ハリネズミの貯金箱だ」
両手に持たれたそれは、つるんとした陶器でできていて小さくかわいらしい。
「ふつう貯金箱っていったらブタさんだけど、めずらしいねえ、かわいい」
「中身は?」
軽く振ってみせる。何の音もしない。
「空っぽだ」
「はあ、つまらないわ」
朱音さんがため息をつく。しーちゃんは貯金箱を気に入ったようで持っていくかどうか悩んだ末、窓際に置いていった。
「いいの? たぶん捨てられちゃうものだよ?」
「うん、あいつはここにきっといたがっている」
置き去りにされたハリネズミのほうを振り返る。ぼんやりとした光の中で、はじめから備え付けられていた置物のように静かにたたずんでいた。
階段のところに戻ってみると、すぐ近くの扉の前でちーちゃんと委員長が何か言い合っていた。
「もー、知りません! 」
「なんでそんな風に言われなきゃいけないんだ」
「そっちがあんなこと言うからじゃないですかー!」
「私は私の意見を述べただけだ、なのにそんな……」
「ちょっとちょっと、どしたの?」
なにやら険悪なムードに割って入る。この二人はちょっとしたことですぐ喧嘩するが、その代わり仲直りもすぐだ。喧嘩するほど仲が良い、というやつだ。
「小鳥! 聞いてください! ルチアったらぽておのザラメしょうゆ味は食べられないって言うんですよ、こんなにジャリジャリしてておいしいのに」
「わ、私は……ジャリジャリしたのより、サラサラしてるほうが好きだって言いたかっただけだ、しょうゆ味を貶めるつもりはまったくなかった」
「そう、なんです? じゃあコンソメ味なら食べられるんです?」
「そうだな、サラサラしてるなら」
「それならそうと早く言ってください、今出しますから」
「あ、あはは……もう仲直り」
いつもこんな調子なので予想はついていた。後ろで朱音さんが盛大にため息をつき、しーちゃんは微笑みながら見守っている。
「……えーっと、ところで瑚太朗くんは?」
「あ、瑚太朗なら向こうのほうの部屋でいろいろ物色してるみたいです、時間かかりすぎたら小鳥たちが戻ってきたときに困るだろうから先に戻っとけって」
「物色って、お宝?」
「いや、そんなたいそうなものには見えなかったが」
何か瑚太朗くんのロマン心を惹き付けるものが見つかったのだろうか。
「この部屋に古いけどソファがあったんです、座って待ってましょう」
ちーちゃんと委員長が立っていたすぐそこの部屋は、あたしたちが見た部屋とおなじにがらんとしていたが、立派なソファが一つだけ置かれていた。五人でめいめいに座って、荷物の中からお菓子を取り出す。それぞれのお菓子を交換し終えたところで、扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。
「悪い待たせた! ……ってあれ?」
瑚太朗くんの声が聞こえるが、扉は開かない。ガチャガチャと音を立てて開けようとしているみたいだが、変な閉め方をしてしまったのか動かないようだ。
「ちょっと待って、こっちから開けてみる」
あたしが一番近いところに座っていたので、立ち上がってこちらからドアノブを引っ張ってみる。音が鳴るだけでいっこうに開かない。
「ど、どうしよ……」
「みんなで体当たりしますか?」
「いや、それはまずい、役所の人に怒られる」
「でも取り壊されるのよね? ちょっとくらい壊れたところで構わないのじゃない」
「……壊すのは最終手段で。何か使えそうな道具がないかちょっと探してきます」
たたた、と瑚太朗くんの足音が遠ざかっていく。階段を下りて一階に行ったのだろうか。
「瑚太朗くん、一人で大丈夫かな……」
思わず声に出してつぶやいていた。ぱっと振り向くと、みんなが何か言いたげな表情でこちらを見ていた。
「小鳥は本当に瑚太朗が好きなんですねえ」
「へ? いやいやいや、好きって」
首をぶんぶん振るも、ちーちゃんはにこにこ笑っている。
「動揺している」
「実際のところ、どうなんだ? 進展具合は」
「いいんちょーまで何言い出すの! あたしと瑚太朗くんは進展とかそういうのじゃなくて……」
「もう行きつくところまで行っている、と」
「会長ー!」
みんなに好き放題からかわれて居たたまれない。あたしと瑚太朗くんはただの幼なじみで、クラスメイトで、一緒の部活で、それだけだ。外から見て、それ以上のものがあるように見えるのだろうか。
「瑚太朗も、小鳥のことは特別大事って感じしますもんねえ」
「コタローの目を見ればわかる」
「気心が知れているというだけでなく、深いつながりを感じる」
「そうね、もうさっさとどうにかしてくれないと、見てるこっちが変にやきもきするのよ」
あたしはもはや何も言い返せなくなって、身を縮めてうつむいてしまう。顔がかあっと熱い。みんなからあたしたち二人はそんな風に見えているのかと、いろいろ複雑な気持ちが湧き起こってくる。胸の奥がざわざわ騒いで、ざらざらと鳴る。その奥からひょこっと小さく顔を出している感情があった。
(期待……?)
瑚太朗くんと過ごした時間、交わした言葉、向けられた表情がぶわりとよみがえる。どれも宝物のようにきらめいている。あたしにとってかけがえのないものだと思える。それがみんなの言うように、たとえば、恋や愛と呼べるような特別で深い好意なのだろうか。
「おーいみんな! 一階で工具セット見つけてきたから、これからなんとかしてみる!」
息を切らした瑚太朗くんの声がとつぜん聞こえてあたしは飛び上がるほど驚いてしまった。みんなのあたたかな視線が痛い。瑚太朗くんがドアノブを取り外すことで扉をたわませて、なんとか脱出することができた。
「はー、なんとかなった……ってやっぱり菓子パーティー!」
「あなたも今から加わる?」
「いや、あんまりのんびりしてると遅くなるんで……三階行きましょう」
おとなしくお菓子を片付けて、再出発の準備をする。みんなにからかわれたせいでまだ心臓がどきどき音を立てていたし、お菓子を味わうどころではなかった。
「あれ、小鳥顔赤くないか? 大丈夫か?」
瑚太朗くんに心配そうにのぞき込まれて、すごい勢いで飛び退いてしまった。
「だ、だいじょうぶ! なんでもない、ちょっともらったお菓子が辛くって……」
「なんだ……飲み物残ってるか? なくなったなら俺まだ予備あるし……」
「いやいやいいって! さ、さ、次いこ」
瑚太朗くんの飲み物を、と想像しただけでまたバクバクと心臓が鳴りはじめる。こんなことで動揺するなんてどうかしている。みんなに変なことを言われたせいで、今日のあたしは少しおかしいみたいだ。
三階に上がると、おおむね二階と同じような長い廊下があった。また二手に分かれて見ていくかという話になったとき、ガタンとどこかの部屋で物音がした。
「なんだ、どこから聞こえた?」
「あっちの方向から聞こえたかもしれない」
瑚太朗くんが辺りを見回していると、しーちゃんが右側の廊下のほうを指さす。
「ここにきてお目当ての登場かしら」
できるだけ足音を忍ばせながら、物音がしたらしい部屋へと近づく。何かが動いたような音は最初の一回だけで、扉の前に来るとひゅうひゅうと不思議な音が鳴っていた。
「この音……風?」
「もしかしたら、窓が開いているのか」
「それ、誰かが開けたってこと?」
「……物音はしないな、俺が先頭で踏み込むから、みんなはバックアップを頼む」
三秒カウントダウンを口にして、瑚太朗くんが扉を開ける。あたしたちはその背後から部屋の中をのぞき込む。予想通り、部屋の窓は少しだけ開いていて、白いカーテンがぱたぱたとはためいていた。他の部屋にはカーテンなんてなかったのに、ここだけついていた。部屋の中は大きな四角いクローゼットと、空っぽの本棚と、古びた書斎机が置いてあった。
「誰も……いませんね」
「気配も感じられない」
「まだ部屋の中に潜んでるかもしれないから、慎重に調べていこう」
瑚太朗くんが机の周辺をぐるぐる調べはじめた。いきなり部屋の陰から何かが飛び出してきたらうまく対処できる自信はないが、六人もいるからきっと大丈夫だろうと不安を押し込める。窓のほうへそろりそろりと近づいてみる。すると外側の壁に何かが垂れ下がっているのを見つけた。少しだけ身を乗り出してのぞき込んでみる。
「小鳥! あぶないですよ」
「ごめんごめん、あれ何かなあと思って」
「ん? なんだ」
やってきたちーちゃんと委員長にも見てもらう。
「あれは……梯子か?」
「下まで続いてるように見えますねえ」
「窓枠に引っ掛けるタイプ、ということは……玄関を通らずにここまで来られるってことだよね」
三人で顔を見合わせる。少しだけ背筋が寒くなる。
「どうした? 何か分かったか?」
瑚太朗くんがこちらに来たので、他のメンバーにも梯子を見てもらう。
「……となると、怪しいのはあのクローゼットの中か?」
「え、あそこに隠れてるの」
「他のものは全部調べたが、この部屋で身を隠せそうなのはもうあそこしかない」
みんなでクローゼットを取り囲むように少しずつじりじりと近づく。瑚太朗くんがいよいよ開けようと手を伸ばしたとき、窓からびゅうっと強い風が吹きこんできた。バタン! と大きな音を立てて部屋の扉が閉まり、思わず身をすくめた。
「な、なんか、さっき聞いた音に似てない?」
「幽霊の正体は風、と」
「いやいやいや! まだ決まってませんから! 開けますよ!」
瑚太朗くんがやけになってクローゼットの扉を勢いよく開ける。中には人、ましてや幽霊なんて隠れていなかった。一着の服もしまわれていない。ただ、大きな箱があるだけだった。
「よかった……誰も隠れてなくて」
「だとしたら犯人はどこに行ってしまったんだ……」
「初めから人なんていなくて、たまたま開いていた扉が風で閉まったタイミングに私たちが居合わせただけね」
「会長の言った通りだったというわけか」
「そうだったんですねえ、緊張しちゃいました」
緊張を解いたみんなを見て、瑚太朗くんはむむ、とまだ納得できていない様子だ。
「まだだ、もしかしたらこの箱の中に隠れてるかもしれない」
「こんな小さな箱に人が入るものか?」
「高能力ならあるいは……」
「もしかしたら入ってるのはお宝とかかも、小銭とか」
「ああ、小銭だったときはお前に全部やるよ……」
金具をはずして、ゆっくりと開けられる。中にあったのは、人でもお宝でもなかった。
「なんだろこれ、手紙?」
「封筒がいっぱい入ってますねえ」
「ここまで来たら、中身確かめないわけにいかないぞ」
封筒の一つを開けて、中から数枚の紙を取り出す。それは綺麗に折り畳まれた便箋で、誰かに宛てられた手紙のようだった。
『あなたは今頃、どうしていらっしゃるでしょうか。わたしは家を出てからいろいろなことがありましたが、なんとかその日の糧を得て暮らしております。あなたがこの空の下でお元気でいらっしゃるかどうか、そのことだけが気がかりでいます』
他にも、ここにある手紙は〝あなた〟と呼ばれる人へ綴られているものばかりだった。宛名はないが、いくつか読んでいると同じ人に宛てられたものだと分かった。手紙を書いた〝わたし〟は、かつて〝あなた〟と一緒に過ごしていたが、離ればなれになって会えなくなり、消息もわからなくなってしまったらしい。その消息を絶った〝あなた〟への想いが、手紙のすべてにあった。
「このお屋敷に住んでたひとが、書いたのかな」
「そうかもしれない……俺の予想だけど、この部屋が思い出の場所かなんかで、あの梯子を使ってここに来て、手紙を書いてたのかも」
「つじつまは合うけど、元の住人なら鍵を借りてくればよかったんじゃないの? わざわざ梯子なんて使ってよじ登ってこなくたって」
「……たぶん、誰にも知られたくなかったんじゃないんでしょうか、その人を想ってる時間のこと」
あたしは書斎机に座っている誰かのことを思い浮かべた。離ればなれになり、どこにいるのか分からない人のことを想いつづけるのは、どんなに苦しいだろう。新しい生活の中でもどうしても忘れられず、思い出をなぞるためにここへ通い続けずにはいられなかった。
手紙は、つい最近に書かれたと思われるものもあった。
『この家が取り壊されることに決まりました。もうわたしがこの手紙を書くのもこれが最後になるでしょう。あなたがいつでも来られるように、窓は開けたままでおきます。願わくばそのときにこの手紙を……』
手紙の最後は、インクで塗りつぶされていた。
「手紙を見つけてください、って書きたかったんですよね?」
「でも……書けなかったのでしょうね」
朱音さんがぽつりつぶやく。滲んだ黒いインクの跡はもう乾ききっていたが、偶然インクをこぼしたわけではなく、確かに自分の意思で塗りつぶしたのだと見てとることができた。
「なんだか切ないな……」
「ルチア、泣いてる?」
「な、泣いてないぞ」
「でも、私もせつなくなった」
さっきまでは正体不明の侵入者に対する警戒モードだったのに、手紙を読んだことでみんなすっかりしんみりしてしまっていた。
「……ということで、幽霊の正体は元住人の不法侵入者と」
「うわー! 丸一日使ったけどそんなの記事にできねー! オカルトどこいったー!」
瑚太朗くんの苦悩の叫びが屋敷中に響きわたった。
朝昼は曇っていた空も夕方には少しだけ晴れて、帰り道は夕暮れをながめながら歩くことができた。みんなとは途中の交差点で別れて、瑚太朗くんと二人で家路を行く。
「あー……疲れたけど記事にできそうな成果はナシ、か……」
「おつかれさま」
「まあ、ある程度こういう展開になることも予想できてたし、また次のネタに期待だな」
「立ち直りはやい、すごい」
幽霊の正体を一応記事にしてみる案も出た。けれど、大切な人の思い出を勝手に書き立てるわけにはいかないと、今回は没になった。
「手紙……届けてやりたかったな」
「でも、どこの誰かわかんないんじゃ、どうしようもないね」
瑚太朗くんは部屋を出る最後まで、手紙を持ち帰って、宛先を突き止めて送ってやりたいと言っていた。しかし見つかる可能性が低いのなら、ここに置いておいたままのほうがいいと、そうした結論になった。
「出せなかったなら、出さなくてもよかったんだよ」
「ん……でも、やっぱり役所の人に言うだけ言ってみようかな、書いた元住人の身元だけなら辿れるかもしれないし……個人情報だからムズいかな」
「瑚太朗くんはやさしいね」
そう言うと、とても複雑そうな顔で首を振った。
「そういうんじゃなくてさ、あんだけ必死に書かれたものなんだから届けてやりたいっていう、俺の我がままみたいなもんだよ。あんなに大事に想ってるのに、それがちっとも相手には伝わってないなんて、悔しいだろ」
「でもそうやって考えてあげるのが、すてきだよ」
「いや……いろいろ考えるのはさ、自分のことしか考えてないからだよ」
瑚太朗くんは神妙な顔で言葉を切って、少し経って意を決したように口を開いた。
「今だって、小鳥にどうやったら伝わるか必死に考えてる」
隣に歩いていた影がふと立ち止まる。振り返ると、瑚太朗くんの真剣な目があたしをとらえていた。じっと見つめられて、縫いとめられたように動けなくなる。鼓動がとくとくと速まっていく。手が震える。ふいにぱっと腕を引かれた。痛くはなかったが、力強いぬくもりだった。すると、手のひらの上に何か置かれる。
「これ、やるよ」
「ちっちゃくてかわいいね……オルゴール?」
「屋敷物色してるときに隠し棚のなかにあるの見つけたんだ、なんとなく、小鳥にあげたくて」
小さな箱には不思議な紋様が刻まれていて、かざすと色とりどりにきらめく。
「ありがと、なんかもらっちゃって悪いな」
速まったままの鼓動をごまかすように笑う。瑚太朗くんはまだあたしをじっと見ている。何を言おうとしているのか、その先を聞くのが怖かった。
「いつか言おうって思ってたら、チャンスが来たときにしようって思ってたら、いつ言えなくなるかわからないから……小鳥」
いつの間に、彼はこんなにやさしい眼差しを向けてくれるようになったのだろう。
「好きだ」
全身が心臓になったかのように鼓動がうるさい。どんな顔をしているのかもわからない。ただ起こったことを、告げられた言葉を理解するので精一杯だった。
(あたしを?)
胸の奥から熱いものがあふれだして、こみ上げてくる。じわり、じわりとしみていくあたたかさが心地よくてくすぐったい。
(嬉しい、って思ってる?)
いつも一緒にいるときの楽しさをぎゅっと集めて、まぶしい陽に透かしたようなきらめきが満ちていく。瑚太朗くんは黙ったままのあたしを見て少し不安げな顔をしている。何か言わなければと思った。けれどこういうときに何を言ったらいいのかなにもわからなかった。
「返事とか、そういうのはすぐじゃなくて……っていうかいつでもいいから、俺が伝えたかっただけだし」
「うん……」
やっと声が出せたと思ったら、蚊の鳴くような返答しか出なかった。
「えっと、じゃ、俺、ちょっとあっち寄ってから帰るな、またな」
「うん、また……」
また明日、と言おうとして、明日は確か日曜日だったことに気づいた。日曜日も電話したり会いに行ったりするなんて、それこそ本当に付き合ってるみたいだ、と思っているうちに、瑚太朗くんの背中が遠ざかっていく。もう一度振り向いて、手を振ってくれる。ぼうっとしたまま、小さく振り返す。
起こったことがまだ信じられずに、あたしは道の端っこに立ち尽くしていた。家々の屋根のあいだに沈んでいく夕陽が見える。その柔らかな光が、ゆらゆらと揺れていた。
その日はなにも手につかなかった。疲れもあって、早々にベッドへもぐりこむことにした。けれど眠れるわけもなかった。ずっと瑚太朗くんの顔が頭から離れなかった。告げられた言葉を何回も繰り返していた。
(あたしを、好き……)
思い出すたびに、恥ずかしくて枕にぎゅっと顔をうずめてしまう。ごろごろと何回寝返りを打ってもそわそわと落ち着かない感覚はおさまらない。
ずっと一緒にいた。いろんな時間を過ごしてきた。けれど今日、あのタイミングであんな風に言われるとは思ってもみなかった。認めるのはくすぐったいけれど、嬉しかった。幼なじみでいつも自分と一緒にいてくれたひとが、かけがえのない大切なひとが、あたしを好きだと言ってくれた。嬉しくないはずがなかった。今すぐ駆け出してしまいたいくらい、心はふわふわとしていた。
けれど同時に、言いようのない不安が波のように打ち寄せて、また引いて、時折胸のうちをざわつかせていた。いろいろなことが起こりすぎて、とても疲れているのかもしれない。
瑚太朗くんからもらったオルゴールを枕元で鳴らしてみる。懐かしく、どこかで聞いたことがある旋律。隠されていたものなのにもらってしまってよかったのか。本当は今この音色を聞いているのはあたしではなかったのかもしれないと、そんなことを考えながらいつの間にか目を閉じていた。
しばらく少しだけ眠っていたみたいだった。浅い眠りから起き出して、なんとなくベランダに出てみた。かすかな夜風が頬につめたく当たる。街は静まりかえっていた。物音ひとつしなかった。不自然なくらいに。
(夜中って、こんなに静かだっけ……)
今日は早く寝ようとしたから、そこまで遅い時間ではないはずだった。部屋に戻って、携帯電話を見てみる。まだ日付も変わっていない。なのに、どこの家にも明かりがついていない。遠くのほうに耳を澄ませてみても何も聞こえない。背筋が少し寒くなる。
反射的に瑚太朗くんへ電話をかけていた。一分くらいコール音が続いたが、出なかった。瑚太朗くんが電話に出ないことはたまにある。ましてやこんな夜中なのだから当然だ。それなのに、やけに不安になる。
あたしはとっさに家を飛び出していた。こんな真夜中なのにどうかしている、そう思いながらも止められない。明かりのついていない隣の家のチャイムを鳴らす。なんの返答もなかった。よほどぐっすり眠っているのか、それともこんな時間に出かけたのか。
気がつけば夢中で走り出していた。胸騒ぎがした。行かなければいけないという焦りに追い立てられるようにひたすら駆けた。どこをどう走ったのかよく分からなかったが、いつの間にか、どうしてか街はずれの森まで来ていた。
導かれるように、暗闇に足を踏み出す。ひとりでに足が動く。なぜか、真夜中の森をあたしはすべるように歩くことができた。どこをどう行けばいいのか、道がどっちに伸びているのか、すべて知っていた。
開けた場所に出る。少しだけ明るい。そこにはおとぎ話のような光景が広がっていた。意思を持って歩く木、低空を鳥のように飛ぶ葉、駆けまわる異形の生物、瑚太朗くんが探していた七不思議がかすむくらいの非現実的な光景だった。なのに、あたしはちっとも驚いていなかった。
(ここに来たことがある)
それどころか、不思議な安堵さえ感じていた。あたしはここにいた。ここにいなければならなかった。なのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。
「小鳥」
懐かしい声で呼ばれる。振り返るとすぐそばにお父さんとお母さんが立っていた。どうして、家にいたはずなのに、こんな夜中に勝手に出て行ったから追いかけてきたの――そう言おうとして、ふたりの目ががらんどうなことに気づいた。あたしに話しかけているはずなのに、焦点が合っていない。表情の抜け落ちた、色のない眼差しに見つめられる。
「なんで」
頭に強い痛みが走る。お父さんとお母さんはここにいる。いや、家にふたりともいたはずだ。静かに眠っていた。でも今は生きている。立ってる。動いてる。
――あれはもう人間じゃない。
痛みに耐えられずしゃがみこむ。頭を抱え込みながら、両手で強く耳を押さえつける。
――本当は、自分でももうわかってるんだろ?
あたしは力の限り叫んだ。なにを叫んだのかわからなかった。ただ錯乱した子どものように泣きわめいた。うるさい、黙って、聞きたくない、約束したのに、大嫌い。
意識が遠くなった。
2
「かんぱーい」
ふたりで声をそろえて言い合い、グラスを軽く鳴らす。グラスといってもふだん水やお茶を飲んでいるものと同じだが、入っているものが違うだけで特別なかがやきを持って見える。
「もうとっくに俺たちも酒が飲める年なんだなあ、時の流れは早いもんで」
「瑚太朗くん、ちょっとじいさんっぽいよ」
「なぬ、俺はまだピチピチだ」
瑚太朗くんがおつまみ用に用意したスルメの袋を開ける。選んだおつまみもじいさんっぽさがあるな、と思ったが言わないでおく。あたしが適当に切ったトマトとチーズはすでにあと数個になっている。
「酒が飲めるとさ、いやなことがあっても飲んで忘れられるっていうよな」
「なんか、いやなことでもあった?」
「そういうわけじゃないけどさ、よく聞く話だよなあと思って」
最後のチーズを瑚太朗くんがゆずってくれたので、ありがたく口の中に放り込む。一緒に暮らし始めてしばらく経つが、どちらもあまりお酒を飲むタイプではないので、こうして二人で飲むのはめずらしいことだった。飲めるようになってからまだそんなに経ってはいないのだが。
「あたしにはまだわかんないかも、それに忘れるほど飲んだら体に悪そう」
「それはそうだ」
「瑚太朗くんにも、いやなことあったらお酒に頼るようなひとにはなってほしくない」
「まかせろ小鳥、俺はスーパーヘルシーな男だ、安心してくれ」
グラスの中の液体をちょっとだけ口に含む。甘くておいしい。でも少しほろ苦い、大人の味がする。これをたくさん飲み干せばいやなことはぜんぶ忘れてしまうかもしれないなんて、ちょっとだけ怖いと思った。
「いやなことのためじゃなくて、楽しくなるために飲めたほうがいいのにな、人生そうもいかないのかな」
瑚太朗くんの言葉はやけにさみしげに響いた。
「あたしたちは楽しくいればいいよ、少なくともあたしは楽しい」
「うん……そうだな」
そうしてしばらく二人でスルメを噛むことに集中する。噛めば噛むほど味が出るが、なかなか飲み込むところまでいかない。ソファにもたれながらゆっくり味わうことにする。
「そういえば、同窓会どうする? 行く?」
言われて、知らせが来ていたことを思い出した。もう卒業がずいぶん前のことに思える。馴染み深かったクラスメイトたちの顔も一部をのぞいてぼんやりとしか思い出せない。
「瑚太朗くんが行くなら行こうかな」
グラスを両手に持ちながら、瑚太朗くんの肩にもたれる。じんわりとあたたかくてふわふわした気分になる。
「小鳥、もう眠いのか」
「んー……まだ寝ないよー……だいじょうぶ……」
「目閉じかかってるぞ」
前髪を指で梳かれると気持ちいい。もっとふわふわした気分がふくらんでしまう。
「今寝たらさ……変な夢見そうだから……お酒のんだあとって変な夢見るっていうから……」
「変な夢って、どんな?」
ちょっとにやけながら言うので、お腹をえいと小突く。うおお、と瑚太朗くんが横に倒れたので支えを失ったあたしは後ろのソファに頭をあずける。
「寝るならベッドにしろよ、風邪ひくぞ」
「まだ、いろいろ片付けてないから……」
「そんなの俺がやっとくって」
瑚太朗くんに肩を支えられて、半ば引きずられるようにベッドまで連れていかれる。やっと辿り着いた布団はふかふかで心地がよすぎる。
「あたし、そんなに飲んでないのになあ……」
「疲れてるときはそういうこともあるって」
「瑚太朗くん……まだ、ここにいて……」
すでに半分くらい沈んだ意識の中から手を伸ばすと、瑚太朗くんが握り返してくれる。
「小鳥が寝るまでいるよ、なんなら子守歌でも歌うか」
「もう、子どもじゃないんだから」
くすくすと笑うと、胸のなかにあたたかさが満ちて、じわりじわりと全身にしみていく。明かりのついていない寝室は暗くて、部屋の角をみると深い黒が溜まっていて、見通せないことに不安をおぼえる。でも瑚太朗くんがいた。こうして一緒にいてくれるだけで、心がやすらいでいく。
「大丈夫だよね……もう、大丈夫なんだよね」
眠りに落ちかけたときに、自分の口がなにごとか呟いたような気がしたが、何を言ったのかはわからなかった。あたしの手を握る手がぎゅっと力をこめてくれたことだけが、わかった。
次の休みには、街の中心部まで出かけることにした。主に足りない食材を買うためだ。二人ともそんなに凝った料理は作らないのでたくさんは買わないが、なるべく安売りの日を狙ってやり繰りしている。二人でゆっくり街を歩くのは久しぶりだったので、買い物の前にちょっと遠くまで足を伸ばしてみる。
久しぶりに商店通りに来ると、ずいぶんとシャッターを下ろした店が増えている気がした。人通りはそこそこだが、以前来たときよりも少しだけ静かだ。
「ここ、前は何だったっけ」
空き地を指さして、瑚太朗くんに聞いてみる。
「ああ……何だったけな、んー、がんばったら思い出せそうなんだが」
一時期はよく通っていたはずなのに、頭にもやがかかったように出てこない。そこにあったときは気にもとめなかったものが、なくなるとこんなに気になるのに、うまく思い出せない。人間は感情も記憶もあいまいで不確かだ。もしかすると今見ているこの街の景色も、ふっと目をそらして戻せば違うものに変わってしまうのかもしれない、そんな想像をしてしまう。
「もうすっかり葉っぱの色も変わったね」
「年々寒さに弱くなってる気がする、老いを感じる」
「冬も元気な瑚太朗じいさんでいておくれ」
「ホイ! 小鳥ばあさん!」
「だれがばあさんだい」
軽くパンチをくらわすと瑚太朗くんはいつも妙に嬉しそうな顔をする。
そんな風にして通り過ぎようとした喫茶店に貼り紙があるのに気づく。ふと立ち止まって見てみると、今月末で閉店すると書いてあった。前に瑚太朗くんと何度か来たことがある。
「ここ、閉まっちゃうんだって」
「いい店だったのにな」
「うん……」
「昼飯、ちょっと早いけどここで食うか?」
瑚太朗くんが提案してくれたので、深くうなずく。長い間来ていなかったし、特別気に入っている店というわけではなかったが、いつでも来られると思っていた場所がなくなるのは寂しい。
「いらっしゃい」
扉をあけるとカウンターの奥からお洒落なおばあさんが出てくる。おばあさんといっても腰はまっすぐでちっとも曲がっておらず、快活さと優しさをたたえた表情をしていた。まだ昼食には早いからか、店内には誰もいなかった。お好きな席へ、と言われて、窓際の小さなテーブルを選んだ。
「いいにおい」
あたしが店内を見回していると、おばあさんが近くへやってくる。
「ありがとう、自家焙煎の珈琲ですよ」
「じゃあ、それとおすすめのメニュー一緒にいただきたいんですけど」
「お食事はサンドウィッチとオムライスとカレーと……あとはナポリタンが一番よく食べてもらってますねえ」
「あ、じゃあそれでお願いします、小鳥はどうする?」
「あたしも同じので」
「かしこまりました、少々お待ちを」
奥に引っ込んでいくおばあさんの背を見つめる。落ち着いた内装の店内には静かなクラシックがかかっていて、ついぼうっと雰囲気に浸ってしまう心地よさがあった。それは瑚太朗くんも同じなようで、店内をながめながら少し眠そうな目をしている。
「あなたたちは、ご夫婦?」
いつの間にか戻ってきていたおばあさんが、珈琲の用意をしながら聞いてくる。
「はい、今日は買い物ついでにふらっとここまで」
「そうですか、とっても仲が良さそうだから、絶対そうだろうと思って聞いたけど、当たっていてよかった」
あたしはちょっとだけ恥ずかしくなってうつむいてしまう。ほんの少し見ただけで分かってしまうものなのだろうか。昨日今日一緒になったわけではないのに、まだどこか慣れない自分がいる。
「もしかして、前も来てくれたことがある?」
「あ、はい、何度か……そのときも二人で」
瑚太朗くんが答えるとおばあさんは嬉しそうに笑って、二人分の珈琲を持ってくる。目の前に置かれると良い香りがいっそうわかる。
「お待たせしました、お食事もすぐにお持ちしますからね」
「……あの! 貼り紙、見ました」
ずっと黙っていたあたしが突然呼び止めたので、おばあさんは目を丸くする。
「もうお店……閉めてしまうんですか」
おばあさんは少しだけ悲しそうな顔をしたあと、にっこりと微笑んでくれる。
「私がもう歳ですから、いずれこういうときが来るとはわかってました。それに近ごろ来てくれる人もだんだん減ってきていたし、潮時だろうと」
少しだけ罪悪感のようなものが胸を刺す。あたしたちがここにもっと頻繁に来ていたくらいで状況が変わったとは思えないが、それでも何かできることはあったのではないかと、後悔が心を覆っていく。取り返しがつかなくなってから、もっとこうすればよかった、なんて言っても何にもならないと知っているのに。
「仕方のないことなんですよ、近くのわりと大きな研究所がね、今年に入ってなくなってしまって。以前はそこの研究者さんがよく来てくれたものだけど、みんな街を離れてしまったから」
「そうだったんすね……研究所がちょっとずつ減ってるとは知ってたけど」
風祭市は有数の緑化都市だった。数々の先進的な研究を推し進め、全国だけではなく世界中から研究者が集まる街だった。それは、少しずつ過去の話になってきている。風祭市を中心に進められていたいくつかのプロジェクトは頓挫し、いくつかの企業が撤退した。
「あなたたちが暗い顔しないでください、ほら、今お食事を持ってきますからね」
そうして運ばれてきたナポリタンは、ほかほかと湯気が立っていてとても美味しそうだった。まろやかで懐かしい味がした。うまいな、おいしいね、とひたすら言い合った。
食べているあたしたちの横で、おばあさんはいろいろな話をしてくれた。店を始めた頃の話、昔行った外国で見たものの話、どれも色とりどりにきらめいて、どんどん続きが聞きたくなった。もっと早く来ていれば、といっそう思わされた。
おばあさんは最後に、珈琲豆を持たせてくれた。今日あたしたちが飲んだものだという。あなたたちがこれからもずっと仲良しでいますように、そう言って見送ってくれた。
予定通り少しの買い物をして、けれどなかなか帰る気になれず、あたしたちは家までの道を遠回りしていつもは来ない場所まで来ていた。いろいろ考え事をしながら歩いていたら、うっかり赤信号なのに渡ってしまいそうになって瑚太朗くんに引き留められた。けれどなんとなくぼうっとしているのは瑚太朗くんも同じみたいだった。
ふたりであてどなく歩いているうちに、小高い丘の上まで来ていた。あたしと瑚太朗くん以外に誰もいない。色あせた草を踏みしめると風がおだやかに吹き去っていく。風祭の街が広く続いているのが見える。
「ここからだと街が遠くまで見えるな」
「うん、あたしたちの家、あっちかな」
この場所から見ると、あたしたちの暮らす場所はとても素敵なところに思える。緑が多く、綺麗で、整えられた穏やかな街。
「……さみしいね、ずっと暮らしてきた街が変わっていくの」
「そう、だな」
「ふつうに生きてたら、変わっていくことにも気づかないままなのかな」
「たぶん、それでいいんだよ、ちょっと変わったくらいで大騒ぎしてたら疲れるだろ」
「でも、あたしは気づきたいな……忘れられていくのは、悲しいよ」
瑚太朗くんが少しそばに寄って、あたしの顔をのぞきこむ。
「小鳥はさ、いろんなことに気づきすぎるとこあるよな」
「そんなことないよ、あたしすごい鈍いよ?」
「まあ一部では鈍いとこもあるかもだが、いろんなものが見えすぎるから、そうやって考え込んでるんだろ」
「あたし、そんな風に見える?」
「見える」
おどけたように笑って言った。
「いろいろあるけどさ、俺たちは俺たちの手の届く範囲で、なんとなく幸せに生きていければそれでいいんじゃないか」
幸せ、と口にされた言葉がとても新鮮なものに聞こえた。聞き慣れないお洒落な外国語のような、そんな感じがした。
「俺は小鳥と毎日一緒にいられるだけで、他はなんだっていいくらい幸せだぞ」
似たようなことを、少し前にあたしが瑚太朗くんに言ったような気がする。小さくても無力でも、居られる場所があることはそれだけで奇跡だ。
空が、とてもあかるくまぶしく見える。広がる街が色鮮やかにきらめく。あたしはこの街で、大切で大好きなひとと一緒に暮らしている。そのひとも、あたしと一緒にいることを幸せだという。見つめたら笑って見つめ返してくれる。
「ずっと一緒に、いてくれる?」
思ったよりも泣きそうな声が出てしまった。もうあたしのそばにいてくれるのは瑚太朗くんだけだった。ほかに誰もいない。あたしはもう大人と呼ばれる歳なのに、一人きりで歩ける強さなんてなかった。ずっと何かを怖がっている気がする。こんな問いになんの意味があるだろう。答えは聞きたくなかった。ぎゅっと強く、目をつむった。
「小鳥」
じっと震えていると、やさしい声が上から降る。ぽんと頭の上に乗せられた手が、とても大きいものに思えた。あたしはみるみる小さなこどもに縮んでしまったような気持ちになる。まだ見慣れない景色が陽にかすんで広がっている。風祭ではない町の風景。みどりの丘の上にあたしたちの影がまっすぐに伸びていた。それはよく見るとずいぶん長さの違う影だった。
「どうかしたか?」
目の前にあった瑚太朗くんの服の裾を、ぱっと手を伸ばして小さく引っ張った。さっきまで同じくらいの高さで見ていたはずの顔が、ずっと高く遠くに見えた。少しのあいだ、ぼんやりといろいろなことを思い浮かべていたみたいだ。
「ううん、なんでもない」
幼なじみで、あたしよりずっと年上の瑚太朗くんが、不思議そうに首をかしげる。
あなたと一緒に大人になったときのことを考えていたとは、言えなかった。
3
はじめて生き物を世話した日、この世界はあまりにも理不尽で冷たくて乾いていると思い知らされた。差し出した手を噛まれ、怯えた目で見つめられ、それは完全に理不尽に打ちのめされて痛めつけられきった姿だった。
(この子はあたしだったかもしれない)
漠然と、そんな感情が湧いた。同情よりも温度が高く、共感よりもざらついたもの。
世界はたくさんの理で成り立っているのに、人はみな目を逸らして生きていると感じた。特に、無知な子どもたちに理屈は通じない。その行いは間違っていると説明しても理解できない。だから相手にするべきではない。すべて些細なことだと思えた。
どれだけ理不尽に晒されても、あたしにはお父さんとお母さんがいた。ふたりは理を知っていた。話をすることができた。尊重してもらえた。一緒にいるかぎり、あたしには秩序と安寧があった。
だから、あたしはふたりに対して自分の理を証明し続けなければならなかった。
傷ついた飼い犬は、あたしの計画と決意をことごとく裏切った。なにをやってもかたくなに拒絶を続けた。大事にしようとしているのに、傷つけようとなんてしていないのに、それすら理解することを拒んだ。
どうしてわかってもらえないのか、と思いながら、わかってもらえないのは当然だとどこかで諦めていた。自分と似た世界を見ているのなら、この小さな生き物も自分を受けいれたりはしないだろうと思った。この手が差し伸べているのは愛情ではなく義務感だったからだ。
瑚太朗くんに初めて会ったのは、風祭市に引っ越してきた翌日だった。挨拶を交わす両親どうしの向こう、廊下の壁にもたれて冷たい目でちらりとこちらを見て、すぐに逸らした。
このひとも、乾いた世界で生きている。そう思った。
けれど、街で暴力を振るう姿をたびたび見かけて、その考えは覆された。理不尽を与える側の人間だった。それなのに、無で覆った表情のなかに時折怯えが見え隠れする。嫌悪しながら、なぜか近づきたいと思った。拒みながら話をして、傷ついて、そのたび怯えた表情を見た。
哀れな愛犬は、最後まで世界に抗いつづけて死んだ。どれだけ噛まれても吠えられても、それがこの子の生き方なのだと思えた。自分に似たちいさな存在のことを、心から可哀想だと思った。あたしが道理を通すためにここにやってきた犬は、あたしがいなければ生きてはいけない。怖くてたまらない人間であるあたしから餌をもらわなければ死んでしまう。脱走して、いなくなって、探し回って、瑚太朗くんが連れ帰ってきたあの日、強く思った。あたしに世話をされなければ生きていけないことそのものが、この子――ペロにとっての理不尽だと。
ペロが死んで、お父さんとお母さんと庭に埋めて、そのときのあたしはなぜか無性に瑚太朗くんに会いたいと思っていた。話をしたいと思った。わかってほしいと思った。何を見て、何を感じて、どう生きているのか。知りたいと思った。そうは思っても、なかなか上手くはいかない。同じ人間でも、言葉が通じても、話をすることは難しい。
それでも、機会はいつか訪れる。思い立てばすぐに会いにいけるのだから。そう思っていた。
ポクポク、ポクポクと音をたてながら時計の振り子が揺れている。つねに同じ幅で揺れる規則的な動きをじっと見つめていると、後ろから肩を引かれる。
「おい、本当にこれでいいのか?」
瑚太朗くんが指したショーウィンドウの先には、イチゴの乗ったショートケーキがあった。
「いいってさっき言ったでしょ」
「でも他にも、こっちのフルーツタルトとかのほうが豪華じゃないか」
「そういうのいいから、好きなら瑚太朗くんが選べばいいじゃない」
「俺もべつに好きってわけじゃない」
「じゃあ、あたしはもう選んだから」
くるりと向きを変えて、また時計の前に戻る。せっかくケーキ屋に連れてきてもらったのに、どうしてこう上手くいかないのだろう。
昨日、話の流れであたしの誕生日が今日であることを知った瑚太朗くんが一緒に行こうと言い出した。前もって予約していないから大きなケーキは買えなくても、好きなケーキを選ぼうと言ってくれたのに、あたしは選ぶものまで面白くない。
「ローソクいるか」
「ホールケーキでもないのに、いらないよ」
「あ、じゃあなしで」
精算を終えた瑚太朗くんと店を出ると、まぶしい陽射しに目がくらむ。真夏の空気はただ立っているだけで体力を奪っていく。
「早めに帰らないと、もらった保冷剤もあっという間に溶けるな」
「……うん、行こ」
休みの日はときどき遠くまで歩いたり、丘の上までのぼってみたりしていたが、この暑さでは途中で倒れてしまうかもしれない。まっすぐ家をめざすことにした。
あたしと瑚太朗くんが暮らす家は、静かな町の中にあるごく小さなアパートだ。昔住んでいた風祭市からはずっと離れた町に今はいる。あたしは新しい学校に通い、瑚太朗くんは仕事を得て、なんとかふたりでやっている。
「ケーキ、今食べるか、それともあとにするか、どっちがいい」
「ん……じゃあ今」
皿をだして箱からケーキを取り出してそれぞれ乗せる。結局瑚太朗くんもあたしと同じイチゴのショートケーキにしたらしい。
「なんか、歌でも歌うか」
「やめてよ、そんなの」
「じゃあ」
真向かいに座った瑚太朗くんは一拍おいて、言った。
「小鳥、誕生日おめでとう」
真剣な顔をあっけにとられて見ていると、居たたまれなくなったのか目をそらす。あたしも思わずうつむいてしまう。
どうしたらいいのかわからなかった。誕生日を誰かに祝われたのはずっと昔の話で、しかも瑚太朗くんにおめでとうなんて言われたのは初めてのことだった。嬉しさよりも戸惑いのほうが勝ってしまう。けれどここで何も言わずにいたらとても感じが悪い。もうあたしたちは昔とは違うのに、ちっとも前に進めていないような気がする。拳をぎゅっと握りしめて、えいやと絞り出すように声をだした。
「あ、ありがと」
瑚太朗くんの顔をちらりと見ると、驚いたように目を見開いていた。が、少しあとにやわらかく表情を崩す。苦いものでも飲み込んだようなその微妙な笑みが、瑚太朗くんの見せる精一杯の喜びの表現なのだと気がついたのはつい最近のことだ。
「小鳥も、もう十四なんだな、言ってる間に高校生になるのか」
「まだまだ先の話でしょ、この前新しい中学校入ったとこだよ」
「小鳥は頭いいから、どこにだって行けるな」
フォークでケーキを静かにくずして、口に運ぶ。テレビも何もつけていない部屋は静かだ。
「瑚太朗くんが高校生のときって、どんな感じだったの」
「どんな感じって」
「あたし、制服姿見たおぼえもそんなにないから」
その頃の記憶は断片的だ。思い出さないようにしているところもある。あたしは一人きりになって、瑚太朗くんは風祭からいなくなった。
「……あんまり覚えてないな、ごめん」
言葉を濁して、黙りこむ。分かってはいたが、答えたくないことを聞いてしまった後悔で苦しくなる。あのまま風祭に住んでいれば、いつか瑚太朗くんと同じ高校に行けた。そこに瑚太朗くんはいなくても、そんな未来もあったかもしれないと少し考えてしまった。
「俺の話は参考にならないからできないけど、進路相談ならいつでもしろよ」
保護者然とした真面目な顔で言う。実際、一緒に暮らす成人である瑚太朗くんが自分の保護者なのだが、何かしっくりこない。とりあえず頷いておく。
進路のことはいろいろ考えてはいた。特にやりたいことや目指すものがあるわけでもない。ただここで静かに暮らしたい。けれどそのために、今のあたしができることはあまりにも少ない。
この町に来たときも、瑚太朗くんにほとんど任せきりにするしかなかった。今はもう何かを作り出せるような特別な力もなにもない。本当にあたしはただの一人の子どもになってしまった。
「夏休み、どっか行くか」
最後に残しておいたイチゴを口に入れる。甘酸っぱくておいしい。
「べつに旅行とかそういうのはいい、暑いし、お金使いすぎたらいけないし」
「……ちゃんと貯金あるし、そんなのお前が気にすることじゃないから」
「気にするよ、一緒に暮らしてるんだし」
瑚太朗くんは何か言い返そうとして口を開いたが、ため息をついて首を振った。
「行きたいとこあったら正直に言えよ、俺のできる範囲なら連れてってやるから」
そんな風に改めて言われても困ってしまう。ハワイとか言ってみても実現不可能なのはよく分かっている。特にハワイに行きたいわけではなかったけど。
一緒に風祭を離れてこの町に来てから、瑚太朗くんはあたしに優しい。精一杯優しくしようとしてくれているのが分かる。以前からは考えられないくらいに。
小鳥はどうしたい、何が欲しい、どこに行きたい、そう聞かれるたびにうまく答えられない。
「……お祭り」
悩んでいたら、ふいにそう口にしていた。
「掲示板で見た、八月の最初に神社でやるって」
「ああ、そういえば……俺も見たな、でもそんなのでいいのか」
「だめならいいよ」
「そんなこと言ってないだろ、小鳥が行きたいなら行こう」
夏真っ盛りの外は部屋の中からでも暑そうだ。ずっと風祭にいたから忘れていたが、他の町はたいてい夏にお祭りをやるのだ。
ケーキのお皿を片付けたあとは、晩ご飯の時間までぼんやりテレビを見ていた。少年少女たちが特殊能力を使って戦うアニメをなんとなく流していたら、登場人物のうち二人が良い雰囲気を醸し始める。つい見入っていると、瑚太朗くんにチャンネルを変えられてしまった。よく分からないテーマのドキュメンタリーを見始める瑚太朗くんの肩をぽかりと叩く。その手をぱっと掴まれて、しばらくじっと見つめられた。あたしは動揺して固まってしまう。
「な、なに」
「……小鳥にはまだ早い」
「いくつだと思ってるの」
「十四だろ」
こういうとき、早く大人になりたいと思う。
熱帯夜だった。いちおう冷房はつけているけれど、それでもなんとなく寝苦しい夜だった。
あたしは浅い眠りのなかで、お父さんとお母さんと車に乗っていた。窓の外には緑が広がっている。だんだんと少なくなっていく空の面積に心がざわめいた。この先は見ないほうがいい。
「……っ」
枕とシーツの感触を取り戻す。目を見開いて暗い天井を見つめる。部屋の空気はじっとりとしていて、吐き出した息がすぐそばにとどまっているように思える。
夏といっても、昔はこんなに暑くはなかった気がする。風祭が特別涼しい場所だったのかもしれない。毎年のように熱波で亡くなる人のニュースをどこか他人事のように眺めていた。自分は何も知らなかったのだとここに来てから知るばかりだ。
水を飲みたくなって、布団から這い出る。暗い部屋の壁を冷蔵庫まで伝っていくと、窓辺に人影があった。瑚太朗くんは何をするでもなく暗闇にただ座って、じっと夜空をながめていた。
「なにしてるの」
「うお、小鳥、どうしたんだよ」
「水飲みにきただけ、瑚太朗くんこそそんなとこで何してるの」
「……べつになにも」
暗くて表情は見えなかったが、聞かれたくないことを聞かれたときの顔をしていると思った。ふたつコップを出して、適当に水を入れて窓のほうまで歩いていく。
「俺はいいよ」
「せっかく持ってきたのに」
「ん……じゃあもらうよ」
瑚太朗くんの隣に座って、あたしも空を見上げる。雲がゆっくりと流れて、丸い月が顔を見せる。暗い部屋からは少しまぶしいくらいの光が窓越しに射す。ぼんやりと浮かび上がる瑚太朗くんの横顔がどこか悲しそうにも見えて、喉の奥が苦しくなる。
「月って、案外明るいよな」
「そう、だね……普段は気づかないけど」
「人が作った明かりを消して、闇の中から見つめないと気づかない……」
歌うように、小さな声でつぶやいた。
「いつか、行けたらいいのにね」
何気なくそう口にすると、瑚太朗くんはとても驚いたようにあたしを見た。
「どうしたの?」
「いや……小鳥もそんなこと思うんだな」
「どういう意味」
「勘違いするなよ、悪い意味じゃないから」
煌々とした明かりは、不思議な気持ちを掻き立てる。
「そうだな、行けたらいいけど……宇宙開発計画は今ストップしてるし……」
「資源と予算が足りないんだっけ」
ロケットも探査機も、今の世界には飛ばす余裕がない。環境汚染、食糧難、エネルギー確保、山積する問題を解決したらいずれ、と言われているが、そんなときはいつ来るのか分からない。
「人は……もう宇宙には行けないのかもな」
瑚太朗くんの言葉がさみしげに響いた。なにかを諦めたような疲れもにじんでいた。
――逃げよう。
あの日、森で怪我をして倒れていたというあたしに瑚太朗くんは言った。わけもわからずその手を取った。必死に離さないよう掴んだ。あたしにはそれ以外の選択肢はなかった。瑚太朗くんしかいなかった。
なんとなく気づいていた。この生活も長くはないのかもしれない。あたしたちは馴染み深いあの町からこんなに遠くまで来てしまった。なにもかも捨てて置いてきてしまった。あたしはお父さんとお母さんを、瑚太朗くんは成し遂げようとしていた何かを。
そして瑚太朗くんは、それを今もどこかで悔やんでいる。そんな気がした。
「一番近い星なのに、ここからだととんでもなく遠く感じる」
「……そう思うとちょっと、胸が苦しくなるかも」
手のひらを胸にあてた。置いてきたものを取りに戻ることはできない。欲しいものがあっても簡単に取りに行くことはできない。とうに知っていた。瑚太朗くんは手に持っていたコップを床に置いて、ふっと笑った。
「民族特有の郷愁ってやつかもな」
すぐ隣にいるはずなのに、その姿がすうっと窓の外に溶けていきそうで怖かった。手を伸ばそうとして、できなかった。またからかわれたり子ども扱いされるのは嫌だった。だから、せめて床に落ちた影から目を逸らさないように、じっと見ていた。
お祭りの日は夕方になるとどこからか子どもたちの声が聞こえて、いつもとは違う空気を感じた。あたしたちは二人とも浴衣なんて持っていなかったので、普段着で出かける。境内まで行くと、そこまで浴衣を着た人だらけというわけでもなく、さまざまな人が行き交っていた。
「この神社、ふだんは人なんてめったに見かけないのにすごいな」
「ん……いつもとぜんぜん違う」
ウサギの形の風船を持った小さな女の子がそばを駆けていく。人混みのあいだをすいすいと軽く走っていき、ウサギの耳も遠く隠れてしまう。
「あれ、欲しいのか」
「ちがう、べつに見てただけ」
「風船屋、向こうみたいだぞ」
「だからちがうってば」
「じゃあ、どこ行きたい」
言われて辺りを見回す。早く決めないとこのまま風船屋に連れて行かれかねないと思って、適当に向こうの屋台を指さす。二人で近づいていくと、そこは金魚すくいの屋台だった。
「これ、やるのか」
「……一回くらいやっといてもいいかなって」
「じゃあ、すみません、二つお願いします」
瑚太朗くんとあたしと、一つずつポイとボウルをもらう。やったことはなかったが、紙をやぶってはいけないというのは知っている。そうっと水に近づけて、一匹の赤い尾ひれをとらえる。さっとすばやくすくい上げて、ボウルに移そうと思ったところでポチャンと音がした。
「あれ、今ちゃんとすくったと思ったのに」
「重さに耐えられなかったんだな、紙の上に乗せるから」
「そんなえらそうに言って、瑚太朗くんだって一匹も取れてないじゃない」
「小鳥見てたから」
なぜかむしょうに恥ずかしくなって、屋台のおじさんに押しつけるようにポイとボウルを返した。
「じゃ、じゃあ今からお手本みせてよ」
「はあ……もしすぐダメでも笑うなよ」
瑚太朗くんはじっと水面を見つめていたかと思うと、ポイの縁にひょいっと金魚を引っかけるようにして一匹つかまえた。そのまま同じ動きを繰り返して五匹をボウルに移してしまう。そこでポイがほろっと破れた。ああー、と同時におじさんと声をあげる。
「お兄さん、なかなかうまいね」
「いや、そんなには……小鳥、これどうする?」
「持って帰っても飼う場所ないし、いいよ」
「いいのか?」
「じゅうぶん楽しかったから」
ポチャンと五匹の金魚がふたたび水の中に放たれる。ボウルの中に比べたらこの浅い水槽でも海にも似た広さに思えるだろうか。たくさんの魚たちに紛れて、五匹はあっという間にどこに行ったかわからなくなってしまった。
金魚すくいの屋台から離れ、しばらくあてもなく歩く。なんとなくたこ焼きの屋台の前で立ち止まり、美味しそうに並んだ球体がくるくると回される様子に見入る。
「そろそろ腹減ったな」
「ちょっとだけね」
「何個入りがいい?」
「……分けられるぶんがあれば」
瑚太朗くんが声をかけると、ひょいひょいと球体――たこ焼きがパックの中におさまっていく。八個入りのパックを受け取ると、二人で屋台の脇に寄る。
「ほら、よく冷まして食べろよ」
つまようじを渡される。ふうふうと息を吹きかけてから口に入れたが、それでも思わず顔をしかめてしまうくらい熱い。
「半分に割って食べたほうがいいんじゃないか」
見かねた瑚太朗くんがあたしの食べるぶんを器用につまようじで二つに割ってくれる。ちょっと崩れるのは勘弁しろよ、と言われたが、べつに気にならないくらい綺麗に割られていた。
「ん、熱くない」
「そりゃよかった」
たこ焼きをもぐもぐと味わいながら、行き交う人々をながめる。親子連れが楽しそうに輪投げをやっている。恋人同士らしいふたりが寄り添いながら手をつないで歩いている。四人組の女の子たちが笑いながらどこかへ駆けていく。
あたしたちはどんな間柄に見えるだろう。さすがに親子ほどは年が離れていないから、せいぜい兄妹といったところだろうか。実際に近所の人にはそう思われているみたいだ。
ほんとうに瑚太朗くんがあたしの家族だったならどうなっていただろう。同じ家で育っていたら、今頃まだあたしたちは風祭の家で一緒にお父さんとお母さんと暮らしていたのだろうか。
「小鳥、あと一個残ってるぞ」
「あ……ごめん、食べる」
最後のたこ焼きはもうすっかり冷めていて、一気に口に含んでも大丈夫だった。
「楽しんでるか」
本人はちっとも楽しくなさそうな顔で聞いてくる。
「そんな顔で聞かれても困る」
「俺はもともとこういう顔なんだよ、べつに楽しんでないわけじゃない」
「そうなの」
「こんな風に誰かと祭に行くなんて、なかったし」
意外に思った。瑚太朗くんがどんな付き合いをしてきたのかあたしは知らない。人好きしそうな性格ではないからいろいろな人に囲まれているところは想像しづらかったが、それでもあたしの知らないところで過ごした時間はたくさんあるだろう。その中で、何を見て何を感じてきたのだろう。
何も知らなかった。あたしはあたしの前にいる瑚太朗くんしか知らない。あたしが一人でいたころ何をしていたのか、何を置いてきたのか、どうしてあたしと逃げようと言ったのか。
「瑚太朗くん」
名前を呼んで、見上げると少しだけ首をかしげる。だんだん背は伸びてきているけど、まだ見上げなくてはいけない。同じ高さでちゃんと向き合いたい。対等な立場で話したい。あなたのことをちゃんと知りたい。
「なんだ?」
あたしとこの町に来たのはどうして、ひとりで抱えないでよ、あたしにできることがあったら言って――たくさんの言葉が喉までせり上がって、でもどれも言えなかった。瑚太朗くんに聞きたいことばかりあった。でも聞かずにいるのがいいと思っていた。正しく庇護される子どもでいようと思った。今度こそ、置いていかれないように。
「一緒に来てくれて……ありがと」
言い終わったあとやっぱり顔は見られなかったが、最後までちゃんと噛まずに言えた。温かい手にくしゃりと頭を撫でられる。遠くから祭り囃子が聞こえてくる。提灯がたくさん並んでいるおかげでどこもかしこも明るくまぶしいくらいだ。黙ってしばらく頭に手を乗せられたままでいる。
「これ、捨ててくるからここで待ってろよ」
たこ焼きの入っていたパックを持って瑚太朗くんが向こうの屋台のほうへ歩いていく。夜風がひやりと髪をさらっていく。
どこかで太鼓がドン、と鳴った。音のしたほうを見ると、奥のほうで演舞か何かが始まったみたいだ。気をとられていると、後ろからわっと人が押し寄せてきてそのまま流されてしまう。
「ちょ、ちょっと……!」
前が見えないままどんどん進む羽目になる。しばらく押し流されて、ようやく人混みから解放されたときは知らない場所にいた。辺りに屋台もない。ずいぶん奥のほうに来てしまったようだった。
急いで来た道を引き返す。とは言ってもどっちから来たのかよく分からなかったが、より明るい道を選んで早足で歩く。みんな演舞を見に行ったのか、少し人が減っていたがそれでも多い。たこ焼き屋の屋台を探さなければと思ったが、同じような屋台がいくつもあってどこだったか判別がつかない。そばにあった屋台の特徴や見ていた光景を必死に思い出そうとしたが、次第に自分がどこを歩いているのか分からなくなってくる。さっきまであたたかく祭を照らす灯火だったたくさんの提灯が、今は心を乱し惑わせるための亡霊の群れにも見える。
「瑚太朗くん、どこ……!」
呼んでみた声は祭の賑わいに吸い込まれる。見慣れた背中はどこにも見つからない。また太鼓が大きく鳴る。あたしは道の端に立ち尽くして耳をふさいだ。喧噪がわずらわしい。夏の空気がむせ返るように胸の奥に入り込んで苦しい。
はぐれたものは仕方がない。とりあえず家に帰ればいい。幼い子どもじゃないのだから、それくらいの判断はできる。けれど足が動かない。
もし家に帰っても瑚太朗くんが帰ってこなかったら?
もしこのまま瑚太朗くんがいなくなってしまったら?
昔、約束をした。吹けば飛んでしまうような軽い約束。すがるように交わした指切り。今思えば、あたしはなぜあのときそんなことを言ったのだろう。収穫祭に行きたいなんて、お父さんとお母さんにも言ったことはなかったのに。
それでもあたしは長いあいだずっとその約束を抱えて生きることになった。あたしのそばから誰もかれもがいなくなり、それだけがいつか来る希望だった。何も考えずに、突っかからず喧嘩せずに、笑って仲良くしたかった。そのためだけにあたしは約束を取り付けたのかもしれない。
(やっと約束が叶ったのに)
このままどこか分からない場所で突っ立っているより、早く帰ったほうがいいに決まっている。けれどもしも、と思うと動けなかった。確かめるのが怖かった。それならここでじっと立ち尽くしているほうがずっとよかった。
「小鳥!」
振り返ると、息を切らせた瑚太朗くんが立っていた。あちこち探し回ってくれていたのだろうか。勢いよく肩を掴まれる。
「待ってろって言っただろ! どこ行ってたんだよ、ほんと、探した……」
顔を見た瞬間、ぼろぼろと涙があふれていた。怒った顔もにじんで見えなくなる。しゃくり上げながら、目の前の胸にしがみついた。子どもみたいに泣きじゃくってばかみたいだと思った。けれど止めることはできなかった。
「また、置いて行かれたかと思った」
「え……」
「あたしを置いてどっか行っちゃったかと思った!」
人混みに流されていなくなったのはあたしのほうなのに何を言っているのだろう。瑚太朗くんの胸のなかはあたたかかった。このまま泣いて泣いて泣き疲れて、ここで眠ってしまいたいくらいに。
「……そんなことしない」
頭の後ろに手が添えられ、引き寄せられる。そっと両腕があたしを包む。
「もう置いていったりしない。今度こそ、おまえのそばにいる」
瑚太朗くんの声が体じゅうに響く。耳から、胸から、腕から、指先から、あたしへの言葉が伝ってしみていく。
「小鳥を一人にはしないから」
頭のなかがぐしゃぐしゃになるくらい、わけもわからず泣いた。あたしが欲しかったものだ。ずっとずっと求めて、でも聞けるはずのなかった言葉。ここにあった。嬉しくて、嬉しくて怖くて震えるくらいにあたしはその言葉が欲しかった。ずっとずっと、そう言ってほしかった。
――これは“夢”だ。
世界がはじける音がした。
4
無のなかにいた。
ここがどこであるとか、今がいつだとか、そんな問いにはすべて意味がない。
このままじっと浮かんでいれば、体が少しずつ分解されて、存在ごと無に還るのだろうか。
――体?
あたしには体があった。腕を動かしてみる。指先から肘くらいまでが視界に入る。もっと大きく伸ばしてみた。その先にはぼんやりとした光がわだかまっていた。懐かしくて、あたたかく、それでいて見つめていると苦しい。けれど触れたいと思わされる。それが何であるか確かめたい。どんな色をしているのか、温度をしているのか。手触りはかたいのか、やわらかいのか。敵意はあるのか、おだやかなのか。
遠くまでぴんと手を伸ばしてみると、光のかたまりが少しだけ揺らめいた。あたしが瞬きしたわけではない。意思を持って動いている。それに気づいたとたん、輪郭をもたない光がよく知るかたちを象っていく。人のかたちだ。色と形を持った一人の人間がそこにいた。
「……こたろう、くん」
名前をゆっくりと声に出す。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、判別のつかない表情がしずかに見つめてくる。その顔を、姿を見たとき、すべてを思い出した。
そうしてよみがえった思い出と呼べるものは、どうしてかいくつもあった。同じ学校に通っていた。変わりゆく街を見ていた。ふたりきりで暮らしていた。さまざまな世界と時間を覚えていた。そのほとんどに彼がいた。いつでも彼はあたしのすぐそばにいた。
けれど、もう気づいてしまった。
思い出せる記憶、過去と呼べるものの中にひとつだけ、彼のいないものがあった。人類が冬の時代を迎えた世界で生きている自分。同時に存在しえないはずのたくさんの記憶のなかで唯一異質なものがあるならば、すなわちそれが真であるということだ。
彼がとうにいなくなった世界で、あたしは生きていたことを思い出した。
きっかけは小さな事故だった。
建設中の資材が落下し、道路に叩きつけられた。幸い人はおらず、怪我人はいなかった。
しかし、それを間近で見た者がいた。身体的な怪我は負わなかったものの、ひどく動揺し、錯乱しはじめた。体調がすこぶる悪いときにそんな体験をすれば、心に強い衝撃を引き起こすこともあるかもしれない。
そして、恐怖は伝播することがある。頭を押さえてうずくまるその人を、近くにいた別の人がどうしたのかと案じて手を伸ばす。錯乱している側は、恐怖を退けたくて、無我夢中で伸ばされた手を払う。ただ事ではない様子を見て、助けようと思った側もどうすればいいのか分からなくなる。困惑がやがて恐怖に変わる。それを見ていた人にもまた、理解できない恐怖が伝わっていく。
人類にとっての世界は姿と仕組みを根本から変えた。世界中の人々が自らの内なるエネルギーを具現化し操る術を知った。
そんな世界で、複数人が一度に錯乱するとどうなるか。
エネルギーの暴走だ。
「どうするんですか、今にも襲いかかっていきそうですよ!」
「刺激しないように、人々を避難させなければ」
「そのあいだ襲われちゃったら、守りきれる……?」
「ちょっと無理かもしれない」
「ともかく、早く救急隊に知らせるべきじゃないの」
あたしたちは、その現場を離れたところから偶然目撃していた。多種多様な魔物たちがつぎつぎと現れ、錯乱した人々を取り囲むように並んでいる。魔物は基本的に使う人間の命令通りに動く存在だ。まずは魔物の輪の中心にうずくまり泣き叫ぶ人たちを落ち着かせるのが優先だ。けれどそれには魔物の輪をかいくぐらねばならない。
「……俺が引きつける」
五人の話し合いを聞いていたポチが、すっと前に踏み出す。
「俺が魔物を誘導して、隙を作るからそのあいだにお前達はあの人間たちのところに行くか、誰かに知らせて協力を仰いでくれ」
「そんな、ひとりで?」
「心配するな、俺は強いから」
調子よく笑ってみせる。目は前髪で隠れて見えないけれど分かった。あたしたちが顔を見合わせたのと同時に素早くポチが駆け出す。群れの前に躍り出て、そして颯爽と向こうのほうへ走っていく。獣は動くものを追いかける習性があるというが、魔物たちもそれは同じなようで、ポチ目がけていっせいに集まっていく。ポチの背中はみるみる遠くなっていく。魔物たちの姿に隠れて、かすんで見えなくなっていく。
「今だ! 行くぞ!」
いっせいにうずくまる人々に駆け寄る。みな何が起きたかわからないという表情で首を振って震えている。
「もうだいじょうぶです、落ち着いてください」
ちはやが手のひらをかざすと小さな羽をもった魔物が現れる。蝶のような小さな鳥のような、不思議なかたちをしている。それらがふわふわとやさしく周りを飛ぶ。
「あたしの合図に合わせて、呼吸してください。ゆっくり、五秒かぞえるあいだに息を吸ってくださいね、はい、いち、に、さん……」
そうしてみんなで応急処置をして回る。辺りにいた人たちの中で心得がある人も協力を申し出てくれた。幸い、処置が裏目に出て暴れ出すような人は出ずにすんだ。錯乱していた人々はまだ呆然とした顔で座り込んでいるが、状況はとりあえず落ち着いたように見えた。
「なんとかなった」
「あとは救急隊の到着を待つだけね」
ほっとした様子でお互いをねぎらう。ふと、空を見る。薄い灰色の雲が頭上にかかっていた。天気が変わる予兆に見えた。
「……ポチ」
つぶやいて、急いで気配を辿る。いつもならポチがいるだいたいの場所を察知することができるが、うまく辿っていくことができない。もやがかかったように、途中で見えなくなる。
背筋に冷たいものが走った。
「小鳥⁉」
気がつけば駆け出していた。行かなくてはいけない気がした。どうしてそんなに居ても立ってもいられなくなったのか分からないが、夢中でポチの消えた方へ走った。伝令役の鳥を飛ばして方角を確認する。魔物たちは街はずれの丘のほうへ行ったようだった。ポチがなるべく人のいない場所へと誘導したのだろう。
獣を呼び出して飛び乗る。風を切って街を、森を超えて駆けていく。遠ざかっていく背中を見送るしかないなんてもういやだった。二度と大事なひとを失いたくなかった。知らないところでいなくなってほしくなかった。
丘をのぼると、魔物たちの姿は跡形もなかった。錯乱状態が落ち着いたことで消滅あるいは退却したのだろうか。天辺まで息を切らせて走っていく。大きな樹の根元に、ポチが座り込んでいた。
「ポチ!」
あたしが急いで駆け寄るとすっと顔をあげる。見たところ外傷はなさそうだ。
「怪我……してない? 気配なくなったから、何かあったのかと思って」
「大丈夫だ、戦ってないから」
「え、そうなの?」
怪我はなさそうだが、ポチはあきらかに憔悴して疲れ切っていた。
「戦意から生まれた魔物なら戦意で対応すればいいが、恐怖から生まれた魔物に戦意で対応したらいけないと思って」
「恐怖が増幅するから?」
「殲滅するだけなら簡単だが、使っている人間にさらなる影響があるとも限らないから、戦意を喪失させるまでの時間稼ぎをしようとした。大勢の魔物相手に慣れないことをしたから精神的に疲労しすぎた、それで気配が辿りにくくなったのかもしれない」
「その、慣れないことって?」
「歌を、うたった」
そのとき、背後で物音がした。風がざわりと草を鳴らした。花々の向こうに、一匹の犬がいた。中型犬くらいの大きさだった。どこかからはぐれてしまったのか、どうしてここにいるのか分からないというように、せわしなく首を振りながら歩いてくる。
あたしたちはぽかんとしたままそれを見ていたが、次の瞬間、犬がポチのほうに飛びかかった。恐れ、怯え、苦しみ、痛みが、自分の中に生じた感覚のように降り注ぐ。大きさも見た目もまるで違うのに、あたしはその犬に違う存在を重ねていた。体が即座に動いてポチの前に飛び出す。両手をひろげる。
ここにいていいんだよ。
そんなことを笑って言えるように、なりたかった。
おぼろげだが確かな記憶をたどって、あたしは理解した。
よりによって、死ぬ瞬間に、あの人の顔を思い浮かべてしまった。
とても痛かったような気がする。でも今はうまく思い出せない。すべてがぼやけていて、それでいてまぶしくていとおしかった。いったいどれが夢でどれが本当なのかわからなくなるくらいに。
無のなかで、瑚太朗くんが、目の前に立っていた。あたしをしずかに見つめている。このひととずっと一緒にいた。ずっと見ていた。
ゆっくりと、こちらに手が差し伸べられる。胸がふるえた。もしこの手をとれば、いとおしい思い出の中に行けるのかもしれない。今度こそ、何も憂うことなくいられるのかもしれない。
ぜんぶ、ぜんぶ、覚えていた。あたしを好きだと言ってくれた。そばにいると言ってくれた。近くで見てくれていた。いろんなものをくれた。じゅうぶんすぎるくらいにくれた。
一緒に楽しい学校生活みたいなものを送りたかった。帰りに買い食いをしてみたかった。くだらない話で笑いあってみたかった。変わりゆく季節を過ごしたかった。ただ一緒にいてほしかった。あんなに優しくなかったひとなのに、ずっとずっとそう思い続けていたのだと気づいた。
抱いた思い出がぜんぶ、自分の中にしかない独りよがりの幻だとしても、本当か嘘か、現実か夢かなんてどうだってよかった。あたしは、このひとのことが好きだった。
「瑚太朗くん、あのね」
話し出すと、声がふるえて詰まってしまいそうになる。ぐっと拳をにぎって、深く呼吸する。息が吸える。匂いや温度は感じないけれど、まだあたしという存在はここにある。
「あたしね、友だちができたよ」
差し出された手が、ぴくりと動く。
「みんなすごく優しい。あたしがうまくできないことも助けてくれるし、眠れないときは話し相手になってくれるし、一緒に、いろんなもの見てきたよ」
それぞれの顔を思い浮かべる。助け合って生きてきた。うまく話せない日もあった。でもなんとか日々を生きるうちに、かけがえのない存在になった。
「だから心配しないでね。もう一人じゃないから……瑚太朗くんは行って。行かなきゃいけないところが、あるんだよね?」
瑚太朗くんは少しおどろいたような顔であたしを見て、目を伏せた。ゆっくりと手を下ろして、向きを変える。あたしのほうを気にしたようにちらりと振り返り、今度こそ歩き出す。速度を上げて、走っていく。遠く、遠く見えない彼方へ。
いつだってどこか違う場所を見ていた。あの目があたしをちゃんと映してくれたことはなかった。
どうしてあたしは置いていかれたのか。
答えの返らない問いをずっと胸の奥に押し込めていた。
でも、あんな風に必死に走っていくほど大切なものがあるのだ。一人きりだったあたしにはそれが分からなかった。でも今なら分かる。
あなたにも、どうしても手に入れたくて、失うのがこわくて、求めずにはいられないものがあったのだ。
歌がきこえた。
心を安らがせ、ゆっくりと水面の向こうへ導いていくような。
それはどこかで聞いた音色に似ていた。いつかの夜回したオルゴールの。
「あ……」
目を開ける。白い壁と天井と、穏やかな光が視界に揺れる。誰かが鼻歌をうたっていた。窓辺に座っていた人影がこちらに気づく。
「おはよう」
「……お、おはよう」
いっさい動じた様子のないポチがさわやかに挨拶をしてきたので、そのまま返してしまう。
「ここ、どこ?」
「病院。現在の日時はそこに書いてある」
端的に言って、枕元の時計を指し示す。時計のそばには色とりどりの花が生けられていた。ぺたぺたと自分の体を確かめると、包帯があちこちに巻かれている。
「ねえ、いまの歌……」
「ああ、街で通りがかったときに耳にして、好ましい旋律だったから覚えていた」
そう言われてあたしも思い出す。知っている曲だった。どこで聞いたのかは忘れてしまったが、なんとなく旋律だけ耳に残っていた。
「そっか……それで……」
突如、ガラリと扉の開く音がする。
「小鳥⁉ 目が覚めたんですね!」
「大丈夫か? 具合は?」
みんながいっせいに病室に駆け込んでくる。それぞれの心配そうな顔を見て、つい安堵に満たされてしまう。
「うん、へいき……ごめんね、心配かけて」
「あなた、ポチをかばって怪我したって、本当なの?」
朱音に聞かれてポチの顔をちらりと見るが、本人はあいもかわらず無表情だ。
「恥ずかしながら……一人で突っ走ったうえにアホな行動とっちゃって、反省してる」
「……武装も持たないのに魔物の前に出られるとは思わなかった」
ぼそりとポチが言うので、ますますあたしは居たたまれなくなって肩を縮こめる。
「でも、小鳥に動かれる前に俺が先に動けばよかった。今後は気をつける」
「もういいよー……ごめんって」
みんなの笑い声を聞いてほっとする。まだこれが夢ではないかと思うくらいに頭はふわふわとしていたが、包帯の内側の傷が痛むたびに安心する。
話によると、あたしは丸三日眠っていたらしい。処置が行われたあともあたしがずっと目覚めなかったので、気が気でないまま代わる代わるで付き添ってくれていたようだ。
「小鳥、花が好きだから匂いで起きるかもって買ってきたんです」
「効果あってよかったわ」
「ほんと、ごめんね」
「無事目覚めたんだから、もう謝るのはなしだ」
「うん……ありがと」
あたしは少しだけ生死の境に足を踏み入れてしまっていたのだと、ようやく実感がわいてきた。臨死体験とでも言うのだろうか。めずらしい体験をしてしまったと考えるには少し苦々しい思いがするけれど。
「まだちょっとつらいのか」
特別鋭い静流があたしの顔をのぞきこんでくる。
「ううん、そうじゃなくて……夢、見てたの」
「どんな夢だったんですか?」
聞かれて、一から話そうとした。でも言葉にする前にふわりと形が散らばってしまう。とらえようとしても指のあいだをすり抜けていく。ただ触れた感覚だけを残して。
「うまく思い出せないんだけど……すごくね……幸せな夢を見てた」
みんなも出てきたよ、とかろうじて伝えると、それぞれ顔を見合わせてちょっとだけ嬉しそうに微笑む。
「でも、会いたかったひとにも会えて、一緒に過ごせて、よかったけど……あたしの中から生まれた夢なんだって思うと、ちょっと恥ずかしいし、さみしいな」
ぽつりと小さくつぶやく。何も反応を示さずじっとしていたポチが立ち上がって窓を開ける。陽にあたためられた風が吹いてくる。
「昔、ある時代では、夢に出てくる人間は夢を見たものに会いにきたのだと言われていたらしい」
窓の外を見ながら、ポチがつらつらと話し出す。
「誰かの会いたいという想いが夢に届くのだと信じられていた。時代が下るにつれてそんな説は否定されたが、今や人間の内なる力は未知なる可能性を持ちさまざまな現象を実現させることが常識となった」
ゆっくりと振り返って、ポチはあたしに語りかける。
「だから、所詮夢なのだと軽んじれば、会いに来た人間と小鳥の想いが報われない」
ポチの肩越しに射す光が目に飛び込む。夢の縁で、現でも幻でもどうだっていいと思えた。あたしはどうあってもあたしで、ただひとりのそばにいたいと想っていた。それがわかったからだ。
彼は、あたしの会いたかったひとは、まだこの世界のどこかにいるのだろうか。そのどこかで、ふとしたときに少しでもあたしのことを思い出してくれたのだろうか。
そんな奇跡を、ほんの少しだけ夢見てしまってもいいのだろうか?
「小鳥、どうしたんですか、どこか痛いですか?」
ぽたぽたとシーツの上に染みがつくられる。涙でにじんだちはやの顔に笑いかける。
「ううん……ちっとも痛くないよ、だいじょうぶだよ」
涙をとめられず泣き続けるあたしにつられたのか、ちはやと静流まで涙ぐんでいる。あっという間に大泣きに変わって、二人ががばっと抱きついてくる。後ろでルチアと朱音はそんな様子を見守っている。
あれほどいとおしく鮮明だった胸のうちの記憶は、昼の明かりにうすれていく。涙といっしょにこぼれていく。思い切り泣きながら、どうして泣いているのかもよくわからなくなっていく。
ただ、抱きつかれた温もりがあたたかく、花の香りがかぐわしく、空の色が透き通るようにあかるい、そんな日だった。