ひかりよ燃えて海のはて

CoC『レプリカントの葬列』自陣小説

CoC『稲妻のように燃えて寄せ』の後日譚です。



2025-09-18
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 ふと、子どもたちの声がそばを通り過ぎたのに気付き、調は空を見上げた。
 真昼の青い空には、ぽっかりと半端に空いた穴のように白い月が浮かんでいた。半円を少し崩したような形だ。少し眩しいくらいの鮮やかな青に空いたそれは、なぜだか心惹かれるものがあった。
――天体観測、今度行こうよ。
 先日、そう誘われたことを思い出す。どこまで本気なのかは分からないが、実現したときのことを思い浮かべると胸の奥はさわりと動く。彼の話すことや、手を引かれた先にある場所は、いつだって調の知らないきらめきに満ちている。

「……お腹すいたな」
 昼時を少し過ぎた頃だ。朝から仕事の打ち合わせに出かけていたので、家を出てから何も食べていなかった。たまには珍しくどこかで食べて帰るのも――そう思って、賑やかな通りに足を踏み入れたときだった。
 世間では休日、店のあいだを行き交う人通りは多い。調は店の並びにさほど詳しくない。あまり外出しないのもあって、この辺りにどんな店があるのかよくは知らない。
 けれど、広い通りに立って、真っ先に目が吸い寄せられたものがあった。今朝も見た、見慣れた上着の色。風に揺れる柔らかな髪。にこやかな笑顔。
 一瞬見間違いかと思ったが、確かに調の同居人のイチが、そこにいた。
 イチを見た調がそのまま足を止めて動かなかったのは、隣に連れがいたからだった。
 長く波打つ髪をたたえ、すらりと伸びた背が美しい女性だった。イチは彼女に笑顔を絶やさず、なにやら楽しそうに話しかけている。そのまま、二人は近くの店に入っていった。
 調は、その店の近くまで駆け寄り、窓の外から中の様子を見ようとした。けれど昼の明るさに照らされた窓から店内の奥までは見通せず、二人の姿は見つけられなかった。
 窓ガラスには、調の呆けたような姿だけがぽつんと映し出されていた。



 どうやって帰ってきたのか覚えていないが、いつの間にか家に着いていた。昼食を食べようとしていたことも忘れ、調は自室のベッドによろりと突っ伏した。
(あのひと、誰だろう)
 美しい女性と楽しそうに会話するイチの姿が、頭から離れない。イチが調の知らない交友関係を持っていることは知っていた。この近辺でも、いつの間にか常連になっている店がいくつかあるようだ。
 今朝は調が仕事の件で外出することを告げると、
「調ちゃんが出かけるなら、俺ちゃんもちょっとブラブラしてこよっかなあ」
 と話していた。
(今までイチが連れていってくれたところも、あのひとと一緒に行ったのかな)
 調は一人ではめったに外食しないが、イチに連れられる形で行くことは多かった。調は初めて来る場所なのに、イチは「これ美味しいよ」とおすすめのメニューなんかを勧めてきたり、店員とも顔見知りになっていたりすることもある。いつも驚かされるのと同時に、イチの尊敬すべきところだと感じていた。
 けれど時折、そんな彼を遠くに感じることもあった。


 ベッドに突っ伏したままでぼうっとしていたら、いつの間にか夕方になっていた。頬に柔らかな感触があるのに気付く。
「あれ……ノラ」
「おはよう、なんだか疲れてるみたいね。よく休めた?」
 調たちと同じ言葉を操る猫、ノラはこの家の三人目の住人だ。自分の顔を前足で拭いながら問いかけてくる。
「……あんまり」
「仕方ないわね、あら、あなたのお目覚めに駆けつけてきたわ」
 ノラの声に首を傾げて、ふらついた足でなんとか立ち上がる。そのとき、玄関のほうから軽やかな声が聞こえた。
「たっだいまー」
 壁越しの陽気な声に、調はぎゅっと口を引き結ぶ。ノラは調のベッドの上に座り、じっと促すようにこちらを見ている。その目にさらされながら、扉の前で少しためらって、ひとつ息を吸って吐いて、やっと開けた。
「……おかえり」
「あ、調ちゃんただいまー、今日の仕事のオハナシ、どーだった?」
 扉からチラリと顔をのぞかせた調を見つけると、イチはぱっと顔を明るくして話しかけてくる。
「ああ……うん、今度展覧会を開いてもらえることになった。他の人とも共同の会場だけど」
「おおー、すごいじゃん! 調ちゃんの絵がもっといろんな人に見てもらえるんだねえ」
 本当に心底嬉しそうに、しみじみと口にする。なんだか居たたまれなくて、そそくさとキッチンに向かう。
「あー、今日は俺ちゃんが作るよ。調ちゃんはお仕事で疲れたでしょ?」
「べつに疲れてない……」
「いーからいーから。俺ちゃん今日はフラフラ遊んでただけだからさ、調ちゃんは休んでて」
 その言葉にぴたりと動きを止める。イチはその隙に調をソファのほうへ誘導しようと、両肩をやさしく押してくる。
「……ねえ」
 ソファの手前まで来て、調は振り向かずに言った。
「今日、イチは何してたの」
 背後の気配がかすかに動くのが、なぜかいやに怖かった。
「え? テキトーに遊びに行ってただけだよ」
 変わりない口調に、ソファの背を手のひらでぐっと掴む。イチが自分のことを極力語ろうとしないのはいつものことだ。それが今日はこんなにもどかしく思えるのは、あの光景を見てしまったからなのか。
「……綺麗な、ひとと、いた」
 ほんのしばらく走った沈黙が、耳に痛いほど突き刺さる。やがて間の抜けた声が返ってきた。
「へ、キレイなヒト?」
「女のひとと……一緒にいたでしょ。お昼過ぎ、あの大通りに」
 勢いで話してから、やっぱり口にしなければよかったと後悔した。いくら願っても口にした言葉は戻らない。目をぎゅっとつむってただ震えるしかなかった。
「ああー、あれか」
 少しの間のあと、拍子抜けするくらい軽い口調でイチは言った。
「調ちゃん見てたんだー、声かけてくれたらよかったのに」
「かけるわけない……楽しそうに、話してたから」
「えー、そんな感じに見えた?」
「あのひと……誰なの?」
 調はようやく振り返って、おそるおそる聞いた。イチは首をかしげて、んーと、と顎に手を当てる。
「オトモダチ、かな?」
「友達……」
「そうだ、調ちゃんも友達作る? 調ちゃんってあんまり外出たがらないから、たまにはいろんな人と話してみるのもいいと思うんだよねえ」
 こちらの困惑をよそに、イチは明るくそんな提案をしてくる。友達と言われて、余計に心の中に苦いものが広がる。彼の言う通り、調には友達と呼べるような人間はあまりいない。だからこんなに複雑な気持ちになるのだろうか。
「私は、いい」
 うつむいたまま答え、調はふたたびキッチンへ向かった。イチが何やら言うのも無視して、夕食の支度に取りかかる。
 結局、言葉数の減った調のサポートをイチはすることになり、ちぐはぐな空気の中なんとか夕食ができあがった。食事時もイチはあれこれと話しかけてきたが、調はほとんど生返事をするだけだった。できたての食事の味もよく分からなかった。


 そそくさと自室に引っ込んだ調は、深く長い息をついた。なぜ自分がこんな風になっているのか、自分でも混乱していた。
 心を落ち着けようと、イーゼルの前に座った。キャンバスにかけられた布をゆっくりと外すと、描きかけの絵が現れる。今日正式に決まった、展覧会に出展するための新しい絵だった。
 まだ下描きの途中で、色もほとんどつけていない。描こうと思っていたのは、砂浜と海だった。
 なぜか迷い込んでしまった不思議な夢の世界で、初めて海を見た。現実とは少し違う、時が止まった波打ち際と水平線。たった一度だけ見たあの光景を描きたかった。けれど、キャンバスに描いてみると何かが足りないような気がして、なかなか進められていなかった。
 題材を決めてから、いろんな海の写真や映像を見た。各地の海はどれも心を掻き立てるものがあったが、あのときの体じゅうに響く風と波の音、何かに突き動かされるような胸の高鳴りは感じられない。実際に目の前にしたときにしか得られないものなのだろう。

――初めて見る海がこんなに綺麗なら、悪くないかもね。
 海を見るのは初めてだと話した調に、彼はそう言って笑った。
 出口のない夢の世界は、どこまでも綺麗な代わりに得体の知れない恐ろしさがあった。何かを目にするたび立ちすくむ調の手を、ずっとイチは握ってくれていた。もし手を離されたら、二人のあいだに暗い闇が降ってきて、もう二度と触れられない気がした。そのことが一番怖くて仕方がなかった。
 イチは調の手を引いて、絶対に帰ろうと力強く言ってくれた。一緒に帰ることが彼の中で定められた未来であるのが嬉しかった。彼のおかげで、一緒に無事に帰ってくることができた。
 出会ったときからずっと、イチは調の手を引いて先へと連れて行ってくれる。当たり前のように、調のそばに今もいてくれている。
(私と一緒にいるのは、イチのためになってるの?)
 ふと、そんな思いが浮かぶ。自分よりも広い世界を知っている彼が、ここにいることは果たして良いことなのだろうか。外の世界に彼を取り巻く人々がいるのなら、ここではないどこかに、本来居るべき場所があるのではないか。
 彼の人生にあるべき可能性を、自分が潰してしまっているのではないか。
 調はもう一度、描きかけの絵をぼうっと眺めた。頼りなく薄い線で引かれた水平線が、遙か遠くに据えられた柵のように見えた。そこから先には立ち入ることができない。その柵のそばにすら、広い海を渡っていくことはできない。
 しばらく、その線をずっと指でなぞっていた。



 翌日、イチとの会話もそこそこに家を出た。本当は家にいて制作をする予定だったのだが、今の状態ではとても集中できなさそうで、予定を変更することにした。
 以前住んでいた街の近くまでやってくる。引っ越した今の家からだとそれなりに距離があるが、とても遠いというほどではない。
 やがて一つのカフェの前にたどり着く。カランと音を立てる扉を開けると、カウンターの向こうの人影が振り返る。
「いらっしゃいませ……って、おお、調ちゃん」
 マスターは目を丸くして、調を迎え入れる。朝食どきを少し過ぎた頃、店内に他の客はいないようだった。
 カフェには、マスターの厚意で調の絵を飾ってもらっている。以前イチに連れてきてもらってから何度か通っているうちに、そんな話になったのだ。
「ちょうどモーニングが終わったところだったから、貸し切りだよ」
「こんにちは、忙しい時間帯じゃなくてよかったです」
「あれ、もしかしてそれは」
 マスターが調の持っている大きなケースに気がつく。中には入っているのは、新しい作品だった。といっても、調が腕に抱えられるくらいのごく小さな絵だ。
「頼まれていたものです。少し遅くなってすみません」
「いやいや、しばらく立て込んでるって言ってたから、もうちょっと先かなって思ってたんだけど」
「作品自体は少し前にできてたんです。なので、今日なら……持っていけそうと思って」
 ケースを受け取ったマスターは、中身を恭しい手付きで取り出し、ほうと声を漏らす。猫が窓際で伸びをしているその絵は、ノラをモデルにしたものだ。
「いやあ……小さめのサイズでもこれはいいねえ。ちょうどこの壁のあたりにピッタリだ」
 そう言って、カウンター横のテーブル席に向かい、調の絵を掲げる。
「この絵の猫、不思議な気品があって惹き込まれるなあ……モデルとかいるの?」
「えっと、うちに住んでる猫です」
「へえーっ、そういえば前にも猫飼ってるって聞いた気がするなあ、綺麗な猫だねえ」
 調をカウンター席に座らせると、マスターはコーヒーを淹れてくれた。そのあとは手早く道具を取り出し、調の絵を壁に取り付けはじめる。ふうと満足げに息をつくと、またカウンター内に戻ってきた。
「やー、いっときも早く飾りたくって。放っといちゃってごめんね」
「いえ……おかまいなく」
 まだほどほどに熱いコーヒーと、静かな空間は心を穏やかにさせる。調は誰もいない店内と、午前中の明るい光が差し込む窓際を眺める。
「そういえば、今日はイチくんは?」
 どきりとして、思わず視線をうろうろとさせる。
「いえ……私ひとりです」
「あれ? ケンカでもした?」
「違います、してないです」
 マスターに向かって首を横に振る。喧嘩なんてものを、イチとしたことがあっただろうか。いつも調が一人で塞ぎ込み、イチが気を回してくれるような、そんなことばかりな気がする。このカフェに初めて来たときだってそうだった。
「仲直りしたら、またヒマなときは手伝いにきてよって言っといてね」
「だから、喧嘩とかしてないので……」
 イチは今ごろ何をしているだろう。一応行き先は告げたから、調が何をしに出かけたかは伝わっているだろう。また今日もどこかに出かけて、あの女性と会っているのだろうか。それともまた、別の“友達”と過ごしているのかもしれない。
 昔は、イチがどこに出かけていようが何も思うことはなかった。そのうち、危ない場所には勝手に行ってほしくないと思うようになった。夜にこっそり出かけようとするのを止めたこともある。
 けれど危険がないのなら、イチが誰と過ごしていようが止める理由などない。気にする理由だってないはずだ。それなのに、ずっと心が落ち着かない。
「イチはさ、手伝いにきたとき調ちゃんの話ばっかりするんだよね。調ちゃんがー、調ちゃんがーって」
「そ、そうなんですか……」
 自分の知らないところで自分の話をされていると思うと、なんだか気恥ずかしいような思いがして視線を落とす。
「調ちゃんの絵についても、こっちがひとつ褒めると向こうからみっつくらい返ってきてさ、ほんと一番の大ファンだよねえ」
 調は何も言えず、おずおずとコーヒーに口をつけるしかなかった。
「彼には負けるけど、もちろん僕もファンだけどね。お客さんからもよく聞かれるんだよ、すごく素敵、誰の絵? ってさ」
 飾られた絵のほうを見ながら、マスターはそうしみじみと口にする。
「ありがとう、ございます。嬉しいです」
「そういえば聞いたことなかったっけ……改めてファンの一人から質問なんだけど、調ちゃんってどれくらい前から絵描いてるの?」
 マスターの問いに、調は少しうつむいてから窓の外に視線をやる。
「小さい頃から、絵は好きで描いてました。でも……ちゃんと描き始めたのは、最近です」
「え、そうなんだ! なんかきっかけとかあったの?」
 途端、たくさんの記憶が波のように打ち寄せる。失ったもの、壊したもの、諦められなかったもの。その中にひとつ、揺るぎなく眩い輝きがあった。
 キャンバスにありったけの想いを描いた。朝も昼も夜もなく、ただ一つのことだけを願った。
「大切なものを……どうしても、描きたかったから」
 冷めてきたコーヒーカップに指を添える。つるりとした感触に、あの日触れた瓶のつめたさを思い出す。命の重みを胸に抱えて、あの薄暗い部屋で、選んだ。許されないはずの道を。
「じゃあ、小さい頃の夢をやっと叶えたって感じ?」
 あの頃の、小さな自分は夢見ていたのだろうか。絵描きになりたいなんて、そんな大それたことは考えていなかったような気がする。ただ父の背中に、その手が描き出すものに憧れていた。
――暁音のおともだち!
 そうして、スケッチブックの一枚にかつて願いを描いた。憧れを、詰め込んだ。
 自分でも忘れていたくらいに遠い思い出は、調を見つけて会いにきて、大切なものを届けてくれた。そして、今もそばにいてくれている。
(私の、願い……?)
 描き手の願いを乗せて、絵は生み出される。それならば、願いから生まれた存在はどう定義づけられるのか。
(私は、自分の願いを、形にした……)
 大切なものを、失くしたくなかった。ただそれだけだった。けれど。
 その命は、願いの檻の中で在り続けているとしたら。

「し、調ちゃん? 大丈夫?」
 マスターの声ではっとする。差し出されたナフキンの意味がわからず、しばし戸惑う。視界が揺れて、ぼやけていた。そうして、いつの間にか自分が泣いていたことに気がついた。




 波の音が聞こえていた。
 遠くから打ち寄せるその音は、しゃらしゃらと風に鳴るススキの音に紛れて響き合う。金と銀にきらめく一面のススキ畑の真ん中に、調は立っていた。
「調ちゃん、足元気をつけてね」
 隣から声をかけられる。調のすぐそばにはイチがいた。視線を下に向けると、調の手はしっかりとイチの手に握りこまれている。そのことに、とても安堵した。胸の奥がほどけるように息が漏れる。
「イチも、気をつけて」
「もちろん。手つないでるから、俺ちゃんがつまずいたら調ちゃんまで転んじゃうからね」
 へへっと調子良く笑ってみせる。こんな、よく分からない場所にいてもイチは変わらない。調を安心させるために、そうしているところもあるのだろう。少しだけ、悔しくてもどかしい。
 絵の具を薄く溶かしたような淡い空から、ぼんやりとした光が降る。どこから差しているのかわからない光を反射して、ススキの穂はちらちらと揺れる。

 しばらく歩いていると、ススキ畑には果てがあった。波の音が大きく体全体を揺らし、すぐ近くに海があることが分かる。
「お、こっから崖になってる」
 イチがぴたりと立ち止まる。見ると、数歩先の地面がぱっつりと途切れていた。ちらりとのぞくと、崖下には激しい荒波が飛沫を立てて打ちつけている。
 調が思わず後ずさると、イチは調の前に立ちはだかるように移動する。
「下見て怖くなっちゃった? うっかり落ちないように、これ以上近づかないほうがいいよ」
 まるで通せんぼするように、つないでいないほうの手をぴっと真横に出す。
「落ちないから……あなたも、もうちょっとこっちに来て」
「俺ちゃんはだいじょーぶだって」
 そう言ってイチは、崖の向こうに視線を投げかける。調と違い、その目は少しの恐れも感じられないように見えた。むしろ、まるで離れがたいものを見るような、もっと近づきたがっているかのような色をたたえていた。
 調は背筋がつめたくなるのを感じ、つないだイチの手に力をこめてこちらに引こうとした。

 そのとき、少しだけ強い風が吹いた。
 風に煽られ、足元がぐらりと揺らぐような感覚に陥る。びゅうと吹きすさぶ音に紛れて、ほとんど聞き取れないくらいのかすかな声が耳に届く。
「ここから落ちたら、夢から覚めるかな」
 陽が雲に隠れたかのように空が陰る。目の前の彼の表情が見えなくなる。
 何か言おうと思ったそのとき、ふいに彼の姿が掻き消えた。目の前に、空白がぽっかりとできた。つながれた手が、離れた。
 調は声にならない声をあげ、崖際から下をのぞく。ただそこにあるのは、激しく荒々しく打ち寄せる波だけだ。黒々とした岩に白い飛沫をまき散らし、何事もなかったかのように何度も何度も波は寄せてぶつかって、はじける。
 闇が訪れた。空が反転したかのように色を変え、調の頭上に降り注ぐ。その光景を、焦点の合わない瞳でなすがまま見つめていた。
 そうして、都合の良い夢はいつか終わる。



「あ……!」
 自分の細い叫び声で目が覚めた。シーツの感触と、暗闇の中にある見慣れた家具を確かめる。自分の部屋だ。布のかけられたキャンバスのそばに散らばった資料は、眠る前に広げたものだと思い出せる。
 明かりの落とされた暗い部屋で、浅い呼吸を繰り返す。全身に嫌な感覚がある。じっとりとした汗で服が肌に貼り付いている。
 調は考えるより先に起き上がり、上着を羽織って自室から飛び出していた。居間を通って、まっすぐにイチの部屋を目指す。積んでいた雑誌に足をひっかけて転びそうになってしまう。ドン、と机に手をついて大きな音を立ててしまった。
 そんなこともかまわず、ほとんど体当たりする勢いでイチの部屋の扉を開ける。しかし、調が手をかけたところで扉のほうが勝手に開いた。
「うおっ」
 部屋からイチが出てくる。驚いた調はつんのめってイチの胸に倒れこむようにぶつかってしまう。
「わっ」
「調ちゃんどしたの? さっきの音、調ちゃん? 大丈夫? 転んでない?」
 思わずへたりこんだ調と一緒にしゃがみ込んで、イチは心配そうに聞いてくる。間近にあるイチの顔はいつもより少し慌てていて、けれどいつもと変わらずそこにある。腕に触れた手の温度はあたたかく、確かに彼が幻ではなくここにいると感じさせる。
「だい、じょうぶ」
 やっとそれだけ口にする。調の腕をつかんだまま、なおもイチは不安そうな顔をする。
「こんな夜中に、何かあった? 部屋にでっかい虫とか出た? それとも、怖い夢でも見た?」
 調は明らかに動揺した顔をして、それを隠そうと目を逸らした。なんでもないと、何もなかったと、言わなければいけない。彼に心配されるようなことは何もないのだと、思ってもらわなければいけないのに。
「調ちゃん」
 顔を背けた調に、イチはそっと声をかける。肩にやわらかく手が添えられる。
「最近さ、調ちゃんいつもと違うっていうか、様子おかしいなって思っててさ……何かあった? ていうか、俺ちゃんまた何かしちゃった?」
 いつもよりゆっくりと、言葉を選んで話しているのがわかった。
「もしかして、また調ちゃんを怒らせちゃったかなって……いつも俺が悪いことばっかりなんだけど、俺ちゃん、言われないとなかなか気付けないから……何か思ってることがあるならさ、教えてほしいな」
 イチの真剣なまなざしが、調にまっすぐ突き刺さる。胸が軋むほど痛く、泣きたいほどに眩しくていとおしいその形は、調がこの手で描いたものだ。その目も耳も鼻も唇も傷も、調が願って、描いたとおりにすぐそこにある。
 肩に添えられた手はじんと熱く、確かな命が息づいている。この肌の内に巡る血には、調のものもあるのだろう。自分の体の一部をわけて生まれた彼は、どこまでも眩しくて、優しい。
「違う、イチは……悪くない。私が、全部悪いの」
「悪い? 調ちゃんが悪いって、どういうこと?」
 調はイチの手から逃れようと後ずさる。イチは何も悪くないから大丈夫だと、何も気にすることなどないと、笑おうとした。彼がいつも、調にそうするように。
 けれどなぜか、喉が震えてそれ以上何も言葉は出てこない。涙まで勝手ににじみ出てくる。必死にこらえながら、悔しくて仕方がなくて、それでまた泣き出しそうになる。
「調ちゃんが悪いことなんてあるわけない。もしまたなんか思いつめてるならさ、俺ちゃんがいるから、ね」
 優しい言葉は、本当ならとても嬉しいはずなのに、聞きたくなかったと思ってしまった。何か言われれば言われるほど、耳を塞ぎたくなった。
 笑うどころか、ちっともまともな言葉を紡がない唇は、ただ開いたり閉じたりを繰り返すだけだ。こんな何もできない自分のために、彼はこの狭い世界に閉じ込められている。
「私が……私……ごめん……ごめんなさい……っ」
 調はイチの手をぱしんと強く振り払うと、そのまま玄関に向かい外に飛び出した。


 外には、夜中のつめたい空気と静けさが満ちていた。
 どこかに行こうとはっきり思ったわけではなく、とにかくあの場を離れたかった。誰もいない道に当てもなく駆け出す。しんとした町に調の足音だけが響く。
 こうしていると、世界に一人だけ取り残されたような気分になった。調以外の人間はどこかに行ってしまったけれど、自分だけはまだここにいる。
 それはひどく懐かしい感覚だった。すべてを失い、誰もいない世界で生きていた。すべてのことは自分の遥か外側で起きていた。
 あのときのように、もう自分がいつ終わってもいいとは思わない。イチに届けてもらった命なのだから。
 一人の世界を、調は足早に駆ける。ここで生きていかなければならない。あのあたたかい手から離れ、遠くに行かなければいけない。ただぼんやりとそんな思いに駆られ、足は進む。



 川の音がして、調は立ち止まる。歩いているうちに、家の裏手から少し離れた河川敷に来ていた。開けた空に、星々の瞬きがよく見える。
 調はそばにあったベンチに腰かけ、星空をながめた。どれがどの星だとか、どの星座だとかはよく分からない。イチならきっと分かるのだろう。
 連星という言葉を思い出す。あのときイチが教えてくれた。広い宇宙の中で近くにあり、互いに廻り続けるふたつの星。
 イチと一緒に炎に包まれたとき、未知への恐怖を深い安堵が塗りつぶすのを感じた。イチの腕の中で調は確かに星の一部だった。二人でひとつの輝きだった。
(本当に、連星になれたらよかったのに)
 何も思わず、手を繋いで廻っていられたらよかった。少し前まで、イチと一緒にいる未来をただ信じていた。なのに、今は悲しくてたまらない。自分が願えば願うほど、イチの何かがねじ曲げられていくのではないかと怖くて仕方がない。
 なぜもっと早く気付かなかったのだろう。おそらく、調自身も気付かないようにしてきた。ただ一人にしてほしくない、一緒にいたいと彼にすがってきた。
 けれど、それではいけない。イチの行く先にはきっともっと広い世界が広がっているのだろう。そのことをきちんと胸に戒めなければならない。
 暗闇に手を伸ばした。カムパネルラを探すジョバンニのように、どことも知れない空の向こうを見ようとした。闇に指先は溶け、向こう側はうまく見通せない。
 それでも、ここから大切な背中を見送らなければならない。遠い銀河の海の向こうまで、どうかとこしえに幸いであれと願うのだ。


「やっと見つけた」
 闇の中に、ぷかりと影が現れた。幻のように、遠く思い描いた姿が輪郭を持つ。
「調ちゃん、足速くなった? 俺ちゃんけっこうな全力で追っかけたよ」
 イチは汗を拭うような仕草をして、呆けたままの調の前にしゃがみ込む。そうして両手をそれぞれ取ると、ぎゅうと調の膝のあたりで握り込む。
「こんな夜中に一人で出てったら危ないでしょ、家の近所とはいえ何かあったらって心配しちゃったよ」
 真面目に、こどもをやさしく叱るような口調で言う。
「……あなただって、夜中に出かけるじゃない」
「俺ちゃんはー……いや、そうじゃないか。うん、調ちゃんの気持ちがちょっと分かったよ」
 イチは眉を下げて笑う。その表情から目を背けるようにうつむいて、唇を噛む。
「……ごめんなさい」
「うん、とにかく無事で……」
「でも、もう、やめて」
「へ?」
 調は目を伏せ、絞り出すように告げた。
「私に、そんなに優しくしないで。イチは、自分のことを一番に考えてほしい」
 少しの沈黙のあと、イチは困惑したような声で言う。
「えーっと……どういうこと? 調ちゃんに優しくしちゃダメ……? 俺は俺のことを……って、さっぱりわかんない……」
「……私のこと、今までみたいに気にかけないで。イチにはイチの世界とか、好きなものとか……友達がいるでしょう。もっと、そっち側をちゃんと見てほしいの」
 話しながら、深く息を吸う。鼻の奥が痛くなるのを必死にこらえる。まるでなんでもないことのように話そうと、拳にぐっと力をこめる。
「イチが、本当に行きたいところに行ってほしいから」
 それだけは、ちゃんと目を見て言うことができた。
 しかし調の言葉を聞いて、イチはなおも戸惑った様子を見せる。
「俺の世界って……そんなの、調ちゃん以外は正直どうだっていいよ。行きたいところだって、今もけっこう好きに行ってるし」
「違うの、それじゃだめなの」
「だめって、何が?」
 彼は不可解そうに問いかけてくる。調を逃がさないというように両手をしっかり握り込んだままでいる。調が手を引こうとしても離そうとしない。
「離して」
「先に教えてよ、何がだめなの? というか、調ちゃんずっとこのことで悩んでたの? なんでそんなこと考えたの?」
 イチは答えるまで離さないという勢いで次々に質問を投げかけてくる。
「ちがう、私じゃ、だめなの……私以外どうでもいいなんて、やめて、言わないで」
「いや、だから、調ちゃんの何がだめなの? 俺ちゃんは調ちゃんと一緒にいたら……だめって、こと?」
 イチの言葉はだんだんと途切れ途切れになる。本当に、心から悲しそうな目をしていた。その目を見ていると頭の中がぐしゃぐしゃになってくる。
 自由に生きてほしい。遠くまで行ってほしい。こんなに強く願っているのに、彼はそれでも悲しそうな目を向ける。そのことがひどくもどかしく、苦しい。
「調ちゃんが、もう俺と一緒にいたくないっていうなら、仕方ないけどさ……もしそうなら、けっこうショックだなって……」
 違う、と言いそうになって、喉の奥で言葉がつかえる。何を、どう言えばいいのだろう。本当は何を言いたかったのか、彼にどう分かってほしかったのか、もう何もわからない。
「私は……あなたのこと、これ以上縛りたくないの」
 頭がぐらぐらと揺らぐ。これも自分の作り出した空想との会話なのだろうか? 思い通りの存在とは何なのだろう?
「あなたが優しくしてくれればくれるほど、私が描いたあなたの命は、私のためにあるように自分で仕向けたんだって思ってしまう。こんな弱い私を守ってくれるように」
 口にするはずのなかった言葉がぼろぼろとこぼれていく。
「あなたに幸せになってほしい、自由に生きてほしい……だから、私に縛られたままであってほしくないの……」
 イチがどうか自由で、彼らしくあってほしいと、それはずっと願ってきたことだった。
 彼の人生を再び生み出した者として、調には責任がある。彼が思うように生きていけるように、自分にできることはすべてしなければならない。

 しばしの沈黙が走る。夜の静寂の中に、川の流れる音と二人だけが存在していた。
「……それが、調ちゃんの本心?」
 イチは曇った表情で、じっと調を見上げてくる。
「俺ちゃんは正直、調ちゃんに縛られるなら本望……って言ったら、また不安になっちゃう?」
 調は何も言えず、唇を引き結ぶことしかできなかった。一瞬見えたおどけたような笑みは、すぐに引っ込む。
「調ちゃんは俺をこの手で描いてくれたけど、いや、俺ちゃんってそんなに調ちゃんの理想どおり? 前はシロのコピーみたいなもんって思ってたけど、とはいってもシロの思ったナイトとはやっぱりちょっと違ったかなあって」
 夜風に冷えてきた手をあたためるように、イチは調の両手を包む。
「でも俺には分かんないや。俺は今の俺ちゃんのこと気に入ってるし、自分がこんな風になるなんて思わなかった。それがたとえ調ちゃんに仕向けられたことでも、俺は満足してるよ」
「なんで、そんな風に言えるの。あなたの存在はあなたのもので、私にねじ曲げられていいものじゃないのに」
 イチはふっと、さみしそうに笑う。
「俺は調ちゃんのおかげで、今の気に入ってる自分になれたから、それがねじ曲げられたっていうならそういうことになっちゃうかな」
 でも、と言葉を続ける。
「やっぱりさ、考えても考えても、同じとこに行き着いちゃうな」
 イチは調の両手を握ったまま、こつんと自分の額を当てた。祈るような、縋るような仕草にも見えた。
「賭け事で負けることとか、自分が死んじゃうこととかより、他の何よりも……調ちゃんに嫌われるのが、一番怖い」
 調の膝にうずくまったまま、イチは顔を上げずにじっとそのままでいる。動かない姿に、調はぽつりぽつりと声をかける。
「あなたは……私にいろんなもの、届けてくれた。闇の底からすくい上げてくれた。だから、私の望みじゃなくて、あなたの望みのために生きてほしいって……私は……」
 イチはうつむいたままで、ぎゅっと手に力をこめた。その表情は陰になって窺い知れない。
 ただただ、せせらぎの音がざあざあと時を流れていく。どのくらい時間が経ったのか、ようやくイチは顔を上げた。
「……俺ちゃんのこと、調ちゃんがいろいろ考えてくれてるのは分かった。でもさ……俺の望みって、やっぱり変わんないや」
 イチはうん、とひとつ頷いて、息をつく。
「調ちゃんに嫌われたくない。嫌われたくないから、調ちゃんの喜ぶことがしたい。それじゃあ……ダメ?」
 調は視線をさまよわせる。彼の望みを自分が否定することなどできない。けれど、やはりそれでも否定しなければならないのだろうか。
「調ちゃんと、離れたくない。でも、もし俺が離れることが調ちゃんの喜ぶことなら、そうしないといけないって思う。だから……調ちゃんのホントの本心を教えて」
 イチは屈んでいた膝を地面に突かせて、調との距離を詰めてくる。
「俺と一緒にいるの、もう嫌になっちゃった? 俺のこと、嫌いになっちゃった……?」
 じっと、真っ直ぐに見つめられる。じりじりとした眼差しに、体が震えた。イチは真剣に問いかけている。同時に、彼が恐怖しているのが手から、目の色から伝わってくる。
 とてつもない苦しさに襲われる。息が詰まって胸の奥に鋭い痛みが渦巻く。彼を解放したかっただけなのに、こんなにも苦しめてしまった。
 イチに何度問うても、彼の望みは調と切り離せないと言う。それをどうして彼以外が否定できるだろう。
 なんと答えればいいのか、たくさんの言葉が浮かび、けれどすべてかき消えていく。イチは本心を教えてほしいと言った。その瞳は、ただ一つの答えしか許してはくれない。
「あなたのこと、嫌うわけない。絶対に、嫌ってなんかない」
「ほんとに?」
 ややあって、調はこくりと小さく頷く。
「じゃあ、俺と一緒にいるのは嫌? もう一緒にいたくない?」
 またほんの少し距離を詰めて、聞いてくる。ずっとかすかに震えたままの彼の手がとても冷たくなっているのに気がつく。調は、握られたままの指を動かして冷えた手のひらにそっと当てた。
「そんなこと、あるわけ、ない……あなたと一緒にいられて、本当に、幸せだと思ってる」
 イチは安心したように、ほうっと長い息をついた。それからきゅっと目を細めて表情を崩す。
「じゃあ、むずかしいことは置いといて、それだけでいいじゃん。ダメ?」
 柔らかな笑顔に、胸のうちにかたく縛っていた何かがほどけていく。調の目からぽろりと涙が落ちる。
「それだけで、いいの……?」
 イチは震える調の背を引き寄せ、腕の中に抱きしめた。あたたかな手のひらで背中をさすって、いいよ、いいでしょ、と繰り返し言う。言葉はだんだんとしみ込んで、ずっと胸の内に渦巻いていたものが徐々にぼやけていく。
(置いておいて、いいのかな)
 イチに言いくるめられると、それでいいのかもしれないと思ってしまう。差し出された言葉に騙されることを選んでしまう。
 イチのこれからを心から願うのなら、もしかしたら無理やりにでもこの温もりから離れるべきなのかもしれない。でももういまさらそんなことができるはずもなかった。
 なぜ離れようと思えたのか。イチの胸のあたたかさに、少し速い鼓動に涙が吸い込まれていく。ここから何があっても離れたくないと心が言う。声とともに体の奥に震えるような熱が灯る。その熱に、いつかの思いがはっきりとよみがえる。
(あなたと一緒に、このひとつきりの命を燃やしたい)
 イチを描くことを選んだときから、イチと一緒にいたいという願いしかここにはなかった。たとえそれが愚かな過ちであっても、自分のイカサマは最後まで抱えていかなければならない。
 どれほど利己的でも、イチの人生の可能性を奪うことになっても。

「私、あなたの隣に立てるような自分になりたい」
 イチの胸の中で、祈るように呟いた。
「調ちゃんは、もうじゅうぶん可愛くて素敵だよ」
「そういうことじゃなくて……あなたに手を引かれるだけじゃいけないって、そう思ったの」
「んー、どっちかというと、俺ちゃんが調ちゃんに教えてもらうことのほうが多いような気もするんだけど……」
 二人で首を傾げたまま見合って、互いにふっと笑みがこぼれた。
「よく分かんないけど、調ちゃんがやりたいっていうなら、俺ちゃん応援するよ」
「応援、してくれるの」
「もちろん」
 イチは体を離してぱっと立ち上がり、調の隣に腰を下ろす。そして再び片腕を回して引き寄せてきた。調の頭がイチの肩にこつんと当たる。
「こんな街中でもけっこう見えるもんだなー、穴場スポットかも」
「私も、知らなかった」
「でもさ、山の上とか、もっと街明かりから遠いとこだとこんなもんじゃないよ。一面光の海って感じ」
「光の……海」
 ふと、昔の記憶がよみがえる。家のすぐ裏手から、両親と見た星空のこと。一面の光が今にも降ってきそうなほど散りばめられていたこと。
 その光景はぼやけていて、はっきりとは思い出せない。けれど調の心の大事な場所にしっかりとしまわれていた。
「イチとも……一緒に見たい」
「うん、一緒に行こう。車は調ちゃんに出してもらうことになっちゃうかもだけど、毛布とかおやつとか用意してさ」
 イチがとても楽しそうに話すのが、肩の揺れから伝わってくる。
「調ちゃんと約束したこと、いっぱいあるね。海も行きたいし、旅行もしたいし」
「うん」
「全部、俺と一緒にかなえてくれる?」
 つむじの上からイチの声が降る。調の髪に軽く顔をうずめて、確かめるように聞いてくる。
「うん……あなたと、一緒にする」
 調が答えると、イチは肩に回した腕にいちだん力を込めて、髪にうずめたままの顔をそっと押しつけた。
「……よかった」
 ほんの小さな声が、くぐもって聞こえた。
 それから空が少し白むまで、二人で星を見ていた。イチが夜空に指をさして、星の名前や星座の形をいくつか教えてくれた。教えられた一つひとつを、噛みしめるように胸のうちで繰り返した。大切に覚えておけるように、憧れた場所へ届けるように。




 展覧会の日は、よく晴れた週末にやってきた。
 朝のもうすぐ開場時間を迎えようとする頃、調は控え室の奥で固まって動くことができなかった。
「ほら、調ちゃん、もうすぐお客さん来るよ?」
「ちょっと、待って……イチは行ってきていいよ」
「調ちゃんほっといて行けないって、背中さすってあげようか?」
 調が首を横に振ると、イチはあからさまにがっかりしたような顔をする。それでも近くに立って、じっと調の様子をうかがっている。
 自分の胸に手を当てると、いつにもなく鼓動が速まっているのを感じた。今までマスターのように個人へ絵を渡したり、ごく小さな場所で見てもらったりしたことはあった。しかし今回のように会場に自分の絵がいくつも飾られ、多くの人の目に触れるのは初めてだった。
「今までも、でっかーい美術館とかに調ちゃんの絵飾ってたよ?」
「それは贋作の話でしょ」
「それでも、調ちゃんの絵ってことは変わりないし」
 むんと腕組みしたイチはなぜか誇らしげだ。
「ね、会場の様子こっそり見てみない? みんなに挨拶するんじゃなくて、見るだけ見るだけ」
「今出たら、見つかっちゃう」
「だいじょーぶ、俺ちゃんこの前会場来たとき、こっそり見える場所見つけたんだよねえ」
 イチは調に手を差し出して、笑顔のまま待っている。その様子があまりに楽しそうで、調の口元がつられて少し緩む。
「分かった。見るだけ、行ってみる」
 二人で部屋から出て、人気のない区画を通る。その向こうにひとつ小窓のついた扉があった。
「こっからだと、よく見えるでしょ?」
 会場にはすでに多くの人が次々に入ってきており、それぞれの絵を思い思いに眺めている。調たちの立っている場所からちょうど右斜め前あたりに、調の絵のひとつが飾られている。この展覧会のために描き上げたものだ。
 その絵の前には、何人かが集まっていた。指をさして、なにごとか話している。調が自分の服の裾をぐっとつかんだとき、絵の前に進み出た少女が声をあげた。
「この絵、きらきら! 海に星がいっぱい!」
 笑顔ではしゃいだ少女に、保護者であろう男女がうなずいて答える。
「そうね、波がまるで天の川みたい」
「砂浜の赤いふたつは、もしかしてさそり座を意味してるのかな」
「さそり座? このふたりも星なの?」
「さそり座には心臓と呼ばれる赤い星があるんだよ。ふたり、確かに一緒に光ってるみたいにも見えるね」
「うん、ふたり一緒に海で遊んでるのかも!」
 家族は絵の世界について和やかに語りあう。そこにまた別の人がやってきて、口々にそれぞれの感想を話す。調が描いた大切な思い出が、見た人の思いによってもっと広い世界につながっていく。
「ほら、見にきてよかったでしょ」
 イチはにっと歯を見せて得意げに言う。調はほんの少し滲んだ涙を指で拭い、こくりと頷く。
「見てもらえることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった」
 イチはうんうんと頷いて客たちの様子をにこにこと眺めている。
「あの人たちに自慢したいなあ。俺、調ちゃんに描いてもらって生まれたんだーって」
「それ、どうやって説明するの」
「でもこんな可愛い子だってバレたら、変なファンがついちゃうかも……まあ俺が撃退すればいいか」
「物騒なこと言わないで……」
 やがて、調は深呼吸をひとつ、もうひとつして、しっかりと扉の前に立つ。イチもその隣で、うーんと伸びをしている。
「イチ」
「なあに?」
「もし、他の人に私の絵を気に入ってもらえたとしても、イチが『1号』なのは変わらないから」
「ん? うん」
「だから……」
 背伸びをして、イチの耳元でそっと伝えた。
「イチが友達と楽しく過ごしても、ちゃんと帰ってきてね」
 ぱっと離れて、調は扉を開けようと手をかける。その手にイチの手が重なる。見上げると、やさしい笑みが促してくれる。当たり前でしょ、と言うように、しっかりとふたつの手の温もりがひとつになる。
「行こう」
 うす暗い廊下に、扉の向こうから光が差し込む。人々のざわめきが鮮やかに届く。二人は、そんな未知の海に足を一歩踏み出した。
 







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