ひとつごと踏みしめるように

アリゼーが水晶公と喋る話です。
時間軸は漆黒5.2〜5.3(ソウル・サイフォン製作中)くらいです。
光の戦士は話題に上がるだけで登場しません。性別・種族についての言及もありません。



2025-02-01
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 ざり、と土を踏む音がした。眼前の少し距離をあけた先には緑色の脚と黒光りする爪が見える。草むらをかき分ける脚がいやにゆっくりと迫ってくる。
 伸びた草に足をとられた一瞬の転倒だった。ほんの少しの油断。けれど戦いのなかではそれひとつであっさりと命を失うことがある。
 アリゼーは唇を噛んだ。脳裏によぎるいくつかの光景に気をとられかけて、地面に爪を立てる。隙あらばこちらを絡め取ろうとしてくるこの感傷に、いちいち捕まってやるつもりはない。
 地面をぐっと手のひらで押し、力の勢いに乗って対象の横っ腹に跳ぶ。地に投げ出された剣をつかむと、そのまま体をねじり、斬撃を叩き込む。クリスタルが光を放ち、剣先に魔力が灯る。
「これで終わりよ!」
 注ぎ込んだ力が目の前の体を薙ぐように払われた。最後の一撃が命中し、敵は完全に沈黙する。

 はあ、と少し肩で息を繰り返しながら、剣を鞘におさめる。周囲に魔物の気配はなくなったようだ。
 訓練のために小型の魔物の討伐を請け負い、レイクランドの森まで来た。そのはずがとんだ命懸けの戦いになってしまった。情けなさに気が滅入り、思わず膝をついてしまいたくなる。
(こんな魔物にすら手こずってたら、恥ずかしくて顔向けできないわ)
 気合いでなんとか踏ん張って、空を見上げる。抜けるような晴れ空と風に揺れる樹々が遠くまで続いている。冴え冴えとした溢れる白い光ではなく、自然の光のまぶしさが降り注いでいる。
 祖父の思いを継ぐと決めたときから、ずっと願っていた。少しでも強くなりたい。あの人に並び立つなんて夢のまた夢かもしれなくても、その思いを抱いて走っていきたい。
 そんな願いは一度、光と闇の狭間で粉々に砕かれた。


 ――お前にはもう、戦う目的がない。
 あの人は最後まで倒れなかった。強大な力と運命の前で、自分の体が異形に変わる恐怖を抱えながらも諦めなかった。覚悟を引き受け、その足で立ち続けた。
 ひきかえ、アリゼーが為したことなどほんのひと欠片もあるかどうかわからない。確かに自分たちは皆の力を合わせて打ち勝った。そのために力を尽くしたことを小さく見るつもりはない。
 けれど結局は、すべてを英雄の身に背負わせ光の力を押しつけてしまった。いつ壊れるともしれないその身を見つめながら、はてしない自分の無力さを思い知った。遠い故郷の家を離れてから何度も覚えた中で、ひときわそれは強いものだった。


「痛っ……」
 ふいに足にズキリと痛みが走る。さっきの戦いで転倒したときにどこか怪我をしてしまっただろうか。その場で簡単に治癒魔法をかけてみたものの、痛みはなくならない。
 ため息をつく。本来なら難なく倒せるはずの魔物に手間取っただけでなく、負傷までしてしまった。いままで自分の積み上げてきたものはみんな自惚れだったのかと思いたくなってくる。
 たまらなくなって、自分の頬を両手でパンと打つ。街道に戻り、従者の門の方角を目指して歩き出す。今日はもう引き上げたほうがよさそうだった。






 クリスタリウムにやっと帰り着いた。心身ともに疲弊した体をひきずった帰り道は想像よりとても長く感じられた。
 昼を少し過ぎた頃、街はいつものように活気のあるにぎわいを見せている。アリゼーが初めて訪れた頃、まだ夜のないときもこの街は希望の空気に満ちていた。世界の危機に瀕しても明日を諦めようとはしない人々を見て、自然と身が引き締まったことを思い出す。
 ふと、脳裏に光景がよぎる。原初世界で最後に見た戦場の風景。こちらに手を伸ばすあの人の必死な表情。
 ――ひとりにしたら、許さないんだから。
 そう言ったのに、あの人を一人残してきてしまった。けれどまたこの世界で再会することができた。今もこうして一緒に戦うことができている。
 帝国との戦線は膠着状態と聞いているが、実際にはどうなっているのだろう。魂の帰還が成功するまで原初世界に戻ることはかなわない。こちらと向こうの世界では時の流れがずれているらしいが、もう一年以上は離れていることになる。遠い故郷を思って、少し懐かしい思いになる。

 足の痛みはだいぶ引いてはきた。けれど一応傷薬だけでももらっておこうかと、スパジャイリクス医療館のほうへ向かう。
 入り口から中をのぞくと、奥のほうに薬をもらいにきた住人や怪我の手当をしてもらっている兵士が数人いるようだ。今日はおおむね平常通りといった様子の館内に入り、薬の棚の近くにいた館員に声をかける。
「ごめんなさい、傷薬を少しもらいたいんだけど」
「傷薬ですか? どこかお怪我を?」
「ちょっと足をね。たいした傷じゃないけど、一応塗っておこうかと思って」
「念のため、ここで診ますよ」
「大丈夫よ、そこまでしてもらわなくても」
 そんなやりとりをしていると、アリゼーの背後からぬっと人影が現れたことに気付く。
「あらぁ……誰かと思えば……闇の戦士さまご一行の……」
「館長! この方お怪我をされたみたいで……」
「入ってきたときから足をかばっていたし、気付いていたわよぉ……さ、こっちにいらっしゃい」
 何か言葉をさしはさむ暇もなく、館長のシェッサミールに医療館の奥まで連れていかれた。有無を言わせない迫力だ。
「さあ、靴を脱いで。痛いのはここね……?」
「そ……そんなに痛いわけじゃないわ」
「強がってはダメよ……今お薬を塗ってあげますからねぇ……」
 シェッサミールは小さな容器を取り出し、足の傷に中身を塗り込みはじめた。
「い、い、い……いったああああい!!」
 アリゼーの口から、たまらず子どもみたいな大声が出た。


「はぁい……これで大丈夫よ、しばらくは傷の状態も気にかけてあげてちょうだいねぇ……」
「ありがと……軽い傷なのに丁寧に診てくれて、助かったわ」
 シェッサミールは治療道具を片付けながら、アリゼーのほうを見やる。
「あなた……気付いてなかったようだから教えてあげるけどね……傷口に少量の毒が付着していたわよぉ……」
「え、毒……?」
「おそらく、レイクランドに自生する植物の一種でしょうけど……その草が肌を傷つけると、正しい処置をしないとあとで大変なことになる場合があるのよ……」
 転倒したときの記憶を思い返す。地面にさまざまな草が生い茂っていたが、あの中にそうした危険な植物があったのだろうか。
「だからねぇ……怪我を甘く見ちゃダメよ。自分の体のことは、やりすぎなくらいに大事に大事に気にかけてあげないとねぇ……」
「……わかったわ、私が軽く見すぎてたのは確かみたい。肝に銘じるわ」
「いいわね……言うことを聞かないと、またキツーいお薬を塗り込んじゃうわよぉ……」
 アリゼーが顔を引きつらせると、シェッサミールはふふ、と妖しい笑みを少し緩めてみせる。
「特にあなたたちは……この世界を救ってくれた闇の戦士さまたちで……公の大事な方々なんだから」
 ひときわ感慨のこもった話し方に、アリゼーはそっと目を伏せる。闇の戦士、水晶公の大事な人、それはすべてあの揺るぎない英雄を指す言葉だ。自分もそこに加われるのはとても光栄なことだ。けれどあの人の近くにいるだけでそう呼ばれることに、時折複雑な気持ちも生まれる。
「そう言ってもらえて……嬉しいわ、ありがと」
「フフ……ところで、この治療費代わりというわけではないけど……あなたにお願いがあるのよぉ……」
 シェッサミールはがさごそと棚をあさり、ひと抱えもある紙袋を取り出した。
「なに、この大きな袋……? どこかに届ければいいの?」
「その通りよぉ……届け物をしてほしいの、お願いできる……?」
「そのくらいお安いご用よ、宛先はどこの誰?」
 アリゼーがとんと胸を叩いてみせると、シェッサミールは安心したように目を細めた。
「助かるわぁ、公のご友人の誰かにお願いできたらと思ってたのよぉ……」
「私たちじゃないと、危険な場所なの?」
 シェッサミールは首を横に振る。そうして医療館の入り口の方角にゆっくりと顔を向けた。
「公のところに、これを届けてほしいのよ」




 
 アリゼーは塔の階段を一段ずつのぼりながら、水晶の壁や装飾をながめていた。かぎられた人間以外立ち入ることのないこの塔はいつも静謐な空気をたたえている。
 四方八方が美しく透き通ったきらめきを放っていながら、圧倒されるように厳かな神々しさも感じられる。天に伸びていく階段をぼうっと目にしていると、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまいそうだ。
(あの人は、原初世界でもこの階段をのぼったのかしら)
 クリスタルタワーはアラグ時代の遺物であり、第七霊災を経て地中から出現した。アリゼーにはその程度の知識しかなく、初めて第一世界でこの塔を見たときもその存在について特別な何かを思うことはなかった。
 クリスタルタワーが本当はどういった目的で作られ、なぜ遺されたのか、英雄がおおまかに話してくれたことがある。ノルヴラントに夜が戻ったあとのことだ。

 英雄と水晶公とは原初世界で出会い、ひとときの冒険を繰り広げたという。水晶公は、クリスタルタワーを未来の希望のために遺そうとした人物の末裔らしかった。そのために塔を制御する力を持ち、次元の狭間を越えて送り出されてきた。多くの人々の願いとともに。
 そうして百年かけて街を築き、アリゼーたちをこの世界に召喚した。自らを塔の一部に変え、一度は光の力を引き受け自らを消し去ろうとした。英雄のために、彼は文字通り彼自身のすべてを懸けつづけ、ここまで来たのだ。
 水晶公は、アリゼーにとって不思議な人だった。多くの人に慕われ、頼りになる優しい指導者であり協力者。それなのに、度々ひやひやさせられて、もどかしく見ていられないときもある。
 ときどき羨ましい、と思うこともあった。


「よっと……」
 シェッサミールから預かった袋を抱えなおし、ようやく星見の間の前に着く。
 水晶公はこのところずっとソウル・サイフォンの制作にとりかかっている。アリゼーたちの魂を原初世界まで帰還させるため、さまざまな試行を繰り返してくれている。
「邪魔するわよ、水晶公……いる?」
 扉を開けるまえにいちおう声をかける。普段は招集がかかってから訪れることが多かったので、いつもあちらから出迎えてくれた。
 けれど今日はいやに静かだ。突然訪問してしまったから、たまたま不在なのだろうか。しかし途中まで案内してくれた守衛は、そのようなことは言っていなかった。
「入るわよ」
 嫌な予感がして、中に踏み入る。いつも皆で集まる広間はがらんとしていて、誰もいない。ぐるりと見渡し、脇にある水晶公の私室に続く扉を見やる。少し半開きになっている。アリゼーはためらいなくそちらに駆け寄り、扉を開け放った。
 水晶公の私室に入るのは初めてだ。さまざまな本や器具が並べられている棚、書類の散らばったテーブル、飲みかけの茶が入ったカップ、その奥に人影があった。がたがたと大きな音を立ててアリゼーが入ってきたのにぴくりとも反応しない。
「水晶公!」
 アリゼーは抱えていた紙袋を置き、部屋の奥に飛び込んだ。テーブルの周囲に敷かれた薄い絨毯の上に、水晶公が倒れていた。膝を曲げ、体を丸めるようにして横たわっている。
 休息をとっているのかと一瞬思ったが、それにしては場所が不自然だ。手にはなんらかの器具が握りこまれており、不意にここへ倒れ込んでしまったのかもしれないと推測ができた。
「ちょっと、しっかりして! 水晶公!」
 体に触れ、状態を確かめる。脈もあるし呼吸もしている。ただ少し苦しげな表情で眉をひそめている。呼びかけても目覚める様子はない。
 アリゼーは手をかざし、意識を集中させる。軽い治癒術でも少しの足しにはなるかもしれない。
 術の感覚としては手応えを感じた。けれど水晶公の様子は変わらない。やっぱりこの程度の治癒術だと、と歯噛みしながらアリゼーがもう一度術を発動させようとしたとき、目の前の体がぴくりと動いた。
「……う、うう」
「水晶公! 気がついた……!?」
「ア、アリゼーか……? 私は、いったい……」
 水晶公はぼんやりとした瞳をこちらに向ける。
「そのままじっとしてて、もう一度術をかけてみるから」
 アリゼーの言葉にこくりとうなずき、水晶公はそっと目を閉じた。
 術はちゃんと浸透している。何か深刻な病気や怪我、毒物にあたったというわけでもなさそうに見える。ただ体が衰弱状態にあるのは確かだった。
「こんな状態になってるなんて……いったい何があったの?」
 水晶光はのろのろと目を開き、何か言い淀むようにアリゼーから視線を逸らした。



「この三日なにも食べずに寝てもなかったあ!?」
 アリゼーが思わず大声をあげると、水晶公は恥ずかしそうに頬をかいた。
「面目ない……ちょうどソウル・サイフォンの機構について、あと一歩でたどりつけそうな局面だったのだ。それでつい時を忘れて……」
「だからって三日はないわよ三日は! 私が来なかったらどうするつもりだったの?」
「確かに、アリゼーのおかげで助かった。集中していたので、誰も入らないように言付けてあったからな……」
「私たちのために頑張ってくれてるんだから、あんまり言うのもだけど……あなたが倒れたら元も子もないんだから」
 ソファに背をあずけた水晶公はすまない、と何度も頭を下げようとする。倒れた水晶公をアリゼー一人で運べるはずもなく、なんとかソファにたどり着くまで肩を貸すのが精一杯だった。それからしばらく休息し、今は顔色もいくらかよくなった。
「さ、これも飲んで」
 アリゼーが差し出したのは茶器に入った濃い色の液体だった。どことなくしっかり煮出した茶に見えなくもない。
「な、なんだこれは……?」
「シェッサミールさんからの預かりものよ。悪いとは思ったけどあなたが寝てるあいだに勝手に用意させてもらったわ」
 シェッサミールに頼まれた届け物の中には、薬草茶や謎の薬らしき液体、体に良さそうな謎の食品などがぎっしりと詰め込まれていた。彼女も水晶公の身を案じ、このような状態になりかねないことも見越していたのだろう。
「シェッサミールからということは……つまり」
 アリゼーはにっこりと笑って、ずいと器を水晶公の顔の前に突き出した。
「反省してるなら、飲むわよね?」
 水晶公は半笑いのまま顔を引きつらせ、器とアリゼーの顔を交互に見た。震える手でおそるおそるとそれを受け取ると、覚悟を決めたようにぐっと口に含んだ。
「に、にがいぃぃぃぃ……!!」
 まるで子どものような叫び声があがった。


 水晶公はしばらく経つと平静をとり戻し、静かに茶を飲み始めた。この茶はもともと水晶公の部屋にあったものだ。アリゼーのぶんもついでに用意させてもらった。
「これに懲りたら、ちゃんと睡眠はとることね。あと食事も」
「はは……肝に銘じるよ」
 アリゼーは、ソファの右手にある小さな椅子に腰かける。情けなさそうに眉を下げる水晶公を見て、先ほど医療館で受けたシェッサミールの言葉を思い出す。
 ――自分の体のことは、やりすぎなくらいに大事に大事に気にかけてあげないと。
 こんな風に危なっかしい水晶公は、いつもアリゼーたちのことをやりすぎなくらいに案じてくれる。もういいと言っても、大事のためにとあれこれ手をかけてくれるのだ。
 そんな水晶公のことを、多くの人がいつも気にかけている。アリゼーも他の暁の面々も、あの人だってそうだ。
 一度自分の身を捧げようともしたことがあるだけに、目が離せないところがある。アリゼーたちの帰還についても、召喚者である水晶光の命を差し出す方法を“もしも”の選択肢として提示したことがあった。当然、きっちり怒った。
 けれど、アリゼーにもいくらか似たところがあるのに気付く。いざ自分のことになると視野が狭くなってしまうのは、周りの面々にも見られることだ。誰にも多かれ少なかれそういうところがあるのだろう。怪我の治療をおろそかにしようとした今日のアリゼーのように。

「アリゼーは治癒術も得意なのだな」
 うつむいていたアリゼーに、水晶光がふと話しかけてくる。
「戦いの中でも見たことがあったが、おかげで本当に助かった」
「……アルフィノにくらべたら、応急処置程度のものしか使えないわ。治癒の基本は一応学んだけど、なんというか、性分みたい」
「アルフィノの治癒術は確かに一度習いたいほどの熟達ぶりだが、アリゼーも柔軟で幅広い術をたくさん身につけているだろう」
 ふと足の傷がピリ、と痛んで、首を振った。
「まだまだ……足りないことばっかりよ。水晶光こそ、いろんな魔法も技もお手のもので、どんな状況にも対応できてすごいと思うわ」
「私は、長く生きているぶんだけ扱えるものも多少あるだけさ」
 こともなげに笑う。長く生きている、という言葉の重みが、以前よりもよく分かる。水晶光の体には、遠ざけられた第八霊災やそこに生きていた人々の記憶が刻まれている。この力強い街とともに生きた時間が息づいている。
 水晶に覆われた右腕が、テーブルに積まれた本の表紙を撫でた。
「ねえ……前から聞きたかったんだけど、その腕、感覚はあるの?」
「ああ、もう長くこの状態だから、左腕の扱いとほぼ変わらないよ」
 まじまじと見つめるアリゼーに右の手のひらを差し出し、握ったり開いたりしてみせる。
「この腕も、塔の一部なのよね?」
「そうだ。だから今の私は中途半端に人の身である部分と、塔の機構である部分を持ち合わせている状態というわけだな」
 中途半端、と自分を皮肉るような言葉にアリゼーは少し顔をしかめる。人間の体は一定時間ごとに眠らなければならないしお腹もすく。それが目的の達成のためには不便だと感じているのでは――などという邪推が浮かぶ。
「だからって、寝なかったり食べなかったりしなくてもいいわけじゃないでしょう?」
 水晶公は目を細め、少しのあいだ何も言わなかった。
「このまま時が過ぎて塔の機構化が進めば、いずれ完全にそうなる可能性もあるのかもしれない。けれど今は……人として、こうしてアリゼーと茶を楽しめることを嬉しく思うよ」
 カップを持ち上げ、アリゼーに笑いかけた。
 いろんなものが変わることを余儀なくさせてくる。前に立ちはだかるものは次々と現れる。アリゼーたちの魂もいつまでここに留まれるかわからない。原初世界の情勢も刻一刻と変化する。水晶公が塔と完全に一体化するときがいずれは訪れる。
 何も、誰も待ってくれない。いつか強くなるまでなんて、いつか夢が叶う日までなんて、悠長に構えている暇はいつだってない。

「人間に……戻りたいと思わないの?」
 思わずそう口走っていた。
 水晶公が目を丸くしてこちらを見たのに気づき、慌ててしゃべろうとする。
「人間っていうのは、ちがって、そう……あの人から聞いたから、あなたと出会った頃の話……あ、聞いたっていってもほんとに少しだけよ!? だから、なんていうか……」
 急にあわてふためくアリゼーに、水晶公は大丈夫だ、と手のひらを見せる。
「つまり、昔のように……もう一度、あの人と出会った頃のように戻りたいと思わないのか、ということだろうか」
「私から見てると、あの人といるときの水晶公はとても楽しそうで、生き生きしてて……前に一緒に戦いに出かけたときも、見たことないくらいに嬉しそうだった」
「そんな風に見えていただろうか……改めて指摘されると、恥ずかしいな……」
「はじめはあの人が光の加護を受けた英雄で、特別なひとだからそうなのかと思ってたけど……ううん、でも実際、あなたにとって特別なひとだったのよね」
 水晶公は、おどろいたように瞬きをする。
「ごめんなさい、知ったような口で……あまり触れられたくない話だったわよね、きっと」
「いや、いいんだ。今となっては別に隠す必要もないし、あの人の冒険譚の一つとしてアリゼーがそれを聞いたのなら、むしろ誇らしく思うよ」
 水晶の手を胸に当て、ひとつ穏やかに息を吸って吐いた。
「あの日々は、いつでも輝かしくこの胸にあり続ける。古代の謎に、あの人と挑み、解き明かそうとした……」
 大事にしまっていた宝物をひとつずつ取り出してながめるように、水晶公は語った。その口ぶりから、あの人との冒険の思い出が本当に大切なものなのだと、言葉よりもはっきり身にしみて理解する。
「だから、あの人を救えるのなら、そのために己の体が塔の一部になってもかまわないと思っていた。あの(、、)美しい水晶の塔が、輝かしい冒険のひとかけらとして残り続けるのなら」
 アリゼーは、自分の指先が震えるのを感じた。言葉にできない感情が体じゅうを駆けめぐり沸き立って、どくりと音を立てる。
 ――私に、できる?
 問いが、突きつけられた。
 ――あの人を助けるためだとしたら、自分の身を差し出せる?
 これまで何度も、自分の無力を感じた。誰かの命が自分の目の前にあり、救えたかもしれない可能性を握っていた。けれど必死に手を伸ばしても、すり抜けていく。無残に、あざ笑うかのように、あるいはそんな形容もできないくらいに淡々と、いつも指先の少し向こうで何かは失われる。
 だから、強くなろうとしてきた。悔しさに唇を噛むたび、今度こそ、今度こそとあがいてきた。ただいっしんにそれを諦めずにいることがこの身を支えてきた。
 なのに、もしもその手段があったら、と考えるだけで体が震えた。はっきりと、怖い、と思った。仮定の話であってさえ、どうしても拭えない感情があることに気付く。

「アリゼー、どうした?」
 はっと顔を上げると、水晶公がこちらに近づいて心配そうにのぞき込んでいた。
「つい長話をしてしまったから疲れただろう。そろそろ……」
 そうして立ち上がろうとするローブの端をぐいと引っ張った。わっ、と驚いて水晶公は再度座り直したが、それでもローブはずっと握ったままでいた。
「アリゼー……?」
 困惑したように呼ぶ声を、うつむいたままで聞く。目を閉じて、開いて、胸の底からしぼり出すように口を開く。
「私……あなたのこと、羨ましいって……ううん、悔しい、って思ってた」
 水晶公の口から話を聞いて、改めて分かった。アリゼーが抱いていた感情がどういうものであったのか。
「あなたは、あの人のためにぜんぶを懸けて……命さえも引き換えにする覚悟を持ってきた。そして実際に世界もあの人も救われた」
「あの人も世界も……私が救ったわけではないよ。皆のおかげだ」
「あなたがそう言うのはわかってたけど、私がしてるのは覚悟の話よ。そうするのが正しいって思ったから、あなたに導かれてこの世界の旅は始まったわけでしょう」
 アリゼーはそっとローブから手を離し、宙にさまよう自分の手を握りこんだ。
「私は……あの人の背中を追って強くなろうとしてきた。でもあの人の命は、自分の命と引き換えられない。それほど私は強くないし、その覚悟だってない。私の命ではあの人を守れやしない、釣り合わないの」
 少し戸惑うように揺れる紅の瞳を見据えた。喉が震えるのをこらえて、握りこぶしに力をこめた。
「でもあなたはそれができた。だから……悔しいの」
 エオルゼアの剣になると決意した日からどれほどの時が流れただろう。アリゼーには濃密に思える年月でも、こんなちっぽけな時間と経験が、時を超えて街まで作り上げた水晶公の足下にも及ぶはずがない。
 分かっていても、悔しかった。アリゼーには到底できないことをやってのけたことが。その力が自分にもあれば、と思ってしまったのだ。


「……誰かの命に釣り合うとか、釣り合わないとか、そんなことを言ってはいけない」
 しばらくして、重々しい声が沈黙を破った。
「私の体や命を引き換えに、というのはあのときの私にとって最善を尽くした手段であっても、取るべき最良の選択肢ではなかった。今となっては痛いほどにそれを理解したつもりだ」
 水晶公は、静かにアリゼーを見つめ返した。優しく真剣なまなざしが揺れる心を引き寄せる。
「アリゼーが自分の命と引き換えられないと思うのは、きちんと自分の命を大事にしている証だ。自分はかけがえのない存在だと自分で理解している。それは誇るべきことだ」
 穏やかに語りかけられる言葉に、アリゼーは何かがこみ上げるのを感じた。胸が震えて、視界がすこしぼやけた。
 ――アリゼー。
 父の、母の、兄の顔が浮かんだ。祖父の声が聞こえた。暁の皆の、大切な友人の、あの人の、差し伸べてくれた手がとてもあたたかかったことを思い出した。
 ――私には、そのやり方は選べない。
 もどかしい感情が、かけがえのない人々の姿に変わっていく。アリゼーの中にある想いから生まれたそれが、また在るべき場所へ還っていく。そんな心地がした。
「そうよね、私は……あなたのようにはできない。そうするべきだとも、本当は思ってない」
 目元をそっと指先で拭い、アリゼーは顔を上げた。
「だから私は、そう、別のやり方を探すことにする。最後の最後まで、諦め悪くね」
 水晶公があの人と過ごした日々を大事にしていたように、アリゼーにも大事なものがたくさんある。今まであの人と一緒に過ごした時間や思い出、この世界での日々すべてがアリゼーにとっては誇らしく、失くしたくないものだ。ほんとうは何とも比べることなどできない。
「だってあの人は……すごい英雄で、無理だって言われてたことを次々やってのけて、誰もが認めるくらい本当に強いひとだけど」
 自分の無力と同じくらいに、分かることがある。憧れるほどに眩しくて強いあの英雄でさえ、アリゼーと同じ恐れや悲しみをどこかに持っている。
「それでも、あの人は、もし私やあなたがいなくなったら、絶対に悲しむのよ」
 だから、悲しませないようにあがき続ける。届かなくても足りなくてもこの心はそうしたいと叫んでいる。
 水晶公はかすかにうなずいたあと目を伏せると、小さくなにごとかつぶやいた。
「ああ、あの人が悲しむ顔は、見たくないな……」
 アリゼーが聞き返すと、なんでもない、と静かに首を振った。
「いや、なに、とても身に沁みる言葉を聞かせてもらって、柄にもなく胸が熱くなってしまった。アリゼーは、本当にあの人のことを想っているのだな」
「想っ……!? そ、そんなんじゃなくて、実力者として憧れっていうか、目標にしてるのは確かだけど! ヘンな言い方しないでくれる?」
「気に障る表現だっただろうか……すまない」
 焦るアリゼーに、水晶公は申し訳なさそうに耳をぺたりと伏せる。
「べつにいいけど……あ、そう、この機会に、あなたにもう一つ伝えておきたいことがあるの」
「ああ、なんだろう?」
 アリゼーは椅子から立ち上がり、テーブルをはさんで水晶公の正面に立った。
「私の魂をここに呼んでくれて、ありがとう」
 心からの笑みを浮かべて、そう言った。
「あなたは、私や他の皆がここに来たことを召喚術の手違いだって言ったけど、きっと偶然じゃないわ。ここに導かれるべくして来たって、私は思ってる」
 アリゼーは少しだけ目を閉じる。あの人と約束した。ひとりにしたら許さないと。
 本当の原理は分からないが、その約束とこの想いがアリゼーの魂をここに連れてきてくれたのかもしれない。それを水晶公が導いてくれた。おかげでアリゼーは英雄と同じ世界にいられる。
 水晶公は目を丸くして聞いていたが、やがてその表情がかすかな微笑みに変わる。
「本当に……あなた方がいてくれてよかったと、私も思っている。だからこそ向こうへ無事に還すために、この力を尽くさねば」
「頑張ってくれるのはいいけど、分かってるわよね?」
「あ、ああ……こんなことは二度とないように気をつける」
「持ってきた差し入れのお茶もちゃんと飲むのよ。守衛の人とライナにも言付けておくから」
「そ、それは……いや、なんでもない……」
 それはまずい、というような顔をされたが、アリゼーがにっこりと首をかしげると慌ててかぶりを振ってみせた。



 もう一度水晶公の容態を確認し、星見の間をあとにしようとした時にはもう夕刻だった。膝にブランケットをかけた水晶公は、手元の文献の整理をしていた。
「また何か始めようとして……私は帰るから、さっさと寝てちょうだい」
「アリゼーがかまわないなら、もう少しくつろいでくれてもよいのだが」
「くつろぐべきなのはあなたでしょ! はあ……本当に反省してる?」
「ああ、すまない……アリゼーには本当に助けられた。きちんとこのあとは休息をとらせてもらうことにするよ」
 本人はこう言っているが、なかなか信用ならない。ライナや暁の面々など、この部屋に入れる人間には改めてきっちり共有しておくべきだと思った。
 水晶公とこんなに長く話したのは初めてだった。そう思いながら、ふと、アリゼーの問いに対する彼の答えを結局はちゃんと聞いていなかったことに気付く。
 ――人間に……戻りたいと思わないの?
 もう一度聞いてみようかと思って、やめた。それは彼の内にだけある想いで、本来アリゼーがむやみに立ち入ろうとするべきではない。
 けれどアリゼーは、ここに至って彼がどんな気持ちでいるのか、以前よりも理解できたような気がしていた。
「帰る前に、もうひとつだけ……私たちの魂がちゃんと、あっちに還れる道ができたときは」
 扉のそばから、少し離れた水晶公にぴっと指をつきつけた。
「あなたにも、これがいいって、ちゃんと一番の選択肢を選んでほしい」
 これでよかった、ではない、心が向かう最良の道を、目指したいものを選び取る。あの人のためにすべて懸けた彼なのだから、それくらいしてもらわないといけない。それこそ、釣り合いがとれない。
「じゃ、また来るわ!」
 水晶公の反応を待たず、勢いよく扉を開ける。そのまま部屋を出て、来たときと同じ階段を駆け足で降りていく。
 途中で、また足の傷がずきりと痛み、アリゼーはそっと歩調をゆるめる。ゆっくりと、一段ずつ足を下ろして踏みしめていく。
「私も……これがいいって言ってみせなきゃね」
 どこまでも続くような水晶の階段だけが、そのつぶやきを聞いていた。





 快晴のモードゥナの空を見上げ、アリゼーはうーんと伸びをした。
「どこ行ったのかしら……」
 石の家を出て、レヴナンツトールの住人に聞き込みをしながら尋ね人を探し歩く。朝にちらりと姿を見たきりで、さっぱりどこにいるのか見当もつかない。早く見つけないと、アリゼーたちを待ちきれずに先に行ってしまわれるかもしれない。それは避けたい。
 北にあるロウェナ記念会館に入り、そこでも話を聞く。二階に上がり、外の休憩所をのぞく。まだ昼を過ぎていない頃で他の冒険者たちの姿もない。
 ここもハズレか、と思ったとき、ちょうと休憩所の反対側に目が向く。テーブルや椅子のない、日陰になって見づらい端のほうに人の気配があった。わざわざ運んだのだろう椅子を壁際にぴたりと寄せ、重そうな本を膝の上に乗せている。
「こんなところにいた! ちょっと、ラハ!」
 呼ばれるとぱっと体を起こし、アリゼーのほうを驚いたように見る。
「こーんな晴れた日に、なにやってんのよ」
「いや、昨日この文献を譲ってもらってさ……古代のすっごい貴重なものらしいから、早く読みたくって」
 グ・ラハ・ティアは目を輝かせたままアリゼーに本の表紙を見せる。当然ながら古代の文字らしく、題字もなんと書いてあるのか分からない。
「読書もいいけど、出かける気はないの?」
「今日はこれと格闘しようかなと……」
「あの人の誘いでも?」
 ぴく、と耳が動いて目の色が変わった。
「どこか行くのか?」
「依頼で、ザナラーンのほうまで行くそうよ。人手があったほうがいいらしいから、私もついていこうと思ってるんだけど」
「そ、そうなのか」
「でもラハは読書で忙しいみたいって、伝えておくわ」
「行く! オレも行かせてくれ!」
 本をテーブルの上に置き、飛び跳ねる勢いで立ち上がる。
「いいの?」
「本は明日でも読めるし、大丈夫そうなら……一緒に行きたい」
 彼は、そわそわと落ち着かなさそうに視線をうろうろ動かした。
「そうと決まればさっさと行くわよ、ラハを探してたせいでけっこう待たせちゃってるんだから」
「そっか、わざわざオレを探してくれたのか?」
 探すにきまっている。もし置いていってあとでその話を聞かされたなら、こっそりと肩を落とすにちがいないのだ。
 アリゼーはくるりと振り返って、彼を見た。その向こうには澄んだ青空と、遠く霞んだ水晶の塔の天辺が見える。
「よかったでしょ?」
 にっと笑いかけると、一瞬戸惑ったような表情のあと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「……ああ、本当に!」
 それは見た目相応の青年らしい、光がはじけるような笑顔だった。 






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